第106話見知らぬ友人
南極大陸に生息する目の白い部分が目立つアデリーペンギンやペンギン種族の中で2番目に大きいオウサマペンギンが水槽に設置された岩の上で歩いていたり、水中を泳いでいる様子が見られず、忠清は不満そうな表情になる。近くの女児もペンギンを一目見たいあまり、泣きじゃくっていた。
人ごみにうんざりし始めているユーディットは水槽の前から人がいなくなるまで待つ事をせず、先程の染子と同じく知努に肩車を頼んだ。言われるがまま、持っていた荷物を床に置き、彼はしゃがんだ。
彼女が座る際に行うべき動作を怠ったせいで乗せた途端、スカートの裾が知努の視界を遮る。その状態に違和感を覚えていないユーディットは彼の頭を軽く数回叩いて合図した。
「ちょっと待って、ママに椅子の座り方、教えて貰わなかったの?」
「私とチー坊の仲だからいいじゃない。あまり細かい事ばかり気にしているとヘラみたいに老けてしまうわ」
スカートの裾を後頭部に移動させ、彼女の両足首を掴んだ知努はゆっくりと立ち上がる。母親らしきオウサマペンギンの隣で歩く全身に白と黒が混じった毛を生やしている子供のペンギンを見つけ、ユーディットは大層喜んでいた。
しかし、肩車している彼は従姉を必要以上に甘やかす対応を快く思わない文月と絹穂から冷やかな目線を浴びせられている。幸い、知努の肩とユーディットの下着が密着していた状況は知られていない。
立ち疲れているのか、嫌がらせばかりする染子は大人しく後ろの椅子に戻り、座っていた。アクリスガラスからなかなか人々は離れず、騒ぎ声とスマートフォンのシャッター音が響いている。
ユーディットが肩から降りた後、彼は忠清と秋菜にも肩車をして、近くの羨ましがっていた女児や男児が両親に肩車をねだる。ベビーカーに乗せられている赤子や他の小さな子供の面倒もあり、すぐ断られた。
「タローとジローはあの後、どうなったの?」
唐突に忠清から想定外の質問をされた知努は一瞬、内容を理解出来ず、答えに詰まってしまう。数秒の間が開き、数年前に観た『南極物語』の2匹の樺太犬に関する質問と察した。
「実際のタローとジローは飼い主の元に戻ったよ。映画の2匹も撮影の後、
また樺太犬が人間の都合で南極の観測基地に放置される事を危惧していたのか、忠清は安堵している。そして次に次男家で留守番していたクーちゃんの心配を始めてしまう。思わず、知努と京希が苦笑した。
「クーちゃんはまだ赤ちゃんだから多分お昼寝しているよ。夜行性のカナコとヨリコも今頃仲良く寝ているはず。知羽が来たら起きるけど」
オーストラリアとニュージーランドに挟まれた海峡、タスマン海に生息する背ビレの後部が鎌の刃に似ていたカマイルカの水槽は、比較的、鑑賞している人数が少ない。ペンギン達が見られなかった知努はカマイルカの水槽に移動すると横から文月が揶揄した。
「カマイルカってオカマのチー坊の仲間じゃね?」
「ピュゥゥイキュゥゥイッキュイ」
小学生と他人の都合を考えない女子高校生に肩車して、疲れていた彼はイルカの鳴き真似で返事する。煽りと捉えられ、眉を顰めて軽く知努の足首を蹴って文月が沈黙した。
彼女の肩に手を回すと大人しく彼の方へ体を寄せる。仲睦まじい姿を後ろからユーディットに見られてしまい、温厚な彼女から出されていると思えない程、低い声で脅迫された。
「チー坊が他の女に触れる度、私の幻影しか見えなくなる呪いをかけて欲しい?」
「静寂な光景にこそ狂気が最も宿る。黄金色に輝くイチョウを焼かねばならない」
皇居や陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起を起こしそうな彼の憎悪が込められた声に彼女は怯え、逃げ出してしまう。偶然、近くで見つけた京希に元交際相手の暴言を訴える。
代わりに秋菜や忠清が水槽の前へ来て、イルカの姿を捜し始めた。数分程、素早く泳ぐ様子を眺め、知努が振り向くと騒がしい声を子守唄にしながら染子は昼寝しており、慧沙とユーディットが寝顔を撮影している。
深い溜息を零して彼は彼女の元に行き、肩を揺らし起こそうとした。しかし、不服そうな唸り声を出すだけで染子が全く目覚めない。強引な手段を使う訳にもいかず、困っている知努も唸った。
「鶴飛さん、こんな所で寝たら背中が痛くなってしまうよ?」
彼の横から京希が染子の右親指と人差し指の間に親指と人差し指を押し込む。手の激痛を無視出来ず、すぐさま目覚める。身の危険を感じ、京希は知努の背中に隠れた。
彼女を庇うため、知努が昔観たアニメの登場人物を思い出し、真似する。喉に力を入れ、壮年男性の声を出した。
「このお昼寝を終わらせに来た。この場は俺の顔を立てて貰おうか」
荷物を持ち、立った染子は彼に危害を加える事無く歩き出す。嫌味の1つも言わない彼女がどこか不気味な雰囲気を帯びている。
カマイルカの水槽付近まで戻った知努はスロープを下り、オーストラリア大陸北東部のサンゴ礁地帯、グレートバリアリーフに生息する魚の水槽を鑑賞した。ニセゴイシウツボや固有種スズメダイなどが泳いでいる。
それ程、魚に関心を持っていない他の人間達は歩きながら見るだけで済ませ、瀬戸内海の水槽へ向かう。彼もそちらに行くと少し青みがかった伊勢海老を見ているユーディットが質問した
「おせちで見る伊勢海老と違うわ。どうして赤くなっていないのかしら?」
「殻に含まれているアスタキサンチンという色素は過熱して赤くなるよ。本来、体で生成されないから老廃物の一種だね」
それを聞いていた染子は唐突に夕食の話題を出す。伊勢海老の話から知努がすぐ彼女の意図を察してしまった。道頓堀の有名な蟹専門店に行こうと目論んでいる。
「金持ち中年とエンコーしている女子高校生かよ。蟹は高級だから諦めてくれ、悪いな」
「冗談よ、私が喜ぶような料理を食べさせてくれないと後でお尻ペンペンよ」
近くで泳いでいたクロダイを見つけ、彼女が彼の袖を引っ張り、勝手に友人呼ばわりしていた。関西圏でチヌの通称があるからだ。そして、顔を綻ばせながら染子は知努の顔を見上げる。
「もうそろそろ性転換する時期かしら? 早めにシておかないとパパになれないわね」
性転換する魚が雌性先熟が圧倒的に多い中、クマノミ類や牡蠣、クロダイは雄性成熟の生態を持っていた。しかし、一定の大きさまで成長しなければ生涯、性別が変わらない。
特に膨らみの無い胸を触ろうと迫る彼女の手を彼が腕で防御した。すると痺れを切らし、絹穂は横から染子の側頭部を叩く。
「染子さんは本当に手癖が悪くてスケベだわ! とても私の大事な兄さんを任せられない」
楽しみを奪われた腹いせに彼女の太腿を軽く抓り、虐める。これ以上、被害を増やさないため、渋々、知努が胸から腕を離した。
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