第70話画竜点睛を欠く中編



 彼女が大人しく内情を語るとも考えられないので知努は慧沙に彼女の事を訊いた。やはり、いくら心が病んでいても狂気呼ばわりされる理由は思い当たらない。



 彼が人から聞いた話だと予め断ってから彼女について語り始める。珍しく神妙な顔をしていた。



 ある日、教諭は授業中に彼女が巻いている包帯について注意すると大人しく外す。しかし、すぐ教諭が注意した事を謝罪する。



 縄で強く絞められたような生々しい痕と爪で引っ掻いた傷跡がいくつも付けられており、安易に彼女が家庭内暴力を受けていたと分かってしまう。



 傷以外の容姿はとても美しいため入学したばかりの頃に色々な男子から告白されるも即座に断っていた。



 告白してきた相手に笑顔で父親から首を絞められながら性的虐待を受け続けたと明かし、精神的に苦しめている。



 長期間、暴力による恐怖を感じ続けると感覚が麻痺し、痛みは感じなくなってしまう。それでも彼女は生きていた。



 染子が彼女と知努を引き合わせたくない気持ちはごく自然だ。感受性が強い彼は彼女の苦しみを理解しようとして狂気に取り込まれるかもしれない。



 慧沙から説明された彼は俯いている。もし、染子やユーディットが同じような仕打ちを父親から受けていれば間違いなく怒り狂っていた。



 性的虐待は子供の精神を深く傷付ける行為だ。そのような事を平気で出来る人間は心が弱く、情けなかった。



 「僕のパパが言っていたよ。知努ちゃんは優しすぎるから他人の苦しみまで受け入れてしまうって」



 慧沙が愛想笑いを浮かべる一方で彼は真剣な眼差しだ。幼い頃からその在り方しか知らなかった。



 「どうせ忠清の事を言ってんだろ。それは俺がやると決めた事だから苦しくも何ともないぞ」



 こちらの存在に気付いた彼女は、張り付いて様な笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。慧沙が素早く目線を逸らした。



 両親から人並に愛されている彼が彼女の濃い狂気へ触れてしまうと罪悪感を抱いてしまう。



 彼女が色んな人間へ使った手口を封じるため知努はわざとらしく驚いた演技をしながら話しかける。



 「これは、これは、どこかの事務所に所属している読者モデル? なかなか都会でもこれほど逸材いないだろうな」



 過剰な褒め方より彼の作られたような冴えない格好に彼女が感心していた。朝会でピアノの演奏を披露した時と大違いだ。



 「女の子と遊ぶというのに随分地味な格好をしてます。私たちは歯牙にもかけていないようですね」



 「昔から男女問わず人気者の慧沙くんのオマケだからどう努力しても勝てない。まあ、下心も全くないんだけどな」



 卑屈な態度を取っている彼の肩に手を置く。これから何を企んでいるかは、慣れている彼が知っていた。



 何かしら情欲を煽るような言葉を囁き、彼に赤面させようとしている。鶴飛染子の十八番だった。



 人目が無ければ知努は色んな人間に疎まれている女子を抱き締めている。彼女の髪から漂うフローラルな香りが好きだ。



 彼の予想通り、遊びに誘うような明るい声で彼女は自己紹介し、誘惑してきた。元々、無邪気な性格だったようだ。



 「私は倉持久遠くおんと言います。良ければ今度、体の愛称を確かめ合ってみます? あなたならゴム無しでもいいですよ」



 精神的苦痛を与えてきそうな女と体を重ねたくない彼が即座に断る。この返答は彼女の想定内だったようだ。



 聞き覚えがある苗字から夏織の姉であり、常盤の妹か姉に当たる人間だと彼は理解する。彼女もある程度、知努の事を知っているはずだ。



 苗字だけでなく、珍しい名前も彼は心当たりがあった。そして、彼女は倉持家の養女である事に気づく。



 いくら他人から禍々しい印象を植え付けられ、美しくもどこか怪物めいた存在へなろうが、正体さえ分かれば彼女の狂気はたかが知れている。



 悪びれず、彼があまり特定の人物以外に触れられたくない尻を容赦なく撫でつつ囁いた。



 「あなたの考えは全てお見通しですよ。私から傷つけたくない事も、私の正体に気づいてしまった事も」



 幼馴染に彼女を知っている事を悟られたくない彼がわざとらしく笑いながらシラを切る。



 「慧沙くん、世間じゃ腫れ物のように扱われているが、なかなか面白れぇ女じゃないか。私は気に入ったよ」



 先程と態度が変わっている彼の様子に慧沙は戸惑っていた。ここまで彼の傲慢不遜な発言を聞いた事ない。



 「失敬、申し遅れましたが私は三中知努です。親族などからチー坊と呼ばれております。どうぞ、お見知りおきを」



 愛想笑いは相変わらずだが、少なくともこれから少しずつ友好関係が構築出来そうだった。



 旧支配者のようなおどろおどろしい存在から女子へ戻された久遠が、2人の自尊心を傷つけるため1時間前に来ていたと明かす。



 時代が変わり、性の多様性を少しずつ浸透している社会へなりつつある現在もやはり、女性を待たせる事は未だ悪だった。



 「ははっこいつはァ参ったな。男っちゅう生き物は女の子にごめん、待ったと言われたいよな? 慧沙くん」



 妙に芝居臭い口調で彼から同意を求められた慧沙は生返事しか出来ない。この口調は染子の影響だった。



 それぞれ心のどこかで憧れている人物の口調を模倣している。染子が夜に生きる猫のような女学生、彼は通称工藤ちゃんだった。



 予定していた時刻の5分前に久遠と同じような髪形の女子は、男子が求めている台詞を言いながら来る。



 「ごめん、待った? ちょっと服選びに手間取っていたよ」



 グリーンブラウスとジーンズパンツを組み合わせていた。彼の服装と色の構成が似ているも色の薄さのおかげで洗練されている。



 「僕も今来たばかりだから待ってないよ。宮嶋さんオシャレだよ」



 「ホント? 二田部君にそう言って貰えて嬉しいよ。この服、最近買ったものなんだよね」



 振り向いた慧沙が柔らかく微笑みながら彼女の衣装を褒めた。これから4人で施設内へ入ろうとした矢先、久遠が突然慌て出す。



 コンビニの手洗い場でコンタクトレンズの洗浄をして、左の部分をうっかり忘れてしまったと説明する。



 あまりの非常識な行動に思わず、知努が倉持家の水道は止められているのかと訊いてしまう。



 「1人だと少し心細いから三中くんが付いて来てくれると嬉しいです。2人共に待たせてしまうのは申し訳ないです」



 慧沙にとっては意中の相手と2人きりの状況へなれるため願ったりかなったりだった。しかし、知努の表情が少し陰っている。



 本当に彼女がコンビニにコンタクトレンズを忘れているのか信じ難い。初対面に近い関係なので疑っている。

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