第90話パピーシッター
長時間、抱かれているとストレスを感じるため、降ろしてから知努が仰向けに横たわる。居心地が良いのか、また彼の体へ登り、丸まった。
信頼している人間にしか犬は体を預けない。彼は同じ体勢で寝ていた時、よく歩き始めたばかりの忠清に踏まれた事を思い出す。
小川がスクールバックから出したスマートフォンを彼らの方へ向け、撮影している。すぐ彼女は不特定多数の人間が見るSNSへ写真を投稿するだろう。
平穏な時間が犬の気持ちを考えない男によって壊されてしまう。彼へ敵愾心を燃やしていた青山が居間に来る。
留守番を従姉から頼まれていた知努が場違いや周りの人間の気持ちを考えていない等と罵られた。
咥えている骨の玩具を口から離したクーちゃんはこれから昼寝するつもりだ。彼は罵倒を無視している。
その態度に腹が立ったのか、左手に持っているスクールバッグを知努の方へ投げ付けた。クーちゃんが下敷きになる前に右拳で払い除ける。
傍観者だった小川は看過出来ない青山の行動に激しい剣幕を見せながら胸倉を強く掴んだ。
「あのカバンで子犬の背骨が折れて半身不随になったら責任取れないだろ? ふざけた事をするな」
説教している彼女を嘲笑うような態度で青山は留守を頼まれている知努の責任だと答えた。
スクールバッグが近くに落ちる音で眠りそうだったクーちゃんは目を開けて、小さく鳴きだす。微笑みながら知努が優しく背中をさする。
「大丈夫、知努お兄ちゃんがそばにいまちゅよ。大丈夫、大丈夫」
赤子をあやすような言葉遣いになっている彼の声を聞いた小川は怒りの気持ちが失せてしまい、両手を離した。
ようやくクーちゃんが寝付き、先程、投げ付けられたカバンを掴み、壁に投げ飛ばす。かなり苛立っていた。
「ユーディットと染子に伝えておいてやるよ。青山がクーちゃんにバッグ投げ付けたって。休み明け、楽しみだな」
ある程度、常識を持っているユーディットはともかく、幼馴染にバッタやカマキリを無理やり食べさせた精神異常者の染子が吹聴する。
犬好きの彼女は特に子犬を虐める様な人間が嫌いだった。そのため、シャーマンは彼女から虐められていない。
洋菓子専門店で排泄物の話をする最低な女子だが、影響力は青山以上にあった。そのため、彼が焦っている。
「だ、大体、お前がハッセさんの家にいなければこんな事は起きなかったぞ。全部、お前のせいだ」
「その理屈なら俺に留守番を頼んだハッセさんが悪いな。それも伝えておいてやるよ」
後ろめたい気持ちがない知努は天井を見ながらユーディットに責任転換していた。非難される理由が見当たらない。
これ以上、留守番に関する因縁が付けられなくなった事で青山が新たな話題を持ち出した。
「お前、あのハッセさんや鶴飛さんと釣り合うような男だと本気で思っているのか? 周りからウザい出しゃばりオカマ野郎って言われているんだぞ」
知努は美人の異性と友人になる積極性がない人間達の僻みを中学校の頃から聞き慣れている。
友人関係が構築出来ない異性を臆病者達は都合の良い高嶺の花にしていた。そうして周りの人間と牽制し合っている。
女子達から表立って人気がある慧沙に噛み付けば学級内で除け者扱いされてしまうため、いつも内気な知努へ矛先が向く。
「ハッセさんは従姉でなかったら到底、関われなかったかもな。それはお前の言う通りだ」
起こさないようにゆっくりとクーちゃんを持ち上げ、ケージの中へ運んで寝かせる。子犬らしい無垢な寝顔だ。
近くに置いているスクールバッグからスマートフォンを取り出し、SNSへ投稿する予定の文章を作成した。
『青山にお前は鶴飛さんと釣り合わないウザい出しゃばりオカマ野郎って言われた! その前にあいつ、クーちゃんにバッグを投げ付けた!』
この文章と青山の人望のどちらが勝つか気になった知努は躊躇いなく投稿する。
起き上がった彼は子犬の展示を終了すると2人へ伝えた。ホームセンターの生体展示と違い、クーちゃんに安らげる時間が必要だ。
小川が頷く中、他人の話を全く聞いていない青山は反論する。先程から感情ばかり優先していた。
「お前もさっさと出て行けよ! 何、ハッセさんの家に居座ってんだよ!」
「留守番を頼まれているからいて当たり前だろ。後、クーちゃんが起きるから大きな声を出すな」
彼が従姉の家で留守番する役目は男に嫉妬される程、楽しくない。会話出来るユーディットと違い、子犬の相手をしなければならないからだ。
壁に投げ飛ばした青山のスクールバッグからSNSの通知音が鳴る。素早く彼は拾い上げてからスマートフォンの画面を確認した。
友人達とファミレスに行っているユーディットからのメッセージだ。温厚な印象が無くなる程、口汚く彼を罵っていた。
『秋田犬は天然記念物だけど、お前は死んでも地球の損失にならない霊長類の劣等個体。分かったら2度と近づくな』
子犬に危害を加えようとした情報の出元はすぐ青山は察する。カバンの中へスマートフォンを戻し、殴り掛かった。
その行動を驚きもせず、知努は腹へ前蹴りして対応する。他人の家で厚かましく暴力を振う態度だけ感心していた。
ドラマや映画のような生臭い男の感情はこの争いに存在せず、ただ見苦しいだけだ。ある程度、知努が手加減しなければ傷害事件となる。
腹に膝蹴りを食らった青山が台所に走り出した行為が何を意味するかは明白だ。すぐ彼が追いかける。
大体察しが付いていた小川も急いで止めようとする。しかし、水切りカゴに目的の物は入っており、手遅れだった。
手にした包丁の先を彼の方へ向けている青山は勝ち誇ったように笑う。道具を使って勝つ事が彼の正義のようだ。
個人の正義は尊重されている社会だが、刑法の観点から見れば加害行為に当たる。一方、知努は他人の生命や財産を守る権利があった。
「お前、親から喧嘩に道具を使うなって教えられてないのか? それに包丁を持った時点で、お前の過失が多くなるぞ」
敢えて興奮状態の彼を煽り、小川が逃げる隙を作った。標的さえ知努の方へ向けば被害は最小限で抑えられる。
意図を汲み取った小川が慌ただしくクーちゃんが寝ているゲージの方へ逃げた。
近接格闘に長けていない知努は相手より手数が多い方法で対処しなければならない。幸い、名案はすぐ思い付く。
青山が顔に目掛けて振る包丁を縦に上げた左肘で右手首から掬い上げるように受け止め、そのまま反対の手で肘を掴んだ。
すかさず青山の右頬を左手で掴んで引き寄せ、顎へ頭突きする。反撃の隙を与えないように屈んで右脚へ左拳の打撃を食らわせた。
彼の横腹へ何度も左拳の打撃が当たるも気にせず、また頬を掴み引き寄せて勢いよく頭突きする。
頭突きの反動で後頭部が流し台の縁へ当たり、青山は包丁を落とした。知努が両手を離すと情けなく悶えながら蹲る。
「これに懲りたらさっさと帰れ。お前が少年院送致されたところで俺はどうでもいいからな」
遠回しに警察へ通報しない意思を伝えた。しかし、置かれている立場を分かっていない青山が警察へ通報すると言い出す。
「今から通報して、お前を傷害罪で捕まえて貰うからな! 絶対に示談なんてしないぞ!」
「お前は事情聴取で
ようやく置かれている状況を理解した彼は起き上がってから走り、スクールバックを取った。
逮捕されたくないためか、それ以上何も言わず家から出て行く。帰り支度を済ませた彼女が後に続くように軽く挨拶し、玄関へ向かう。
留守番を安請け合いしたせいでつまらない争いに巻き込まれたと彼は思いながら包丁を水切りカゴへ戻した。
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