第17話殻破り
知努はこれからも染子と関わっていく事を彼女の父親へ認めさせる為にしばらくの間、染子と会わない事を決めた。
表向きは染子の父親と揉めて破局させられている体だ。その方が警戒されない。
この行動は朝食を食べながら染子と話し合って作った筋書きに含まれており、彼女も納得していた。
嫌いな父親の支配下にいる不憫な娘を染子は演じており、家庭内に波風が立っていない。
食事をしっかり取っているか毎晩眠れているかなど、知努の彼女に関する心配は尽きない。恐らく彼が1番身を案じている。
染子が16歳を迎えた誕生日となり、様子見も兼ねて知努は久しぶりに作った弁当を持ち、彼女の教室へ行く。
弁当箱の1段目は冷凍食品とだし巻き卵焼きを入れ、2段目が3色のそぼろ丼だった。
2人が一切顔合わせしなかった数日間に、彼女の父親は満足出来る日々を過ごせていないだろう。
したたかで、いつも予想外の行動をする染子が何かしら悪だくみしている事も考えられる。
彼女の教室に入ると、普段、彼女が座っているであろう席は無人だった。顔合わせすれば彼が我慢出来ず、抱き締めてしまうかもしれない。
彼女の机に、修道女の服装をした茶色のウサギのぬいぐるみと、装飾された鶏の卵を見つける。
卵全体が橙色に塗られており、波乗り蛙も描かれていた。彼は、眉を顰めながらウサギのぬいぐるみから視線を逸らす。
弁当箱を置いてから足早に知努は、自分の教室へ戻る。いつもと違う髪形のせいか、周りの視線が集まっていた。
染子から身を引く条件である鶴飛家の人間と絶縁していた為、戦火が燻ぶる。
何度も知努に無視されていた鶴飛千景の怒りが、実の兄へ向いてしまう事態は、刻一刻と迫っていた。
しかし、知努が縁切りしているもう1人の女は、何も行動を起こしていない。
1人の男の抑圧に、肥大化していた2人の憎悪と孤独の餓えは、留まる事を知らず破裂寸前だ。
このまま放置すれば、間違い無く染子と千景が鶴飛の家庭を破壊する。今日はそうなるかどうか決まる日だった。
数日間、絶食状態を維持している知努もまた手が付けられない人間の1人だ。彼の後ろ髪を結ぶ為に使っている黒いシフォン素材のリボンは、今朝、悲しそうな母親が渡してきた。
シフォン生地と色合いのせいか、喪に服しているような印象を与えるリボンだ。知努は非道な選択をする覚悟が出来ている。躊躇いは捨てていた。
後ろ指を指されながらでも好きな女子の誕生を祝う事が、彼の願いだ。破局して気が立っていると思われていたおかげか、教室の生徒は全く関わらない。
どれだけ優しい人間も数日間、満たされない孤独の餓えに苦しめられると怪物へ変貌する。
「今日は染子の誕生日だけど、プレゼントは用意した?」
愛想笑いを浮かべながら慧沙は話しかけた。彼も当然、染子の父親と知努が揉めた話は聞いているはずだ。
「ああ、とっておきのプレゼントを用意している」
軽く頷いてから慧沙が近くで話している女子達の輪に交じる。いつも以上に、知努は人を拒絶していた。
机に顔を伏せると、耳元でいつも凛々しい高圧的な女性の声が聞こえる。彼はこの声はよく知っていた。
『無視するようなチー坊は嫌いだが、やるべき事を目の前にして我慢するチー坊はもっと嫌いだ』
『アレの父性愛など期待するな。結局娘の為だのと言いながらただ父親のフリをしたいだけだ』
気に入らなければ泣いたり、暴れたりする誰も手が付けられなかった野良犬のような女だ。
飼い主を噛み殺す事もあるロットワイラーのシャーマンは、知努が与えた躾と愛情で良い成犬へ育った。
彼女もまた適切な愛情を注がれていれば、強く優しい女性へ育っている。しかし、手遅れだった。
致命的な人間性の欠落は、心の底から大切にしようと思っていた少年を傷付けてしまう。
『好きな女の子をそばで置きたいだろ? 愛したいだろ? 抱きたいだろ? 汚したいだろ?』
黒が果てしなく広がる空間に、黒い縁の姿見を置かれている所へ知努は立っていた。
母親のような人間へなりたいと思っていた少年と、成熟した裸体を晒している美しい女が、姿見に映っていた。
誰かに活力を与えられる優しい人間へなる事が彼は惨めに感じている。奪わなければ大事な物が遠ざかっていく。
瞬く間に性的魅力を失う女の裸体は知努の興味を失わせた。このような場所で、姿見を破壊して遊ぶ精神的な余裕が無い彼は、すっかり萎えてしまう。
『そうだ、それで良い。他の人間と同じく、私の都合の良い部分を弄んで、飽きたら捨てる男だろお前は』
苦しみながら我慢している三中知努を慰撫し、激励する女は好きな人間に何もかも踏みにじられていた。
声と外見だけ、ぞんざいに扱って良い女へ変えているだけで知努の内面そのものだ。
『やめて! やめて! 私は人間なのに、女の子なのに、平気な顔して酷い言葉を言わせないで!』
与えられた役割に忠実な装置が、繊細の心を冒された女の演技へ励んでいた。
苦痛から逃げようと必死に髪を掻き毟り、苦しんでいる様子は知努の体を芯から熱くさせる。
先程まで千景だった姿は毎朝、洗面所の鏡へ映されている男に変わっていた。
『お前が人間達を否定している訳で無い。お前のようなバケモノを人間達が否定している』
姿見から大量の鮮血と共に、ウサギの死骸、複数の目玉、臓物、両指を切断されている赤子の人形が吐き出され、映されていた彼は笑みを浮かべる。
そして、意識は現実へ引き戻された。教室中に昼休みの終わりを告げる喧しい予鈴が聴こえ、彼は上体を起こす。
事態を変える為、知努が染子を檻のような家から連れ出さないといけない。彼の中に迷いは消えていた。
薄暗い空で染まっている時間帯に、知努は鶴飛家の門を蹴り開けて、堂々と侵入したが、予想外の光景を目の当たりにする。
庭で堪忍袋の緒が切れていた染子と彼女の父親は、彼の来訪に気付かない程、激しく口論しており、知努が門外漢だ。
「知努はあんな言葉で引き下がらない! 娘を縛り付ける事しか出来ないなら父親なんて辞めれば良いわ! 意気地無し!」
「引き下がらねぇなら俺が力づくで追い返すだけだ! お前は黙って親の言う事聞いてろ!」
染子の父親は乱暴に娘の繊細ですぐ傷んでしまう前髪を掴んでから頬へ何度も殴り付ける。知努の凄まじい憎悪が沸き上がった。
儚さを感じさせる染子の黒く、細い髪は芸術品だ。傷付けないようにシャンプーやトリートメントやドライヤーなど気を遣い、彼が手入れした。
守ると誓った女子が暴力を振るわれていた様子を黙って見る程、知努は甘くない。
「おう来たぞ、出来るモンならやってみろよ!」
悔し涙を零しながら強く睨み、染子の父親の元に駆け寄って、頬に右拳を叩き付ける。
頭に血が上っている2人は避けも防御もせず、頬や腹を殴り、地面へ血が垂れた。止められる人間などいなかった。
染子の父親が馬乗りになりながら顔を殴るも鼻へ頭突きされ、よろけてた。すぐさま横に倒してから知努は起き上がる。
片手で相手の喉を掴んで鳩尾へ膝蹴りし、呼吸困難にさせてから力強く押し飛ばした。
左手で鳩尾を押さえながら立ち上がった染子の父親が素早く玄関に避難し、扉を施錠する。
「逃げんじゃねぇぞオラァ! 今すぐ開けねぇと嫁諸共、ぶち殺したんど!」
常人と思えない脅迫をしながら知努は何度も扉へ前蹴りを繰り出し、破壊してしまう。
扉を押さえ付けていた彼女の父親は後ろへ倒れてしまい、知努に髪を掴まれて横の靴箱へ額が力強く叩き付けられる。
「これ以上したら死んじゃうからもう止めて! 今の知努、とても恐ろしいわ!」
容赦無い彼の行動を見かねた染子が、後ろから抱き締めた事で知努の暴力はようやく止まった。
靴箱の扉が裂けており、その下で染子の父親は流血している額を押さえながら蹲っている。
頭に血が昇っていた彼は、鶴飛の家を誰よりも早く被害を被らせた。
数分後、救急車とパトカーがやって来て、知努は警察官に連れられ、パトカーへ乗り込んだ。
パトカーで向かった先の交番に知努がよく知っている刑事を見つける。彼の親族だ。
「馬鹿チー坊が。手綱を握ってくれる彼女と別れたらこれかよ」
黒い背広を着ている男は、過去の事件で斜めに刻まれた頬の切創がまだ色濃く残っており、どこと無く暴力団員か組織暴力対策課のような顔だった。
怒りが収まっている知努は小さな声で素直に謝罪する。血縁上は父方の叔父にあたる人物だ。
取調室で叔父に調書を取りながら慰められる。悲しいが涙は出てこない。
「今回はどちらも悪いから事件化しない。もし、叔父さんに申し訳無いと思うなら可愛い娘の面倒をしっかり見てくれ」
事件化しない方針で進めると叔父に説明され取調室から出た途端、待っていた染子が抱き締める。
「知努が来てくれなかったら私、私、怖くて」
引っ張られて傷んでいる毛先を指先で優しく撫でているとまた知努の目から涙が零れ出す。
普段見せないような怖い姿を見せてしまい、嫌われていないか彼は心配だったがまだ求めてくれている。
数日間の飢えを経て、ようやく待ちに待った愛する人の渇望していたぬくもりを享受出来そうだ。
だが、あまりに払った犠牲が多いと思い出し、どこか知努の心は冷めていく。
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