第118話争もつ戦
彼女は、様々な苦しみを1人で乗り越えなければならなかった。絹穂の苦楽を共有している知努がその心情を察し、静かに感謝の言葉を呟く。
染子は一品料理を完食し、品書きを眺める。その直後、2人の女性店員は座敷の机へ鍋用のガスコンロを置く。すぐ1階へ戻り、丸く巨大な鍋も運んで来て点火する。中の丸い豚バラ肉と山盛りのモヤシが目立っていた。
テッチャンの他に、追加注文のハチノス、アカセン、ウルテ、センマイを入れている。ユーディットは彼の説明と違う鍋の形を見て、抗議した。陶板焼きのような料理にしか見えない。
「テッチャン鍋とも言うし、ちりとり鍋とも言うよ。店によって鍋の形は変わっているかもね」
「もうクラスの
彼女は知努の背後へ行き、数発背中を殴り、彼が演技掛かった野太い声を上げる。その隙に染子はユーディットのスカートを捲り上げようとして、力強く彼女から頭を叩かれた。
鍋の調理を店員が全て行う為、客はただ食べ頃の指示を待つだけだ。茶碗のような白い皿に添えた玉杓子と取り皿を運んだ後、店員は中身を軽く混ぜる。
店員が立ち去った後、真剣な面持ちの染子は彼の横顔を見つめ、相談事を切り出す。大きな問題を抱えていると想像したのか、彼の表情も強張っていた。
「ちゃんと面倒見るから、体育祭のソーラン節、私の代わりにカツラ被って知努姉さんが踊ってよ」
表情に伴っていない内容のあまり、知努は若干濁りを含んだ気の抜けた声が出る。存在を認めたくない別人格に、白羽の矢が立った。当然、そのような行為は女子体育教諭が認めない。
代理を立てたがる理由を彼女は続けて語った。かつて大学生の忠文が、商法の講義を友人に代理出席して貰い、必修単位を得る。その話を聞いて、染子は悪知恵を思い付く。
「忠文はアホでキモイけど、そんな事しねぇよ。それより、俺はシャーマンと同じ立場なのか」
彼女の捏造した話が、忠文の職業を知る糸口となった。交際期間中に、知努は1度も話題に出しておらず、京希がようやく司法関係だと理解する。
染子は、キャバクラの男性従業員の話題へ切り替えた。キャバクラ嬢に必ず1人、担当の男性従業員が付いており、出勤管理や仕事の相談などを行う。容姿の良い人材は、担当キャバクラ嬢の意欲を出させる。
その形態を女子のソーラン節にも取り入れるべきだと、彼女が提案した。今度は、染子の担当男性に知努を据え置き、体育祭当日、踊らせる魂胆だ。慧沙が彼の活躍を期待した。
「
早速、慧沙はスマートフォンを持ち、何か入力していた。しかし、1分後、知努に画面を見せる表情は曇っており、状況が芳しくない。
『体育祭の私物化はダメだ。アイツのソーラン節が見たいなら、縄張りのケーキ屋でやらせろ』
LIFEで担任教諭に、提案した内容を却下されている。従業員と店長は知努を贔屓しており、洋菓子専門店が彼の縄張りとなった。知努は否定せず、慧沙の徒労を労う。
鍋が赤く染まりながら煮えると、女性店員から食べ頃の報告を受ける。染子は玉杓子を持ち、取り皿へ豚バラ肉やテッチャンなどを入れた。慧沙の取り皿に具材を運ぶような女子生徒がおらず、彼は特権を失っている。
不機嫌そうに頬を膨らませ、忠清は軽く唸った。そして、染子への説教を知努に命じる。苦笑しつつ彼が玉杓子を持ち、忠清の取り皿へテッチャンやバラ肉、モヤシを入れて窘めた。
「染子、お姉ちゃんでしょ?」
「正味の話、ワシは人生という大レースに命賭けとるんや。行ったらんかい!」
濁声の彼女は、人生を競艇に例えている。芸人と競艇選手の二足の草鞋で、有名な人物が知努は1人しか思い付かない。そのような彼女の言い訳が通用せず、しばらく彼は配膳を担う。
勝つ事に固執する染子が知努をキー坊と呼び、玉杓子を何度も奪おうとした。挙句の果てには、ユーディットの取り皿からテッチャンやハチノスを取り、反撃の平手打ちされる。
「何さらすんじゃ! ヘレン!」
「ドライランドから帰って来る方のヘレンかな? 確かに下はムニャムニャ」
知努がはぐらかした部分を察し、絹穂に横腹を殴られてしまう。ユーディットも彼の頬を平手打ちし、左胸を強く捻じる。紅葉模様が知努の頬に刻まれていた。
ドリブルのように何度も反対の手で頭を叩き、彼女は席へ戻る。染子が大人しくなり、知努は食事に集中した。
鍋の中身はほとんど無くなり、店員を呼んでうどんを追加注文した。うどんの次に雑炊を頼む事が店の定番となっている。店員はうどんを用意し、食べ頃になるまで彼らが再度雑談を始めた。
「僕、知努ちゃんの唯一無二の親友でずっといたいよ」
知努は眉を吊り上げ、指の腹同士を重ね合わせながら囁き声で答える。更に女子らしさを出す為、首を右へ傾けた。見開く双眸が仕草の魅力を潰している。
「うん、良いよ。今日が慧沙くんの命日になる、ね。沢山苦しみながら、私の愛を味わって」
恐ろしい表情を見せられ、忠清は顔を両手で覆う。一方、殺害予告を受けた慧沙が撮影して、心配する。求愛と解釈され、知努に拒まれていた。
うどんの食べ頃を女性店員に伝えられ、彼はそれぞれの取り皿へうどんを入れる。それを見て、懲りず慧沙がいかがわしい発言をした。
「何だか同伴出勤しているような気分だよ。ボトル入れてあげないとね」
「ねぇ、私という彼女がいながら、どうしてキャバクラへ行くの? どうして、私だけ見てくれないの? ねぇ、私の何が嫌なの?」
右手を胸に当て、知努は同じ声で根暗な女の演技をする。1つ間違えば、無期懲役受刑者となっていた絹穂が顔を逸らす。彼女は歪んだ独占欲を汲み取られ、彼に許されている。
所謂『地雷系女子』と呼ばれていた、束縛する女が苦手なのか、慧沙は沈黙した。彼に敵愾心を燃やし、染子がシャンパンタワーの実行を宣言する。
最後の雑炊を注文した後の彼らは、満腹に近く、静かだ。女性店員が頻繁に来て、調理する様子を眺める。知努の肩へ頭を置き、染子は宿泊施設の混浴の有無を小声で確認した。
「無いから全部自分でしろよ。間違えてもすっぽんぽんで徘徊するんじゃねぇぞ」
「ブラジャーのホックって前で留めるのだったかしら?」
下着の着用方法を確認する為、染子が絹穂の背後へ近付き、服の中に両手を入れた瞬間、肘打ちされる。背中の熱気を感じた事に満足し、彼女は座布団へ座り、鍋を覗き込む。
数分後、人数分の木製レンゲが用意され、染子は完成した雑炊を取り皿へ入れる。そして、猫撫で声を出しながらレンゲで雑炊を掬い、知努の口に運ぶ。
昼間と同じく、乳児のような扱いを受けながら彼は食べる。赤い出汁の味が程良く染み込んでおり、充実した料理の締めだ。結婚披露宴に使われたくない光景を慧沙は撮影した。
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