第100話チヌオとジュディエット



 

 心斎橋へ向かうため、旅行中の男女は人がいない光景を想像出来ない大都市の電車に乗る。



 先程まで知努に抱き付いて、230円の運賃すら払わせていた染子は当然のように小学生2人と同じ席で座っていた。



 上着のポケットからスマートフォンを取り出そうとした矢先、人目を憚らず戯れている若い男女の様子が目に入る。



 「ディーちゃん、吊り革を持たないと電車の揺れで転んでしまうよ?」



 「ワタッシー、ニフォンゴ、ヨクワカリマッセーン」



 日頃、流暢な日本語を話すユーディットは唐突に片言の演技をして、彼の腰へ両手を回す。



 彼女のキャリーケースも片手の薬指と小指で持っている知努は満更でもない態度だった。



 休日の車内で男女が戯れる光景はありふれたものなのか、他の乗客は全く興味を示していない。



 好意を寄せている相手への感情が暴走し始めていたユーディットは両手を彼の頬へ伸ばし、見上げる。



 頬を撫でられる事が好きな知努は目線を合わせ微笑んだ。永遠に続いて欲しいと願う幸福へ引き込まれている。



 「ああ、ロミオ、ロミオ、貴方はどうしてロミオなの? 御父上との縁を切って、家名を捨てて」



 「もし、それが嫌ならわたくしを愛していると誓って欲しいわ。そうすればわたくしも今すぐこの場でキャピレットの名を捨てるわ」



 すぐ後ろから従姉の文月に2人の苗字が同じである事を指摘され、知努は必死に笑いを堪えた。


 

 歯が浮くような恥ずかしい台詞を笑われていると勘違いした彼女は彼の頬を軽く抓り、爪先立ちする。



 「このままもう少し黙って聞いていようか、それとも話し掛けようか」



 劇のように愛し合う男女を阻む高低差は無く、互いが目を閉じ、ゆっくりと唇が近づく。



 唇が重なる事を阻止するため、染子はかかとでユーディットの無防備なアキレス腱を蹴った。


 

 驚きのあまり、小さな悲鳴を上げながら倒れそうになるも素早く知努が左腕で抱き留める。



 しかし、彼女は両足へ力を入れようとして、無意識に彼の下唇を噛んでしまう。

 


 思いの外、力んでしまったせいか、ユーディットが唇を離すと下唇から流血していた。



 「大丈夫? 転びそうになっていたけど、どこか痛めていない?」



 ズボンのポケットから取り出したティッシュで口を拭きながら知努が訊く。他人の心配をする余裕は残っていた。



 「ご、ごめんな、さい」



 肩を震わせながらか細い声で謝罪しているユーディットは罪悪感に苛まれている。幸せそうな表情もどこかへ消えていた。



 彼女の儚い美しさを前にして、どれ程の男が魅了されてしまうのだろうかと考えながら知努は呟く。



 「嫌な女」



 抱かれている彼の片腕を解いて抜け出した彼女は向き直り、事の元凶である染子の左耳を力任せに殴った。


 

 「ナメクジのせいでチー坊を傷付けてしまったわ! チー坊は没収します!」



 耳鳴りに苦しんでいる染子へ吐き捨て、知努の後ろに回って避難する。ナメクジは彼女が嫌いな俗称の1つだ。



 幼馴染に昆虫を食べさせるような女は泣き寝入りする性格でなかった。とうとう普段の言葉遣いが崩れる。



 「クソが! 耳を殴りやがったな、〇人! さっさと第三帝国に帰れよ」



 度が過ぎた暴言を聞かされ、ユーディットと中学時代から付き合いがある京希は止めに入った。



 「相手を尊敬する事を忘れるといつか取り返しのつかない事になってしまうよ」



 助け舟を出して貰っているユーディットは先日の出来事を思い出してしまい、居心地が悪くなる。



 孤立無援の状態に陥った染子は京希が嫌がりそうな話題に触れて、煽った。いつも他人の弱点を探しているようだ。



 「ご立派な考えだけど、貴方の元彼は母方のお祖父様を全く尊敬していないわ。いいのかしら?」



 「よ、良くないけど、私がどうする事も出来ない問題だよ」



 具体的な理由を知っている上で隠しているのか、そのまま口を閉ざしてしまう。



 思惑通り、耳障りな意見を黙らせる事に成功した染子はスマートフォンを操作する。表向き、荒波が立たなくなった。



 到着した心斎橋駅から出た後もユーディットは報復を恐れ、知努の背中に抱き付いて離さなかった。



 従姉の胸と背中が密着している状況を忘れ、知努は横から漂う絹穂の髪の匂いを嗅いでいる。

 

 

 不自然に体を近づけている事で気づかれてしまい、親指を内側へ捻られた。そして、情けない声も上げる。


 

 電車に乗っている時からボストンバッグを肩へ掛けていたせいですっかり右手が無防備となっていた。

 


 「痛い! 痛い! 親指が折れちゃうよ!」



 一瞬だけ背中から顔を出して覗き込んだユーディットはいつもの大袈裟な悲鳴だと判断する。



 捻挫させないように指の付け根を親指で押さえている絹穂が彼の指を眺めていた。彼女なりの意趣返しだ。



 「細長くて綺麗な指ね。私、お付き合いするなら手が綺麗な人と決めているの」



 今度は絹穂の方から近づき、知努の手を握る。その直後、彼女が小さな空腹の音を鳴らす。



 急激に赤く染まっていく彼女の顔を一瞥し、彼がこれから食べる昼食の話題を出した。



 「今日のお昼はかすうどん。とろろ昆布と牛の腸を低温で揚げた油かすが入っているよ」



 「牛肉なら分かるけど、牛の腸が入っているなんて驚きね」



 比較的様々な地域で食べられている肉うどんと比べ、まだ知名度が低いかすうどんは大阪を象徴する料理だ。



 休日の昼時の影響もあり、店の前で列が出来ていた。目を合わせば虐めの対象にしてきそうな後ろの染子へ知努は敢えて話しかけない。



 白猫のカナコとヨリコのようにあまり構いすぎると却って機嫌を損ねるため、適度な距離を取る必要がある。



 しばらく待っていると彼女にいじめられそうな忠清が知努の前へ避難してきた。

 

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