第107話2匹の鮫
すぐ絹穂の太腿から手を離し、染子が彼の胸に片手を伸ばすと上機嫌な表情で軽く揉んだ。劣等感を煽る様な擬音も発し、虚仮にしていた。そして、ユーディットが後ろへ回り、知努の尻を揉んだ。
「やっぱり、胸の感触はキモウトの方が良さそうね。知努が羨ましいから私、性転換して兄になるわ」
「は? 染子はいつから雌性先熟する体の仕組みになったんだ? それより、誤解を生むような発言は止めろ、アホンダラ」
体を震わせながら彼は振り向くと、今にも襲い掛かりそうな表情の彼女が尻肉へ指を食い込ませていた。ゆっくりと拳を握り、何度も知努の肋骨を殴る。激痛のあまり、彼は手で押さえながらしゃがんでしまい、ちょうど目が合った絹穂を威圧するも動じない。
扇動した染子は横で繰り広げられる無言の戦いを気に留めず、知努の髪を乱暴に撫でる。これ以上、無意味と判断したのか、ユーディットが舌を少し出して、立ち上がった彼の背中に顔を隠す。
「可愛い染子ちゃんにちょっと痛い思いをして貰わないとな」
後退りする染子の顔を左手で掴んだ知努は、親指と中指を咬筋へ食い込ませる。小刻みに肩を震わせ、彼女がすっかり怯えていた。顔から手を離すと開口一番に謝罪して、その場から逃走する。
館内で1番大きな水槽の前へ移動するとジンベイザメが一際目立っていた。唐突に染子はジンベイザメの歴史を話す。四足歩行の女鹿に似た体躯の陸上生物から少しずつ進化して巨大な海洋生物となった。
サメ類についての知識が浅い周りの人間は彼女の話を信じ切っており、感心している。しかし、知努だけ怪訝そうな表情で染子の後頭部を眺めた。そして、彼女は振り向き、彼の顔色を窺っている。
「近くで泳いでいるマダラトビエイ、サメと同じ軟骨魚類なんだけど、アレが哺乳類から進化したように見える?」
「軟骨か豚骨か知らないけど、そう見えないわ。何? また昔みたいにシメるわよ?」
マッコウクジラの祖先が、かつて陸上で生息していたパキケトゥス類と呼ばれる動物だった。その話を小学生の知努は染子に話すと信じて貰えず、そこから口論へ発展する。しかし、言い負かされそうになった途端、彼女が鳩尾を力強く殴り、彼を泣かせた。
染子の嘘をそれと無く明かし、知努は鮮やかに光るギンガメアジの群れが泳ぐ様子を眺める。先程まで信じていた人間達が騙されている事に気づき、掌を返した。非難を浴びせられながら悔しそうに彼女は唸る。
「鶴飛はん、生兵法は大怪我の基でっせ」
10日で1割の利子が付く金融業者の真似をした知努は、染子に手首を掴まれてしまう。すぐ関節を固定し、動かせられないようにすると後ろのユーディットが無理やり引き離した。
彼の隣へ来て、忠清がジンベイザメの主食についての質問をする。水槽で泳ぐイワシと適当に答えた染子の口を片手で押さえ付け、知努は正しい答えを教えた。他の鮫と違い、小さな歯しか持っておらず、主にプランクトンを食べている。
数分後、彼は泳ぐカリフォルニアアシカの様子を下から眺めていると近くからスマートフォンのシャッター音が聞こえ、不服そうな表情になりながら振り向く。
「頼むからLIFEのクラスグループチャットに載せないでくれよ。嫉妬した男が馴れ馴れしく絡んで来るからな」
余程、悪評が立っていなければ、教室毎に作られた交流アプリのグループに勧誘される。壮絶な過去を持つ倉持久遠や学級の男子生徒達から疎まれている知努は、そのような話すら持ち掛けられなかった。
知努の忠告を無視して、染子は彼とユーディットの後ろ姿が映った写真を投稿する。色んな人間に情報共有して、話題を提供していた。すぐ教室の生徒達から様々な感想を貰う。
「女誑しはペチャパイチンチクリンが守ってくれるわ。上手く飼い慣らしなさいよ?」
「またディーちゃんを拗ねさせる事を言う。今のディーちゃんなら十分俺を守ってくれる」
満面の笑みを浮かべたユーディットに手首を引っ張られ、彼は他の展示の方へ連れて行かれた。クック海峡で生息するアカウミガメを水槽で見つけた彼女が撮影する。ニュージーランドの北島と南島の間にクック海峡があった。
近くにいたハリセンボンのような棘を纏っているスミツキイシガキフグを指差し、彼が解説した。ハリセンボンと違い、棘を動かす事は出来ない。近年の研究でフグの内臓にあるテトロドトキシンが、餌のヒトデや藻類から得ていると判明した。
生態に全く興味を示さない染子は、調理方法の質問を出す。夕食の話題へ誘導する魂胆が見えており、適当にあしらって次の場所へ進む。
チリの岩礁地帯に生息するカタクチイワシやマイワシが泳ぐ水槽を歩きながら観察する。煮干しに使われる馴染み深い魚のため、敢えて彼は黙っていた。
他の地域よりやや優遇されている太平洋の生物が泳ぐ広い水槽は、いくつも展示されている。ユーディットがその中で奇妙な頭部をした鮫らしき生物を見つけ、隣の彼に訊いた。
「チー坊、あの頭が横に長い鮫の名前、知っているかしら?」
「アレはアカシュモクザメだね。あの頭にロレンチーニ器官という微弱の電流を感知する器官があるよ。それで魚、甲殻類、小さなサメや砂の中に潜むエイとかを探す。後、エイ相手だと頭を使って押さえ込んだりもするね」
同じ軟骨魚類を捕食するアカシュモクザメの異常な食生活に彼女が驚いてしまう。そして、何の躊躇いも無く、染子はそれを霊長類のオランウータンと猿で喩え、知努に軽く叩かれる。
「そういえばあの
彼女の言葉から彼は、小学校時代にぬいぐるみ恐怖症を患ったきっかけの映画『チャイルドプレイ』を思い出す。もし、アパアパが動き出して知羽を口説けば蹴り飛ばされるか、擂り粉木で叩きのめされるだろう。
「アパアパ、色を知る
話に関心を持っていないユーディットは、アカシュモクザメを眺めながらロレンチーニ器官が欲しいと呟く。備われば知努特有の生体電流を探知し、彼の行動次第でゲシュタポのような脅威になる。
「
小学生2人は俯いており、とてもアトラクションの長い待ち時間に耐えられない。しかし、物心付いたころから事ある毎に弟が原因で我慢させられていた染子は悪態を吐く。
「ママのタンパク質に戻りなさいよ! どうして私はいつも我慢ばかりしないといけないの!」
「もう少し年下を労わってくれよ。その調子じゃ将来、恋人の選択肢が俺以外無くなるぞ」
彼女の意見に同調する人間が1人もいないため、予定の変更は無くなった。すっかり不貞腐れている染子が水槽を睨み、寄せ付けない雰囲気を出している。そして、彼は彼女の機嫌を直す提案を出す。
「ハロウィンかクリスマスシーズンに2人でいつか行こう。その時はうーんとワガママ言っていいから」
逢瀬の誘いを受けた女子と思えない口汚い返事を返し、脅迫する。生殖器を狙われてしまい、彼は乾いた笑いしか出なかった。
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