第102話欠片の優しさ



 負傷していた下唇の痛みが少し引き、しばらく沈黙を貫いていた彼は席に戻り、謝罪して彼女を宥める。



 鼻血が出ていた鼻やユーディットに叩かれた耳の心配をするも犬のアルファシンドローム予防の躾をしているような態度で彼女は、無視していた。



 知努を犬呼ばわりしている染子からしてみれば彼の頭突きは飼い犬が手を噛んだに等しい状態だ。



 粗相をした犬の躾が厳しい人間である彼女は、彼にいじめられた後もしばらく無視を決め込んでいた。



 主導権を握っている時は逆らえないと分かっているため、平気で忠清が分けた知努の油かすを食べている。



 従兄へ対する陰湿なイジメを見かねた忠清が嫌がらせで染子の情けない秘密を明かした。



 「バレンタインデーに貰ったお兄ちゃんのトリュフチョコを全部染子が食べた事、教えようかな」



 数年間、関わっているにも拘らず懐く気配がない小動物の気を引くためにした行動と察している知努は敢えて何も言わず、かすうどんを食べる。



 油かすの茶色になっていた部分は牛すじのような歯ごたえがある一方、白い部分は牛ホルモンらしい甘みを持っていた。



 サービスエリアの食堂で販売されている肉うどんのように販売される事を願う程、彼はこのうどんが好きだ。



 食べ終わった後、染子の機嫌取りにさいぼしを注文するといきなり、彼の頭を叩いて説教が始まった。



 「ブラのホックを留める事しか能が無い癖に生意気なクソ犬。しばらく告白の返事を延期しないといけないわ」



 「大体、少し甘えただけで図に乗って暴力を振るうなんて私への尊敬が足りていないのよ」



 夜中に自分勝手な理由で叩き起こしたり、身支度をほとんどさせたりする女子に敬う心は備わっていない。



 知努と同じく関わりが深い慧沙は一瞬出た彼女の本音をすぐ揶揄の材料に使う。



 様々な女子と親密な関係になれるだけあり、女心を把握する事が長けているようだ。



 「いつも意地悪な染子らしくない可愛い気持ちだね。好きな人にどんな時でも守って貰いたい」



 「知努ちゃんが染子を守ってあげるなら僕は知努ちゃんを守らないとね」



 総合的に慧沙が2人を守る状態が気に入らない彼女は机の下から彼の足を蹴る。



 横の座敷席で座っていた絹穂も快く思っていないのか、苦言を呈していた。知努の事になると気が強くなる。



 「刃物を持った変な人から兄さんを守る事は出来るのかしら」



 ユーディットの父親のような職業上、柔道の訓練を受けている訳でもない彼は沈黙してしまう。



 他人のために命を投げ打つ事が実行出来るかどうかはその時になってみなければ分からない。



 「暴力は絶対良くない事だけど、尊敬している染子がキーちゃんに嫌われて欲しくないからちょっとお仕置きした」



 彼は盲目的に崇拝せず、染子を1人の人間として期待していた。そういった気持ちが色んな人間を惹き付けている。



 数分後、追加のさいぼしが運ばれ、染子は箸で摘まんだ肉をすりおろしたショウガとニンニクに付け、知努の口へ持って行く。このような行動は滅多にしない。



 食べさせて貰える事に彼はありがたさを感じている一方、泣くまで舌をいじめられた事が頭によぎる。



 少し警戒していたが、2度も幼馴染の同じ醜態をさせる様な事はせず、口から箸を抜かれた。



 馬刺しすら特定のスーパーマーケットでしか買えない贅沢品であり、その味を知る人間にとってマグロのトロと並ぶ人気がある。



 武士の機動力の要を担っていた馬を家畜として見た事が無い彼は、罪悪感を感じながらも牛肉より肉が好きだった。



 豚肉や牛肉のように普段から食べる習慣が無いさいぼしを貰うため、忠清がある秘策を思い付く。



 「染子は意地悪しないでさっきみたいに優しく抱き締めてくれるなら良いお姉ちゃんなんだけどなぁ」



 下着の金具を外す悪戯をしたばかりでまだ警戒心が強く、ある程度褒めて油断させなければならない。


 

しかし、小学生の意図にすぐ気づいた染子はぶっきらぼうな表情で小さなさいぼしの欠片を丼に移した。



 油かすと同じ茶色のため、注意して見なければ見分けがつかなくなる。忠清の想定より彼女に信用されていない。



 汁の上に浮いている油かすやとろろ昆布を食べていき、ようやくさいぼしらしき感触に巡り合えた。



 支払いの際、大人数で店の入り口を塞いでしまう事を考え、会計係の知努に任せている。



 それぞれが紙幣や硬貨を渡している中、誰よりも早く店の外に向かう女子は鼻で笑っていた。



 「お粗末様でした」



 「お粗末なのは染子の厚かましさな。それ、料理を提供した人間が本来使う言葉だぞ」



 他の人間がかすうどんしか注文していない中、もろキュウリとさいぼしを追加注文した彼女はその上、彼に奢らせて皮肉まで吐き捨てる。



 好きな小説に登場する聡明で異性らしい魅力があり、同性から好意を寄せられやすい14歳の女学院生に染子は憧れていた。



 しかし、厳しい現実に屈託してしまったのか、生まれつき加虐性愛の遺伝子が強いのか、理想と程遠い人間へ育っている。



 店のすぐそばで釣り銭を渡している彼の後ろで勝手にカバンからスマートフォンを抜いた染子がパスコードを突破しようとしていた。



 好きな人間の誕生日を設定するという話を思い出し、試しに打ち込んでみるも解除出来ない。



 他に該当しそうな数字を考えている中、彼女の母親から聞かされた話を思い出してしまう。



 鶴飛夫婦の念願の長女に付けようとしていた名前の話だ。染子以外にもう1つ候補があった。



 数字に置き換える事も出来るため、胸騒ぎをしながらもその数字を入力する。



 期待通り、解錠してしまい、白髪の老人が片手で拳銃の形を作っている謎の背景画面が見えた。



 「昨日、あれだけ入浴中に私の胸へ甘え倒していた精神年齢小学生はどこの誰だったかしら?」



 向き直った知努はパスコードを突破されている画面を見せつけられ、目を泳がせている。



 彼が設定していた数字は、染子が同族嫌悪している小説の登場人物から取っていた。



 「恥じる事なんて何もないんだよ、鶴飛くん。女子は大なり小なり競争心があって、加虐な生き物なの、さ」



 それを証明するようにユーディットが後ろから彼の太腿をやや強めに抓る。

 

 

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