第13話ナスは想う(1)



絵を描くのが昔から好きだった。小さい頃は友人なんてものはいなかったから、裏が白紙のチラシを探しては、ボールペンをにぎって走らせたものだ。


床に転がっている空き缶に、机に押し付けられたタバコの吸い殻。握りつぶされた札束に、たまに訪れる母親を女にしていく男の背中にあった虎の絵。


目の前にあるものはなんでもデッサンした。教科書に載ってる偉人の顔に、美術の教科書に載ってる画家の絵さえ。ゴッホ、サンドロ・ボッティチェリ、ヨハネス・フェルメール。あぁ、今でも覚えてるな。カタカナは嫌いなくせに、自分が描いた画家の名前は忘れる事はないらしい。


無我夢中になんでもかんでも描いていた。それが極道には必要のないスキルだと気づいてからは、描くことをやめた。その時の気持ちは今でも覚えてる。


唯一の友人を亡くしたような感情だった。


絵を描く趣味は、極道にはいらない。絵で金が稼げるのか、極道が。絵で金を回収できるのか、極道が。当時組頭だった平井沢さんに言われたそれに、納得こそはできなくとも、理解するしかないと自分の脳に覚え込ませてからは、必死だった。


絵の勉強を諦めて、金や経営の勉強をした。顔がいいのだからとコミュニケーションの勉強もした。極道に絵は必要ないと言われる理由はわからないでもないが、ならば勉強も必要ないのではと疑問を抱いた時には、自分は気づけば若くして組頭になっていた。


「蜜柑さん、この、サークル名の事なんですが」


蜜柑さんを食事に誘うには勇気が必要だった。藍千賀に朝から仕事を言いつけて、しかもその内容が「店の予約をしろ」なんて物になるとは思っていなかったが。それでも勇気を出して、誘ったのだ。


俺にとって、彼女は神のような存在だった。大人になってから信仰するかのように想った人は、今思えば平井沢さん以外初めてだ。彼女の歳がいくつかはしらないがおそらくは俺よりは年下だろうに。ああそれでも、心酔するしかないこの文章を見るに、もっと高い店に連れてくるべきだったと思った。


「はい」


担当していたコックの白鳥は消えた。勘の鋭い人間だ。俺が連れてきたこの人に気を遣って離れてくれたのだろう。個室の部屋は、俺と蜜柑さんだけの二人きり。以前とは違って、向かい合わせではなく隣に肩を並べている今、少しの緊張がさらに増しているのは、先ほどまで見ていた彼女の小説に感銘を受けすぎたからだろうか。


食後のコーヒーを手にしながら、蜜柑さんが俺の顔を見上げた。近い距離に一度びくりと肩が揺れる。女性と二人で食事はしないように気をつけてはいたが、あっさりとしてしまったな。そんな思いを投げ捨てて、彼女の目をまっすぐと見つめる。失礼のないように。神から目を逸らすなんて、無礼だろう。


「サークル名は、俺と蜜柑さんの二人の名前、と言うことですか?作者名のような」

「あー…グループ?みたいな。バンド名的な感じですかね」

「あぁ。なるほど」


蜜柑さんからもらった資料には、やらなければいけないことが羅列されていた。タイトル、ページ数、内容、印刷所、サークル名、値段。同人誌を出すためにはやらなければいけないことが多すぎる。


蜜柑さんは既に何冊か本を出していたから、わかるのだろう。経験者は凄い。部屋に保管している彼女が出した同人誌のいくつかを思い出して、ついに俺も出すのかとワクワクする。


31の極道が何に胸をときめかせているのか。これでも組頭だというのに。心のなかで自分にあきれながら、彼女の顔をもう一度見る。


彼女は素敵な人だ。


素敵な小説を書く人だからそう思ってるわけではない。普段の交流からもわかる人柄と、こんな俺を誘ってくれる優しさから、わかることだった。


「どうします?私ネーミングセンスないから…」

「そうですね、俺も特に思いつかないな…」

「じゃあ宿題にしましょうか」

「宿題?」


蜜柑さんの言葉に首を傾げた。彼女は笑顔を浮かべている。この歳になって、宿題を出されることになるとは。彼女は笑ったままだった。


「そこまでかたく考えなくても」

「ですが、それが俺達二人の名前になるんですよね」

「まぁ……子供の名前つけるような感じですしね?」


子供、だと。


神との子供?余計に頭が混乱してしまった。

はてなマークをたくさん浮かべて、彼女の言った言葉をもう一度頭に反芻させる。


子供の名前つけるような感じですしね。



だめだ、こんな極道とこの神じゃ釣り合うわけないじゃないか。そもそも神との子供を俺には産めない。いやまて俺は男だから、産むのは彼女が。


神が子供を産むだと?そんな事、あり得るのか?


混乱している頭はどうにも抑えられない。食後にと渡されたコーヒーはすっかり冷めていて、一口のんでも、喉の渇きを変えることは叶わなかった。

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