第89話留守番犬
放課後を迎えて、教室から出る有象無象の生徒達に紛れ込んだ知努が廊下で待ち伏せされていた。
ウェーブがかった黄金色に輝く髪を腰の辺りまで伸ばしている女子生徒に彼の行動は把握されている。
彼女の存在を認識していない体で横切ろうとして、見事に知努の左手首が掴まれた。こうなってしまえば彼の方から話し掛けなければならない。
「僕ちん、家に帰ってお昼寝したいのだけど、どうしたの?」
ふざけた一人称を使った事で彼女の機嫌が損なってしまい、容赦なく足の甲を踏み付けられた。
学年内で温厚な美人という彼女の人物像が構築されている。しかし、本性は極めて凶暴だった。
睨みながら踵で彼に鈍い痛みを与えている。人間の急所を踏まれているため、知努の双眸から少量の涙が零れた。
「クラスの友達とファミレスに行く約束があるからチー坊は良い子でクーちゃんの子守を出来るかしら?」
「いつもそうやって
気が強いユーディットの母親はヘラという名前のせいで知努から鹿のような呼ばれ方をされている。
昨夜、殴られた女に似ていると遠回りに言われた彼女が何度もスクールバッグを彼の横腹へ叩き付けた。
行き交う生徒達からどこにでもある痴話喧嘩としか思われておらず、誰も彼女の暴力を止めない。
「もし、良い子にお留守番してくれないならこの前、私を散々虐めた事を言いふらすわ」
脅迫しなくとも大事な用事さえなければ引き受ける事は知努の性格を考えればすぐ分かる。
彼の片手を解放して、スクールバックから出した家の鍵を渡した。今もクーちゃんは誰にも構って貰えず、留守番している。
「この図太い神経、流石ヘラジカの娘だね。俺がいなくても大丈夫そうだからヘタレ庄次郎の面倒に専念しようかな」
他人の神経を逆撫でする知努の発言は忠文の息子らしい。その応酬に腹をやや強めに殴られる。
会話が終わる事を見計らったかのようにユーディットの背後へ1人の女子生徒は近づいて来た。
学年女子の中で身長は高い方に位置する彼女より背が高く、涼鈴と同じく後ろ髪を長い尻尾のような形に纏めている。
背丈と相応の凛々しい顔立ちをしており、男女から注目を集める容姿だった。
「休みの前にハッセさんの子犬を見たいけどダメかな? ボクは犬が大好きなんだ」
男女問わず人見知りをする性格の知努は脱兎の如く走り出した。一人称と話し方から面倒な女だと察する。
彼は家に帰宅せず直接、ユーディットの家を訪れていた。貰った鍵で玄関の扉を解錠し、中へ入る。
居間に向かうとケージの中から伏せている子犬が来訪者へ軽く吠えていた。彼はケージを掃除するために一旦、外へ出す。
ミルクからドッグフードに食生活が変わり、クーちゃんはもうすぐ歯の生え変わりを迎える。早速、知努の手に噛み付く。
躾と分かるように低い声で注意して止めさせる。人間相手のような怒鳴り付けたり、体罰は却って信頼関係を失う。
シャーマンの躾で子犬の扱いに慣れている為、全く動じていない。手際よくケージの掃除を済ませた。
排泄物の後片付けも赤子、犬猫の世話を今までしたおかげか嫌悪感すら湧いていなかった。動物を育てる場合、日常茶飯事の出来事だ。
行動を監視されているクーちゃんは怒られないようにゴム製の玩具を噛んで待っている。
念のため、子犬の前足と後ろ足を軽くウェットティッシュで拭いた。彼もユーディットやヘラに床を汚して怒られなくない。
使い終わったウェットティッシュを専用のポリエチレン袋に入れてから彼が仰向けで横たわるとクーちゃんは身体の上へ登る。
「明日から3日間、ユーディットお姉ちゃんいないけど、いい子に出来る?」
クーちゃんが何かをねだっている時や就寝中以外はなるべく話し掛けるように心掛けていた。
日頃から人間の声を聞かせ、慣れさせていなければ命令しても聞かない。それは犬以外も同じだった。
3日間、クーちゃんと祇園家の自由奔放な白猫2匹の面倒は彼の妹に頼まなければならない。相当、文句を言われる。
ケージの中のようにクーちゃんが丸まりながら横たわるとインターフォンの音を聞いて、急いで起き上がった。
「悪い人が来たかもしれないからクーちゃんはちょっとここで待ってて」
抱き上げてからケージの中に避難させて知努は警戒しつつ玄関に向かう。先程の女子生徒が訪問している事を予想していた。
慎重に扉を開け、中性的な喋り方をする女子と青山の姿が見える。何故か知努の姿を見て青山は胸倉へ掴み掛かった。
「見下げた野郎だな! ハッセさんの家で下着泥棒するようになったか! すぐ警察へ突き出してやる!」
殴ろうとしている青山の手首を内側から掴んだ彼は腰を使って勢いよく捻る。激痛のあまり、すぐ手が離れた。
その様子を横目に女子生徒が玄関へ入る。青山の事は単なる同級生としか思っていないようだ。
呆れている知努は手首を解放し、家の中へ戻った。殴る価値すら正義漢擬きの青山にない。
見慣れない人間に警戒しているクーちゃんがケージの奥に逃げているらしく、女子生徒は落胆していた。
「これだと子犬じゃなくて亀やカタツムリだな。せっかくハッセさんの子犬と遊びたかったのに」
ケージの前で彼がしゃがむと玩具を咥えたままケージから飛び出し、右膝に前足を置く。
小さい尻尾が大きく振られていたクーちゃんを抱き上げてから頬擦りする。猫のように彼の匂いを付けていた。
子犬の声を演じて、彼は彼女の名前を訊き出そうとする。直接訊くきっかけが思い付かない。
「僕、赤ちゃんだから亀さんやカタツムリさん知らない。ところでお姉さんの名前は?」
純粋な子犬の瞳を向けられると女子生徒は目線を逸らしつつ答えた。その直後、クーちゃんは大きな欠伸をする。
「ボクは
懐いている相手に抱かれているせいか、小川が頭を撫でても別段、嫌がったりしていない。
まだピンク色の肉球を頻りに触りながら彼女もまたクーちゃんの顔へ頬擦りしていた。
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