第9話ナスの照り焼き(3)
蜜柑さん、いや、榊原さんと話をするときは何故か緊張をするのが常だった。初めてお会いしたあの時から、いやその前から彼女と直接やりとりを始めた時から多分。
嫌われたくない一心だった。これがオタク特有の推しに認知されたいがされたいわけではない微妙な恋心か、と。ナンバーワンキャバ嬢の聡子が言うには(聡子と呼ぶとブチ切れてくるが出会いが聡子だったのだから仕方ない)、ガチ恋と愛でるはまた違うのだそう。
この人がいいメンタルでいい作品を書いてくれればそれでいい。俺のこれはなんだと聞けば、それは愛でると言うよりは養いたい気持ちらしい。
なるほど、金を出せばいいのかと納得はしつつも、彼女は素晴らしい小説たちを全て無料で提供してくるせいでどうやったって金を渡す事はできなかった。
「ナスさん、いいんですよ?」
「いや、コンビニに入りたいだけだから、流石に家まで送るのはあれでしょうし」
もちろん家まで送ってやりたいが、普通の一般人の彼女の隣をずっと歩くなんて烏滸がましい。彼女の迷惑にはなりたくないのだ。
最寄りの駅まで行って、車から降りた。途中にあるコンビニに入りたいと嘘をついて、もう少しだけ隣を歩きたいと。そう、少しだけでよかった。
神だと推してる彼女と、また面と向かってオタクトークをしたかったのだ。
「そういえばこの前の小説、また素敵なお話でした」
「いやー…直接言われると物凄く恥ずかしいですよなんか。頭の中見られてるみたいな感じがして」
「そうですか?蜜柑さんの頭の中見てみたいですけどね」
「見ないでください流石に」
普段はそんなに話す方ではない。確かに昔から、何か熱のあるものに対しては語り口調になる人間ではあったが。元々そう言う気質があったのだろう、だから組頭になんかなったのだ。口喧嘩で負ける事はないと自負していても、図体がデカくなってしまったからアンバランスだ。
彼女は俺より背が低い。30センチは下にあるその顔を見下ろして、今の自分の振る舞い方が正しいのか、不安になった。
俺はヤクザだ。彼女はそんなものとは無縁で生きてきただろう。それなのに、偶然とはいえ思わず声をかけて、車に乗せるなんて。しかも一緒に外を歩くのは、いささかやりすぎでは。あぁ、オタクと言うのは先のことを考えずに動く動物だった。
「そういえばナスさんって、なんのお仕事してるんですか?」
不意にそう聞かれた言葉に足を止める。住宅街が立ち並ぶ静かな街。止まった俺を不思議に思ってから一歩前に歩いた彼女が、俺を振り返った。
「私はしがない会社員で、webデザイナーやってるんです。ナスさんのスーツ物凄く高そうだから、なんか格式高い仕事なのかなぁって」
「あぁ……」
ヤクザです。
とは、流石にいえなかった。
いや、多分なんとなく分かってはいるんだろう。ただ、ここでヤクザですとはっきり言って嫌われたくなかった。好きな小説を書く人をずっと応援していたい。ただ、それだけの気持ちで接してるのに、ヤクザというだけの理由で彼女から拒絶されるのは、嫌だった。
「金融業…的な感じで…会社経営してます」
嘘はついてない。
俺のこの誤魔化し方に、言葉や文章や語彙力が豊富なこの人は何と思わなかっただろうか。彼女は一度髪を耳に掛けると、にこりと笑いながら口を開いた。きっと聡明な人なのだろうと分かる。分かるから、ドギマギとするこの緊張をどう抑えたらいいのか分からない。
「じゃあ、お休みとか融通効きます?」
「えぇ、まぁ」
一歩、踏み出さないところがこの人の良いところだと思った。初対面で、一発目の対面では人間の事なんて何も分からないとは思うものの、第一印象という言葉があるぐらいだ、大体一回で分かるものだろう。
こんな仕事をしていればごまんといる。対面で最悪な印象を付ける人間の多いこと。全く関係のない人物と会うのは、ある意味で刺激的だった。
普通の女性は、唐揚げ大盛りを頼んでそこまで笑うのか、とか。
男女で会っているというのに、終電前に健全にお別れなんてあるのか、とか。
食べながら話す内容が借金とか会社の事とか、組の事じゃない。男女の関係の内容でもなくただ純粋に好きなものについて語るなんて、初めて会った人間としてもいいのか、とか。
初めて、連絡先を交換したいと思った。
神だと思った人が予想通りの神だった、そんな現実あっていいわけないのに。実際に起こってしまったのだから、仕方ない。
「ね、同人誌出しません?」
「……同人誌…?」
「はい、私たちでコラボ!私小説書くんで、ナスさん表紙とか挿絵書きませんか?」
夜の風が吹く。空に浮かんでるのは月。いや、雲しか浮かんでいない。遠くから聞こえるどっかの家の犬の鳴き声に、この塀の向こうの家から香るカレーの匂い。恐ろしく普通の一日の終わりに、恐ろしく甘美な言葉を俺は今、投げかけられたのだと分かった。
「ナスさん?ナスさん?おーい、ナスさん…ナスさん!?泣いてんの!?」
31歳、独身。職業極道、これでも上の方にいるというのに、まさかその一言で泣く事になるとは。
昔は涙も流さないガキだったし、喧嘩しても眉一つ動かさない、そこらへんの組の下っ端には鬼だなんだと怖がられていたはずの俺が。
蜜柑さん、いや蜜柑様に言われたその一言で、涙を一筋流していた。
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