第71話画竜点睛を欠く後編



 1時間半後、久遠がコンビニで置き忘れた左片方のコンタクトレンズを取りに行っていた2人は戻って来た。急いで自転車をこいでいた知努の表情に疲れが見えている。



 その一方、人を待たせる事に罪悪感がない久遠は業務的な謝罪で済ませた。宮嶋があまりの遅さに訝しそうな目付きへ変わる。



 「コンビニでコンタクトを取りに行くだけだったよね? 探していたにしてもかなり遅いよ」



 待っている間、宮嶋と他愛ない会話をしていた慧沙は特に文句を言わなかった。ウィンドウショッピング中になればなかなか世間話が発展し辛い。



 彼女も彼と会話する事に関して退屈でなかったのか然程、怒りの様子が見えなかった。初対面同士の男女がその間、何をしていたか大体、想像出来る。



 だが、周りから性格が悪く、異性を嫌悪している女子という悪名が広められていた久遠の大人しくなるような姿は思い浮かばない。



 疑いの目を向けられて尚、久遠の表情に動揺が見られなかった。すぐ彼女の質問へ答える。



 「漕いでいる途中で私の自転車がパンクしてしまい、その修理に手間取っていました」



 コンビニと違い、自転車屋は近くに1、2件ほどしかない。修理も1時間以上、待たされる事が休日のためあり得た。



 虚偽だと言い切れない理由を出された宮嶋は納得する。初対面の女に振り回された知努が愚痴を零す。



 「慧沙くんとデート出来るからって浮かれすぎだろ。歯を磨く時にコンタクトも洗えよな。ドジっ子なんて今時、流行んねぇぞ」



 前方の慧沙は宮嶋の横に並び、いよいよ予定していたデートが始まる。これから非常識女の相手をしなければならない知努がゆっくり付いて行く。



 東西南北にある無個性な入り口は油断していれば帰りの際、どの方角の入り口から来たか分からなくなってしまう。三中知羽と白木文月が設計の犠牲者だ。



 方向音痴、三中知努を使えば何とかなると考えている共通点があり、よく迎えに来て欲しいと通話で頼まれた。



 今回は西側の入り口を選んだため化粧品売り場や食料品売り場が見える。この2つはどの商業施設でも近くの位置に配置されていた。



 美容に日々、気を遣っている女子はすぐ化粧品売り場へ興味を示して近づく。騒ぐ事なく、吟味している。



 商品に関する感想を訊いてくる女子がいない知努は、持って来た文庫本を読んで待っていた。



 彼を買い物へ連れ出した人間の中で1番、小心者な染子の母親が事ある毎に商品の感想を求めている。



 明らかに着る機会はなさそうな水着の感想まで求められ、思わず若い男と浮気する予定を彼が訊いてしまい、叩かれた。



 一緒に買い物へ来ていた彼と同じような髪形の叔母が馬子にも衣裳と言って、からかっていた記憶を思い出す。



 そんな叔母も恋人と付き合いたての女子のように試着している水着の感想を彼へ求めてきた。



 いつも目付きが鋭く、髪の色も茶色く染めている少し怖い印象を持っていた彼女はとても美しく変貌している。



 叔母でなく、1人の成熟した異性として見てしまった小学生の彼は赤面し、直視出来なかった。



 下半身の一点に鈍く不思議な感覚が走り、彼の中で1番背徳的な行為をしたいという要求が湧いてしまう。



 甥より4倍近く生きている彼女が得意げな表情をしながら宣言した。今も鮮明に彼は覚えている。



 『チー坊が2倍、年を重ねた時も振り向かせられる女でいる。娘2人にもチンチクリンにも絶対、負けないぞ』



 雑念が思考を支配し、とても読書する気分になれない彼は現実へ意識を戻した。叔母と甥が想像した8年後と今は大きく違っている。



 世界の片隅で隠されていた狂気や悲しみが大きくなっている現在は、天変地異によって荒廃した都のようだった。



 ある映画に登場する大物組長が語っていた黒い雨により、アメリカの文化や価値観が流入した事で、先人が築いた美しい価値観を破壊された日本より悪化している。



 彼の大事な人間を奪った正義が機能していない世界に失望し、社会正義を捨てた。そして、勧善懲悪は存在しない事を証明される。



 学校という小さな社会から拒絶されている久遠が見せていた狂気は、氷山の一角に過ぎない。彼女こそ破壊の残滓であり、世界の象徴だった。



 見たくないものから目を逸らし、空虚な正義に盲目的である事がまかり通ったそれは、彼女を作り出している。



 それが理解しているからこそ久遠は極力、他人と関わろうとしない。人間より得体の知れない怪物である事を選んだ。



 いつまでも続くと、誰も信じて疑わない偽りの平和を築き上げていた社会正義が破壊される日を彼は、待ち望んでいる。



 このような事を考えていると染子やユーディットに知られたくない知努は、いつも明るく振舞っていた。



 慧沙に頼まれた役割へ戻るため気持ちの切り替えをしていると、どこからか声が聞こえる。



 『すぐくたばると思っていたあの野良犬、何のうのうと生きてやがんだよ。名前通り、潔く散れよ』



 『それに誰が大事な夏鈴と結婚していいっつったボケ。あと、チー坊にもべたべた触るんじゃねぇよタコ』



 3人いる彼女の子供の中で夏鈴と忠清は溺愛していた。自身の兄である忠文の生き方、口調を継承させるくらいだ。



 その2人と違い、三中知努には厳しく接しており、周りの人間から2人目の父親と認知されている。



 一方、彼女の夫に似て、平凡な人間へ育った次女である文月は手間があまりかからなかった。


 もし、白木3姉弟の母親が今も生きていたら恐らく今のような言葉を言うだろう。斎方櫻香さいかたおうかは彼女の天敵だった。





 今度は叔母の墓参りした時の光景が脳裏に浮かんだ。花立てに入っていた花はすっかり朽ちていた。



 両手で持っている匕首の先を喉元へ向けていた知努の隣へ祖父が近づいて来る。2人だけの空間は俗世から隔離されているようだ。



 白髪染めしている黒く透き通った髪は肩まで伸びており、泣いたばかりなのか腫らしている。



 若い頃に美しいと評されていた眉目秀麗な顔立ちがひどくやつれている様に見えた。知努は見向きもしない。



 「彼女は有終の美を飾りました。ですが、貴方は成し遂げた事が破壊だけの画竜点睛を欠く人生しか歩んでいません」



 「小さな坊やの成長を見る事が私の数少ない楽しみです」


 

 まだ祖父に期待されている事を教えられ、彼が自死を諦めた。そして、元の日常へ少しずつ戻る。




 化粧品売り場で長時間、商品を眺めていた女子2人が戻り、別の場所へ移動する。他事を考える彼の時間はしばらくなさそうだ。

 

 

 

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