第51話馬に蹴られる者


 三中家の居間は一家の大黒柱の転勤が決まり、沈黙している。いつまた地元へ戻れるか分からないからだ。同じく彼の弟も転勤が決まっており、恐らく次男家の居間は静まり返っているかもしれない。


 しかし、長男家と違い、妻子が慣れている。年始、夏季休暇しか再会出来ない時期が実に10年近くあった。妻子がドイツで住んでいたからだ。


 今回の2人の転勤先が偶然にも同じ地方となっていた。特急列車を使えば数時間で行ける。知努は異国へ行くような雰囲気を漂わせている父親の態度が滑稽に見えた。


 彼は喪服風ドレスから長袖のTシャツとジーンズパンツの服装へ着替えている。妹に着けられた髪留めだけはまだ外していない。


 反抗期の娘が兄の膝に対面で座り、抱き締めている。父親の転勤など微塵も興味無さそうな態度だった。唯一、悲しんでいる人間は母親だけだ。


 キャバクラへ行って若い女子相手に鼻の下を伸ばしている四十超えた中年も妻から愛されていた。妹が頬へ口づけしているせいで迂闊に彼は喋られない。


 食事の後、忠文が家族に転勤の話を切り出してからしばらく妹はこのような態度を取っている。ゴールデンウィークの旅行へ同伴したいがため兄のご機嫌取りをしていた。2人の母親は勘付いている。


 頬から唇へ顔を移動させようとしている妹は看過出来なくなっていた。誘惑するように彼女が軽く舌を出す。


 「はーちゃん、ちーちゃんを誑かしたらダメだよ? 下手に手を出すと依存させられる悪い狼犬だからね」


 幸い、股を閉じているおかげで狼犬呼ばわりされる所為は本性が現れるも気づかれない。人目さえなければ妹を泣かしていた。


 妹より更に泣かしたい相手が彼の脳裏へ浮かび上がる。数日前、厚かましく昼食を奪った女だ。小学校高学年程度の身長のまま一生過ごす胸もあまり発達していない女ですら彼の情欲を掻き立てられる。


 知努の方から仲を深めるつもりはない。その反面、魅力的な容姿を維持させるため、彼女の健康に関する全てが管理したいと思っている。


 鶴飛火弦が娘を手元に置きたいと思う気持ちはよく理解出来た。上手く養育すればそれだけで誇りを持てる。しかしながら同い年なためどうしても彼女に対し汚らわしい感情が湧いてしまう。彼の本性は獣だった。


 思考に夢中のあまり、気づけば両親の前で妹が誘惑していた舌を捕食している。恋愛感情すら抱いていない女の事を考えながら妹の唇を奪う男だった。一種の家庭内暴力といえる。


 急いで唇を離してから手首も開放すると赤面しながらも怯えている妹は逃げ出してしまう。彼女の中に兄すら侵入を許さない精神的な領域が存在するようだ。


 「少しは懲りたと思うよ。はーちゃんはちーちゃんの奥に眠っている怖さを理解してなかったんだよ」


 口内に舌が軽く撫でられているような感覚を残している。すぐ近くの電話機に電話が掛かってきた。不機嫌そうな表情の忠文が電話に出ると何故か苦笑している。しばらく話してから通話を終えた。


「知努くんも大変だね。明日の全校朝会でピアノの演奏させられるらしいよ。知努くんの前にコンソメが演奏するよ。その代わり、曲と着る衣装が自由なんだって」


「上級生に目を付けられてシメられそうなんですけどそれは」


 職員会議で生徒の自主性云々を話し合った結果、2人の生徒を晒し者にする事が決定したようだ。ゴールデンウィーク前日、染子と知努は大人の権力によって朝から大変な思いを強いられる。


 30分後、染子にショートメッセージで散歩の誘いを受け、彼は待ち合わせ場所の遊具がない公園へ来ていた。10分程、待たされるとシャーマンのリードを握った寝間着姿の染子が到着する。


 「染子のパパとママは娘に関して放任主義か? 知羽がこんな事していたら怒られるぞ」


 「他人の庭で鎖やを振り回していたマトリックス坊やに言われたくないわ」

 

 有名なSF洋画の主人公も使用していた武器でもあり、それなりの知名度がある一方、正式名称はあまり認知されていない。サイと呼ばれるかつて琉球王国の司法関係者が持つ護身用具だった。


 この時間帯は就寝しているのか、警護目的で連れて来られた不服そうな表情のシャーマンがしきりに欠伸をする。染子の肩へ着ていた上着をかけ、知努はしゃがんでシャーマンの胸を撫でた。


 彼の頭を軽く叩き、彼女が慧沙に旅行の話を出したと明かす。恐らくユーディットの知努と添い寝する思惑を潰すためにしたようだ。


 「慧沙が来るなら楽しい旅行になりそうだな。大阪の行き先決めは任せるか」


 彼は立ち、染子と手を繋いでベンチへ向かうと公園の入り口から文句を言いながら自転車に乗った男が来る。染子に好意を寄せてしつこく求愛していた金髪の男子生徒だ。


 最近は他の犬にすら然程威嚇しないシャーマンが2人へ近づけさせまいと珍しく牙を剥いて威嚇した。それに対抗し、金髪の男が自転車の警音器を何度も鳴らし、嫌がらせする。


 しかし、シャーマンが噛み付こうと普段出さない力で引っ張り始め、染子の手からリードが離れそうになった。隣の知努は日本に根強く残る差別用語を使い、楽しそうに相手を煽る。


 「おい、〇チガイ! 自転車のベル鳴らして調子に乗るなよ」


 一向にシャーマンの威嚇のせいで近付けない金髪の男が警音器の音を止め、馴れ馴れしく旅行の同行を頼んだ。しかし、すぐ彼女は断り、片手を上下に振って嫌悪感も示す。


 「本当に貴方のせいでせっかくの楽しいお散歩が台無しよ。自分がつまらないクソ野郎って自覚している?」


 相手の精神に苦痛を与えるためか、染子が知努の手首を握り、胸の方へ持って行かせようとするも素早く頭を横に振りながら抵抗された。しかし、その様子を見たくない金髪の男が無言で公園から出る。


 シャーマンはようやく大人しくなり、尻が冷えると言い訳しながら彼女は手を離し、彼の膝の上に移動した。すぐ、知羽の匂いを感じ、軽く彼の太腿に爪を立てる。


 「キモウトで思い出したわ。昼間、日本刀持って暴れていた女、知努が勝手に独占したサクラ櫻香の従妹でしょ?」


 「いや、そうだけど、全然独占していないんですけど。染子が意地悪ばっかするから避けられるんだぞ」

 

 図星を突かれた彼女が両拳で何度も知努の膝を叩く。幼い娘のような仕草に思わず苦笑しながら彼は染子の髪に口づけする。しかし、それでは物足りないのか、彼女が知努の顔を横へ向けさせて唇同士を重ねた。


 その最中に知努の上着のポケットに入れてあるスマートフォンが鳴り、渋々口を離してから通話する。相手は娘を危ない夜の散歩に出していた染子の母親だ。


 『そろそろ可愛いシャーマンとそーちゃんを家に帰してくれない? あまり夜の外へ連れ回すのは良くないわ』


 「俺は連れ回している側じゃなくてシャーマンと同じで連れ回されている側。はいはい、帰しますってば」


 通話を終えた知努は、膝から彼女を降ろし、帰宅するように促すも年甲斐も無く駄々をこねる。我慢の限界が来たシャーマンは鼻を鳴らすような声を出し、必死に訴えていた。


 全校集会の時に女装する条件を出して知努は何とか染子を説得し、家まで送る。

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