第88話良い兄さん、悪い姉さん



 教室の後ろで郷愁に浸っていた生徒の保護者達は昼休みになった途端、教室から出ていく。近くの店で食事するようだ。


 

 三中知努の母親である涼鈴も同じく一旦どこかに行ってしまう。残された庄次郎は空いている隣の席へ座った。



 高校生が普段どのような弁当を食べているか気になっていた彼は周りを見渡す。やはり、ほとんどの人間が似たり寄ったりの内容だ。



 冷凍食品と白飯を組み合わせた弁当がほとんどの中、知努は刑務所か軍隊に出てきそうな料理を食べている。



 色と形で辛うじて肉と分かる茶色の物体、粘りがある謎の汁、均等に切られたインゲン豆だ。食器に使われているステンレス製仕切りプレートのせいか、食欲を沸かせない。



 茶色の物体はニュートラローフと呼ばれるひき肉に色々な野菜やシロップを混ぜ合わせた料理だ。懲罰に使われた実績がある。


 

 一方の粘りがある汁は、一般家庭の食事でも作られているオーツ麦の粥だ。オートミールやポリッジの名称で親しまれていた。



 どちらも栄養価自体高く、健康的な料理だ。しかし、味付けが悪いため好んで食べる人間はあまりいない。



 教室が刑務所の食堂に見えてしまう食事を取っている知努に廊下から入ってきた茶髪の男が無心する。


 

 「今日、財布、忘れたから2000円よこせ」



 しかし、吐瀉物にしか見えない汁をスプーンで掬い、食べている知努を見てしまい、思わず何度も吐きそうになった。


 

 それどころか、汁のすぐそばにある茶色の物体を排泄物と錯覚してしまう。食事が終わってから知努は返事する。



 「1つ良い事を教えてあげよう。俺も財布ないの」

 

 

 食欲を削がれている哀れな男は無言で去った。余程、知努の文化的と思えない食事が精神的に辛かったようだ。



 弁当を用意していなかった庄次郎の腹が鳴ってすぐ、今度は後ろの扉が開く。入って来た三つ編みの女は黒いカバンを持っている。



 空腹状態の彼に近づき、机の上へカバンを置いた。来訪者に数名の生徒が一瞥するもすぐ興味を無くす。



 「今は俺が知努兄ちゃんを独り占めする時間だから芋オサゲ〇ンは自分の巣へ戻って。それと今日はシャーマンの散歩の当番」



 彼女のふくらはぎを軽く何度も蹴り、煽っていた庄次郎は交差している両手で素早く襟を掴まれ、そのまま絞められる。



 呼吸し辛い状態だが、本気で絞め落とす気はないらしくまだ脳に血液は平常通り流れていた。



 仕返しの方法がいつも打撃技ばかりの染子らしくない様子から人違いしてしまったと気づく。



 彼と同じく制服姿の彼女は大友絹穂だった。髪型を侮辱されたせいか、眉間に皺を寄せている。



 「俺は素朴な印象があって、今のキーちゃんの髪形、好きなんだけどな。昔、俺も三つ編みにしていた」

 

 

 知努が破顔しつつ褒めていると今度は前の扉が開き、染子は走っていた。後ろから絹穂の元へ近づき、右手に持っていたムカデの玩具を服の中へ入れる。



 少し離れた所で立ち止まって振り向き、彼女の痴態を見物していた。なかなか見られない光景だ。



 ムカデの脚が背中に触れ、金切り声を上げた彼女は庄次郎の襟を解放し、すぐさま隣の知努に力強く抱き付いた。



 「お願い、長い虫がブラのホックに挟まっているから気持ち悪いの! 早く取って! 


 

 裾から右手を入れた知努は虫が苦手ながらも我慢してムカデの玩具を抜き取る。久しぶりに昔の呼ばれ方をされたせいで赤面していた。



 隠すように玩具をカバンの中へ放り込み、落ち着かせるため彼が抱き締めている。すっかり耳まで熱を帯びていた。



 教室の視線が一気に2人の方へ集まってしまう。そのような事は構わず絹穂が怯えている声を漏らしながら未だ密着していた。



 「腹立つわ。喧しく騒ぎ散らかして小便でも漏らせばいいものを私の知犬に甘えて。それより、私は姉さんよ」



 予想外の展開になってしまった事で立腹している染子は2人の元に近づき、何度も絹穂の頭を叩く。



 「妹をいじめる悪い姉さんなんていらないわ。優しくて面倒見が良い兄さんさえいれば十分」



 周りの年下の女子から姉と慕われた事が無い染子は八つ当たりで彼の側頭部を殴る。もし、絹穂にすると知努が怒ってしまう。



 数分後、染子と絹穂が近くの席へ座り、新たな昼食は始まる。黒いカバンを開けると6つのプラスチック製保存容器、ポリエチレン袋が入っていた。



 絹穂に3つの容器と袋から出したスプーンを渡された知努は、早速それぞれの蓋を開ける。中に料理が入っていた。



 フィッシュ・アンド・チップスだけ彼は食べた事がある。他のビーフシチューのような料理とグラタンのような料理は分からなかった。



 「なかなか手の込んだ料理だ。ところでフィッシュ・アンド・チップスと後は何?」



 「ギネスシチューとシェパーズパイよ。兄さん、チー坊に食べて欲しかったから頑張って作ったわ」

 

 

 黒い見た目をしたビールの名前でこの料理がアイルランドの郷土料理だと察する。日本でも売られていたアイルランドのビールだ。



 庄次郎と分けながら3つの料理を味わう。物珍しい料理を一目見ようと生徒達が集まり出した。



 男子生徒から料理名を訊かれ、人見知りの彼女に代わり、知努が答えた。案の定、チップスへ疑問を抱かれる。



 「イギリス英語だとフライドポテトはチップスだ。フライドポテトは向こうでクリスプスって呼ぶ」



 アメリカで使われている英語とイギリス英語は違う事を知った男子生徒が大層驚いていた。



 フィッシュ・アンド・チップスのフィッシュはアメリカ英語でフレンチフライと呼ばれている。



 本場はタラを使っているが、淡泊な白身魚の切り身であれば問題ない。昼食らしい料理だった。



 姉と同じく苦い食べ物が苦手な庄次郎はシェパーズパイばかり食べている。ギネスシチューに入っているマトン肉の味は苦い。



 アイルランドがジャガイモで有名な国であるため、シェパーズパイもジャガイモを使われている。ニンニクと玉ねぎの味付けが余程気に入っているようだ。



 マトン肉と比べラム肉はあまり苦くないおかげで、庄次郎が文句を言わず食べていた。



 食べている最中の知努のスプーンを強奪した染子もシェパーズパイを味見する。彼に対し傍若無人な態度だった。



 染子が意地の悪い女である事は薄々生徒達も気づいているらしく、注意しない。シェパーズパイが無くなってからようやく知努のスプーンをギネスシチューの容器へ戻す。



 満腹になった彼女がフィッシュ・アンド・チップスの容器に入っているレモンを彼の顔へ向けて搾った。



 「ぎゃぁぁぁ!」



 レモンの果汁は目に入り、彼の悲鳴が響く。もう1度しようと企むも絹穂に拳骨を落とされる。



 機嫌が損なった彼は無言でギネスシチューを食べた。食事を妨害される事はどの動物にとっても嫌いな行為だ。



 「ごちそうさまでした。キーちゃんが作った料理、美味しかったからまたいつか作って欲しい」



 年下の女子に愛想を振舞っている知努があどけなく見えた染子は彼の柔らかい頬を軽く引っ張る。



 食事が終わった知努の膝へ座る庄次郎は姉からチビや下着泥棒と罵られた。事実、染子より背が低く、姉の下着を盗んだ変態だ。



 好奇心で犯した過ちを暴露された仕返しに庄次郎が、姉のとんでもない発言を知られたくない人間へ教える。



 「一昨日の夜、染子が今頃、知羽は知努と混浴して両親に言えないをやってて羨ましいって言ってたよ」


 

 事実無根の乱れた兄妹関係を鶴飛家の人間に聞かせていると知った彼は舌打ちした。まだ健全な範囲内で収まっている。


 

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