婚約者と弟と幼馴染――そしてそれぞれの明日

 




 僕は最低の人間だ。

 僕には婚約者がいる。いや、いたと言うべきかもしれない。先日の醜態が原因で、婚約の話は正式に無かったことになりそうだ。

 もともと僕は彼女に釣り合っていなかった。釣り合うように努力はした。でも僕は彼女に並び立つことはできずに、置いて行かれるだけだった。

 それが苦痛で、いっそ婚約などなくなってしまえばいいと、そう思うようになるまでそう長い時間はかからなかった。


 婚約者の名前はアシュレイ・ローズ。僕の家と同格の名家の長女で、文武と魔法に優れた美しい女性だ。

 彼女との婚約が決まった時、僕はひそかに喜んだ。その頃には僕は将来の当主としての教育を受けており、だらしない顔を周囲に見せることは禁じられていたから、澄ました顔で受け入れるだけだったけど。


 その頃の僕は、自身に満ち溢れていた。そして、今は違う。

 僕から自信を奪ったアシュレイを、僕は必死に遠ざけようとした。

 その頃の僕は、自分が彼女に相応しくないから、彼女のために距離を置こうとしているのだと自分に言い訳していた。

 大人になったらちゃんと訳を話して婚約を解消するからと、重ねて自分に言い訳をして、彼女が陰で泣いているのを知らないふりをした。


 僕は最低の人間だ。

 彼女の心を傷つけて、それを彼女のためだと自分に言い聞かせて、さらにはその事で勝手に苛立って周りに当たり散らして、彼女の影口を叩いていた。

 そんな僕の周りから人が離れていくのは当然の事だった。僕の顔は女性に受けが良く、ついでに名家の嫡男で自由にできるお金もそれなりにある。

 だから多くの女の子が群がってきたけど、僕が彼女の悪口ばかり言っているとすぐに離れていった。

 男たちはそもそも僕に近づかず、例外は彼女の弟のアスラと、ことあるごとに僕に張り合ってくる悪友のグラムぐらいだった。


 そんな中で、僕は彼女に出会った。

 エリナ・ユリ。一歳年下で、アスラのクラスメイトで、アシュレイよりも二回りも小柄な少女だった。当然僕よりも小さな彼女は、守ってあげたくなるような可憐な少女だった。

 エリナは頭は良かったけれど、魔法はそこそこで剣技は全然だめで、運動は全般的に苦手だった。アシュレイとは全然違う女の子に、僕は次第に惹かれていった。


 他の女の子たちは僕がアシュレイの悪口を言うと、口を揃えて『そうですね』と、僕の言う言葉に追従して彼女の悪口を言った。僕はなぜだかそれが嫌だった。そしてその理由をエリナが教えてくれた。

 エリナはただ僕の話を聞き、頷くだけだった。肯定も否定もせず、ただ僕の話を聞いてくれた。僕の愚痴を、聞いてくれた。


 それこそが僕にとって大きな救いだった。

 腐りきって全てにやる気をなくしていた僕が、また頑張っていこうと思えるぐらいに大きな救いだった。


 そうして僕が小さな、しかし確かな光を得たとき、おかしな噂を聞いた。

 あの完璧優等生のアシュレイが、エリナをイジメているという噂だった。

 最初は彼女を妬む僕の同類のような人間が流しているデマだろうと思っていた。エリナに聞いても否定するだけだったから、なおさらそう思った。

 だが時がたってもその噂は消えることなく、むしろ次第に大きくなっていった。

 意を決してグラムやアスラに相談すると、彼らもその噂を知っており、さらにはそれが事実だという事も知っていた。


 僕は頭の中が真っ赤になった。

 その時になってようやく、僕はエリナに恋をしているのだと気が付いた。


 そうして僕は一時の熱に突き動かされてアシュレイを捕まえ、婚約破棄を突きつけた。

 アシュレイはどんな時も可憐な淑女だったが、その時は今までに見た事も無いほど粗暴で、下品で、野卑で、生き生きとした様子だった。

 そして、僕はそんなアシュレイに叩きのめされた。

 ついでに学校で騒ぎを起こしたことで停学一週間となり、さらには家の意向を無視してローズ家に喧嘩を売るような形で婚約破棄を突き付けた事が理由でひどい折檻を受けたが、気持ちは割と晴れやかだった。


 これは一方的な思いかもしれないけれど、なんとなくアシュレイと仲良くなれたような気がしていた。今さら恋仲になりたいなんて欠片も思わないし、僕はエリナが大好きだけれど、僕はずっと強く美しいアシュレイに憧れていた。

 次に会った時は心から謝ろうと、そう思った。



 そしてベイル・サルビアはその後、仲睦まじく寄り添うとある二人を見て、ついでに想いを寄せる女の子に冷たい目で邪魔するなと追い払われて、少しばかり特殊な趣味に目覚めてしまった。



 ◆◆◆◆◆◆



 僕には大好きな女性が二人いる。

 一人はクラスメイトのエリナで、もう一人は姉さまだ。前者は女の子として好きで、後者は家族として大好きだった。


 その姉さまだが、最近少しおかしくなった。

 姉さまは婚約者のベイル様に好かれようとしたけど上手くいかずに、ベイル様が想いを寄せているエリナにいろんな嫌がらせをしていた。


 姉さまは頭が良いけど、たまに馬鹿だ。

 エリナへの嫌がらせになっていない嫌がらせもそうだし、ベイル様への対応だってそうだ。


 昔のベイル様はとてもやんちゃで、良く姉さまに張り合っていた。そして姉さまはベイル様に良い所を見せようと、勝負事では悉くにベイル様を叩き潰した。見てるこっちが可哀想になるぐらいの圧倒的な勝利を飾っていた。


 念のために言っておくと、ベイル様は決して才能の無い方では無い。

 やる気をなくして成績を落とした今年度はともかく、一年の時は総合成績で姉さまに次ぐ学年二位だった。ただし二位のベイル様と三位だったグレン様の差は僅差だったのに対し、姉さまとベイル様の成績には大きな隔たりがあった。

 そう、姉さまは何かチートズルでもしてるんじゃないかというぐらいに優秀だった。

 弟の僕はそれが才能だけでなく、血反吐を吐くような鍛錬のたまものだと知っているのだけど。


 姉さまは基本的にMだ。苦しければ苦しいほど喜ぶドMだ。いや変な意味では無く、人生的な意味で。

 姉さまはいつも苦しい選択肢を選ぶ。苦しい選択肢を選び、それを馬鹿みたいな努力の積み重ねで何とかする。なまじ才能があるから、一人で何でもできてしまうから、僕をはじめ周りの人間も姉さまを手伝わないのが当たり前になっていた。


 そしてそれがひどい思い違いなのだと悪霊さん兄さまに教えてもらった。

 僕たちが姉さまを手伝わないのが当たり前だと思い込んでいたように、姉さまも周りから助けてもらえないのを当たり前だと思っていた。

 僕たちが、それを当たり前だと思い込ませてしまった。


 姉さまがおかしくなっていたのだって、恋煩いが変な方に働いているのだろうと思った。

 エリナにも実害はない……というよりも、むしろ喜んでいたので、止めるに止めれなかった。


 だが姉さまの心は、僕が思うよりもずっと傷ついていた。

 今になって振り返れば、気付くことはたくさんあった。姉さまはいつも多くの人に囲まれていたけど、その数が減っていた。姉さまの悪い噂を耳にすることが少しだけ増えた。

 姉さまにそれを気にした様子が無かったけど、それはきっと悟らせまいと、心が傷ついても自分で何とかしなければと、そう思い込んで気丈に振る舞っていたのだろう。

 それに気付かなかった僕は、駄目な弟だ。


 そうして姉さまに悪霊が憑りついた。


 事件があった当日はそんなことは思わなかったけど、翌朝に目が覚めると、姉さまが悪魔か何かに憑りついたのではないかと疑問を持つようになった。

 そして悪霊こと兄さまは簡単にそれを白状した。教会に連れていくと言っても怯える様子も抵抗する様子も無く、淡々と姉の為にそれは止めておけと、そう言った。


 兄さまは僕が今まで出会ったどんな人よりも破天荒だったけれど、不思議と嫌悪する気にはならなかった。むしろ惹きつけられたと言ってもいい。


 兄さまに殴り飛ばされたベイル様も、どこか憑き物が取れたような顔をしていた。悪霊に殴られて憑き物が取れるって言うのも変な話だけど、兄様には不思議とそんな魅力が宿っていた。

 苦しんだ姉さまの心をきっと癒してくれると、そう信じられる魅力を持っていた。


 ……ただそれはそれとして、グラム様の心をへし折ってそのまま逃げ出すのはひどいと思いましたが。



 そしてアスラ・ローズはこの後、大変な目に遭った。いやもう本当にとてもとても大変な目に遭った。

 ローズの姉弟は状況に流されやすい性格であり、多様な人間を引き付ける魅力を持っているのだと、追記しておく。



 ◆◆◆◆◆◆



 俺には好きな女がいる。

 その女には婚約者がいる。

 女は婚約者を愛していて、俺の事は兄弟のように親しみを持っていても、男としては見ていなかった。

 だから女が幸せになれるなら、俺はあいつの兄弟でいようと思った。

 歳は同じであいつの方が優秀だから兄を名乗る気は無く、しかし弟になるのも気分が悪いが、とにかく家族として女の幸せを願った。


 女の婚約者はダメな奴だった。

 俺は女の幸せを願ったが、婚約者を簡単に認める気はなく、よく突っかかっていった。

 勉強では勝てる気がしないが、魔法は同じくらいで剣は俺の方が圧倒的に上だ。

 そうして勝負するうちに、その婚約者の事が嫌いにはなれなくなった。

 二人とも女に勝てないという引け目を持っていたのも、仲良くなった理由の一つだと思う。


 だが仲良くなっても婚約者は、やはりだめな奴だった

 女は婚約者を愛していて、気を引こうとあれこれ手を尽くしていた。

 だが婚約者は女を恐れていた。

 自分より強く優しく美しい女が自分に迫ってくるのを、恐ろしいと怯えていた。差し出される手をとる権利が自分には無いと、怯えていた。


 俺はそれが口惜しかった。

 婚約者が女に釣り合おうと努力しているのは知っていた。だがそれでも女には及ばなかった。いっそ女にもう少し手を抜けとアドバイスしようと思ったが、出来なかった。いつもひたむきで全力な女に俺は惹かれた。

 だから俺は、そのアドバイスが出来なかった。


 婚約者は疲れたのか、次第に努力する事を止めて、女と大きく差を開かれていく事となった。

 俺との勝負も、何かと理由をつけて逃げるようになっていった。

 俺は婚約者が女に相応しくないと、二人が寄り添うのは無理だと思いながら、それは女への未練がそう思わせているのだと己を戒めて、婚約者を諌めた。

 だが婚約者は俺の言葉に耳を貸さず、他の女にうつつを抜かした。


 婚約者が懸想したのは女の弟のクラスメイトで、なにやらパッとしない少女だった。

 幼く弱そうで、一人では何もできそうにない。男が恋い焦がれる女とは対極にいるような少女だった。

 そんな少女にも目を見張るべきところはある。頭が良くて周囲への気配りがうまい。人としては間違いなく美徳だろう。

 だが俺は少女が気に入らなかった。


 俺は婚約者を再び諌め、少女にも婚約相手のいる男だから近づくなと忠告した。

 その際に少し荒っぽい言い方になってしまい、女の弟に止められた。弟は女と幼いころから過ごした俺にとっても実の弟のようで、その性根は良く知っていた。

 だからその時に弟が少女に惚れていると気付いた。


 ややこしい事態だった。

 俺は弟から恋愛相談を受けたが、俺は自分のこともままならないような男だ。あまり役には立てなかった。

 だが弟に頼られるのはそう悪い気のすることでは無く、むしろひたむきに少女を想っている姿には好感が持てた。俺はそんな弟に、女を懸想していることを打ち明けた。


 婚約者のいる姉に想いを寄せるなど軽蔑されると思っていたが、弟は懐深く俺を許した。

 聞けば少女にも想い人がいて、弟も片思いの最中だった。

 少女の想い人は教えてもらえなかったが、報われぬ想いを持つ俺と弟は強いシンパシーを感じ、よく話をするようになった。


 そうして弟に気をかけている内に、女に変化があった。

 婚約者は少女がイジメられていると言って俺たちに協力を申し出た。

 俺はそれに頷いた。少女がいじめられたというのは一応、本当だろう。

 弟が見過ごしているのだから問題は無いはずだが、俺はそれよりも女と婚約者の二人がしっかりと話し合う場が必要だと思った。



 そして、あの事件が起きた。

 婚約破棄という言葉に喜んでしまう心を必死で殺して、俺は二人に仲良くしてもらいと願い、しかしそれが独りよがりで間違っていたものだと思い知った。

『女が一途だと思うな』と、女がそう言った。

 婚約者が女にしていることを知っていたのに、俺もそう思い込んでいた。俺はこの時、初めて自分の気持ちに正直になっていいのかもしれないと思った。

 思ってしまった。


 俺は熱に浮かされて準備を進めた。

 今の家族のような関係が壊れるかもしれないという不安は当然あった。あんな別れ方をした女の心に付け入るのかと己を責める気持ちもあった。

 だがずっと蓋をしていた気持ちが溢れだして止まらなかった。


 一晩徹夜して、準備をした。

 そして女の家の外で、女が出てくるのを待った。女の父は厳格だ。問題を起こした女を家に閉じ込めておくだろう。もしも抜け出して出てくるならここからだろうと思って、ずっと待っていた。

 一週間でも一か月でも待つつもりだったが、女はすぐに現れた。

 弟も一緒にいたが、俺の気持ちは知っている。邪魔者扱いをする気はなかった。

 俺は女を見た瞬間から口から溢れだそうとする恥ずかしい言葉の数々を必死に押し止めて、ぶっきらぼうに彼女を誘った。誘ってしまった。



 結果として、俺は泣いた。

 恥ずかしげも無く泣いた。

 気持ち悪いと言われた。

 女に恋なんて二度とするかと思って泣いた。



 弟はそんな情けない俺に付き合ってくれた。懐深く姉に似て優しい弟は、俺が泣き止むまで肩を抱いて慰めてくれた。

 弟は姉によく似ている。整った顔立ちもそうだ。むしろ姉よりも柔和な分、可愛らしいとその時思った。そして姉ほど無理に鍛えていない分、男としては細身で華奢だ。弟は、アスラ・ローズは、色気のある男だった。



 ……、いやいやいや。それはだめだ。相手は男だ。そして俺も男だ。



 だが浮かんでしまった気持ちは消せず、もう気持ちを押し殺して耐える日々には戻りたくない。

 そんな風に、俺は思ってしまった。



 そしてグラム・クローバーその後、自分に正直になり、一部の女性から熱い視線を送られることになった。女性たちはグラムたちの邪魔をしない様にと、決して声をかけずに遠くから見守るだけの存在になった。




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