第16話夜は過ぎてゆく


 春の冷たい夜風は薄着の彼から容赦なく熱を奪っていく。感傷に浸るよりどこかで暖まりたかった。


 特にどうしても行きたい場所が無い知努は、消去法で家へ帰る事を決める。ゆっくり入浴すれば気持ちも落ち着くはずだ。


 スマートフォンや財布を入れてあるバッグは鶴飛家に置いているが、彼はまだあの場所へ行きたくなかった。


 鶴飛染子を親の地位で無理やり引き離された以上、鶴飛家の人間と絶縁する話は反故にしたくない。


 今頃、更に手が付けられなくなった染子が家中の食器を全て投げ割ったりして、暴れていそうだ。


 三中家は、反抗期の妹がテレビドラマに出てくる意地悪な小姑の如く、両親や兄へ文句ばかり言っているだけの比較的平和な家庭だった。


 数十分間歩くが、まだ家へ辿り着けそうな目途は付かず、混乱のあまり無我夢中で走りすぎたと後悔する。


 いくら染子の父親から娘に一切近づくなと言われているが、彼女を床へ落としてしまった事はしっかり謝りたかった。


 もし、一生軽蔑されてしまっても、それが果たすべき最後の責務だと知努は考えている。



 長い道のりを経て、ようやく家に戻った知努は安堵のあまり、注意散漫となりながら自室へ向かう。


 部屋の照明が点いており、布団の中に誰か潜り込んでいる。傷心中の息子と添い寝したい母親かもしれない。


 昔から何かと理由を付けて、彼の母親は勝手に溺愛している息子の布団へ潜り込む悪い癖があった。


 表立ってあまり母親へ甘えられない知努は、その悪い癖に遠慮無く甘えている。染子が知られると、またからかわれそうだ。


 「良い子はもう寝ルモ」


 床で深紅の体毛と大きな目玉が特徴的なぬいぐるみは、仰向けとなっていた。それを押し入れへ片付け、布団に向かう。


 「今日は悲しいから母さんに甘えようかな。そうだ、今日の衣装は少し大人びているから見て欲しいな」


 家族以外に聞かせたくない甘えた声を出しながらめくり上げると、すぐ舌打ちし、深い溜め息が出る。


 父親の言う事が聞けない悪い娘である鶴飛染子は、見つかっても懲りずに猫の仕草をしていた。


 「霊長類に似たメインクーンかな? ところで俺が床へ落としてしまったけど怪我はしていないか?」


 頭や腰を強く打った後と思えない気丈な振る舞いに知努の胸が痛む。染子の弱っている姿はほとんど見た事無かった。


 無意識なうちに知努が床へ降ろしており、床へ落とした認識は間違えていると染子が語り、彼は納得する。


 どうやら意識が現実で無い所へ飛んでいる事に対して、言った心配の言葉を取り違えたようだ。


 知努は机に置いてある握り飯が4つ載った皿を見つけ、空腹のあまり、すぐ半分だけ食べた。


 まだ食事を取っていないと思われる、捨て猫同然の憐れな染子に残り半分が載った皿を渡す。知努の母親は握り飯の数を敢えて、息子が分けやすい偶数にしている。


 食欲を満たした猛獣に襲われない為、知努は急いで入浴の準備を整える。もし、襲われてしまえば入浴出来なくなってしまう。


 染子の両親へ聞かせられない罵倒を背に、彼は自室から出る。クローゼットに着替えが入ったスクールバックを隠している事は、昨日の一件から想像出来た。


 蔑ろにされ、少し不機嫌となっている染子が、片手で知努の尻を揉みながら歯磨きして、2人は脱衣する。


 浴室へ入ると案の定、気を許している染子が厚かましく指示して、知努は渋々、母親のように洗い始めた。


 王子様の様な男の子と憧憬している黄金色の髪の女子に知られた時は、激しく嫉妬されるだろう。


 シャワーでボディーソープとトリートメントを洗い流して、一息付いていると染子が椅子へ座るように指示する。


 不健全な洗い方をするつもりなのか、シャワーで流したばかりの体へまたボディーソープを付けていく。


 染子に可愛げの無いぶっきらぼうな姿しか見せて貰えない彼女の父親が、知努を引き離したい気持ちは無理もない。


 どこか幼い頃の甘えん坊だった染子が、まだ存在しているのではないかという期待を持っていそうだ。


 その答えを知っている人間は今の所、こうして染子に頭を洗って貰っている三中知努しかいない。


 身近な知努の知り合いがほとんど甘えん坊の節がある為、取り立てて染子の本性は隠す必要など無かった。


 思春期の少女が父親に甘える事は、生理機能の関係上ほぼ不可能だ。それを分かっている知努の父親は、娘から毛嫌いされる現実に納得していた。


 頭を洗い終えた後、彼が、いよいよ両親にも絶対見せたくない染子に不健全な洗い方をされる。明日の朝、交通事故へ遭わないかが心配だった。


 肌に感じる女性特有の柔らかさと温かさはどこまで上手く着飾ろうが、本物へなれない事を実感させられる。


 とても目の前にある鏡で自分がどのような表情をしているか確かめられない知努は目を閉じて現実逃避していた。


 シャワーで流した後はそれぞれ湯船の縁に置いてあるヘアゴムとヘアピンを取り入浴する時の髪形へ変える。


 湯船に浸かり目線を逸らしている知努の膝の上へ座り、抱き付いている染子は早速揶揄していた。


 「アレだけで顔にあんな事するなんてびっくりしたよ。今、入ってない?」


 「あのなぁ、悪いと思っているからそれ以上言わないでくれ。それに怖い事も言うな」


 皮が剥けている右拳の連続する鈍い痛みが、抜けてしまいそうな魂を現実に引き止めている。


 無垢な少年みたいな反応を期待していた染子は、チンピラに用がないと言いながら太腿を撫でた。


 これから真面目な話をするつもりの知努が、望みの彼は10分前に寝てしまったと誤魔化す。


 「俺も染子と同じで重度の甘えん坊だから、いつも寂しくて誰かに甘えたくなる気持ちは分かる」


 手入れしたばかりのヘアゴムで束ねている後ろ髪と、肩甲骨が浮き出た背中に指先を這わせる。


 身近な存在である家族へ甘える事が出来ない染子を見ているとやはり知努の環境は恵まれていた。だからこそ、彼女の拠り所になれている。


 しかし、染子が鶴飛夫妻の娘と鶴飛庄次郎の姉である事は蔑ろに出来ない。家族は極力仲良くしなければならない考えだった。


 「でも、あまり両親を心配されるのも良くないと思う。家でいたら、取り合えず問題無い」


 気を立たせないように、なるべく柔らかい口調で説得する。染子の孤独自体が一朝一夕の問題と思えない。


 もし、鶴飛家の家庭環境が、知努の協力で多少改善するなら出し惜しみしないつもりだ。染子の父親もいつか真意を理解してくれると信じている。


 「知努が私をほったらかしにしないならそうする。約束出来る?」


 「約束する。やっぱり染子が苦しんでいたら俺も苦しんだよ」


 知努は染子と同じく、1歩間違えれば破綻してしまうような危険な生き方をしなければならない気がしていた。


 まさに今、染子が全く出ていない喉仏を甘噛みしている様に、匙加減1つで80年以上あるといわれている人生は崩壊する状態だ。


 人間の急所に密着している歯ですぐ噛み砕ける。他人から愛される事はいつも優しいと限らない。


 死なば諸共といわんばかりに染子の腰へ手を回して強く抱き締める。こうしているだけで幸福だった。


 寝室に行くまで我慢出来なくなっている2人は何度も口付けで微睡の様な愛を確かめ合い、満たされていく。


 すっかり湯は冷めてしまい、互いの口角から垂れている涎を舐め取り、浴室から出た。ちょうど運悪く知羽が歯磨きしている最中だ。


 気付いた知羽は、歯磨き粉の容器を局部が染子の肢体に隠されている知努の額へ投げる。


 「痛いだろ! あのなぁ、染子の体でガードしているっちゅう訳だろ?」


 怒っているかと思えば、すぐ気まずそうに知努と目線を合わせないショートヘアーの女子中学生は奇妙だった。


 妹の事は手間が掛かる可愛い妹としか認識していない。思春期の女子に大それた事を言えば後が怖かった。


 「歯磨き粉をおでこにぶつけてごめんね? もう少し優しくしてあげるから泣いたらダメだよ?」


 ぎこちない笑顔を浮かべながらうがいし、洗面所から逃げるように出た。知努は妹の言葉が気掛かりとなっている。


 何故、今日の昼間泣いていた事を見てもいない知羽が知っているか、彼はすぐ察した。


 昨日同様、眼前にいる厚顔無恥な実行犯の体をバスタオルで拭いて、下着とパジャマを着せる。


 「鶴飛染子さん、三中知羽さんに可哀想なお兄ちゃんが泣いている写真を送りましたね?」


 下ろしている長い髪をドライヤーで乾かしながら知努は、感情と裏腹な笑みを浮かべて訊いた。


 言い逃れ出来ないと悟った染子が、知羽に500円で売りつけたと白状する。売り手も買い手も考えている事がよく分からない。


 妹の性癖が500円の写真で歪んでいない事を願いながら、彼は体を拭いてからパジャマに着替える。


 毛嫌いしている兄の泣いている写真を買ってどうしたいのかという疑問が残るも真相が闇の中だ。


 ドライヤーで乾かし終わった知努は、写真家気取りの女の腰に手を回してから自室に行く。


 消灯している自室のベッドへ横たわっている2人は、指を絡め合わせわざとらしく皮が剥けている右拳へ染子の指を食い込ませる。


 「痛いの嫌いって言っているのに悪い娘だなぁ。まだ破瓜の痛みを根に持っているの?」


 「破瓜の痛みは墓に行っても忘れない。出来る事なら毎日痛めつけてごめんなさいと謝らせながら泣かせたい」


 寝るまでずっとこの話を続けられたくない知努は、仕方無く昔話で強制的に話題転換した。


 「小さい頃はよく将来はママのお嫁さんになると言っていたけど、不可能って気づいたんだよ」


 「世の中には母親と息子が子供を作った話はあるかもしれないけど、決して結婚したと言えないね」


 他の女の話をされて嫉妬している染子は知努の胸に頬擦りする。どこか手中の上で踊らされていた。


 母親を求めるため父親のような強い男へなろうとする男児が、父親に対抗心を抱く事がエディプスコンプレックスと知努は説明する。


 絶対的な父親へ恐怖したり、母親を求める欲望が成長と共に、抑圧される事で大抵の男児は諦めた。


 「そもそも不可能だから諦める事を教えられなかったせいで、別の手段に至ったよ」


 生まれた時から奇矯ききょうな父親が身近にいたせいか、母親のようになれば良いという奇妙な考えを幼い知努は思い付く。


 その日を境に母親から様々な女性らしい事を教えて貰い、普通の男児と正反対の道へ進んでいた。


 どこか現実を知っているような振る舞いの年相応な人格と、未だ母親へ近づいている最中の人格が肉体に存在している。


 「正直馬鹿じゃないと思ってしまうけど、そういう真面目に夢を持ち続ける面白い人間は好きよ」


 今まで胸の奥に隠していた秘密を知努は、初めて打ち明けた。昨夜、染子が言った奇妙な告白は、10年以上追い求めた目標の答えだった。


 染子が男性的な要素を手に入れたいと思った時の回避方法は、彼女の口から聞かなくとも分かる。


 所謂、残酷な現実を受け入れ無気力な人間へ育つといわれている分類だ。昼間の行為から分析している。


 3つの中で異端な分類へ当てはまる人間が知努の顔見知りにいた。男性的な要素をいつか得られると思いながら成長している。


 染子とその顔見知りは、エディプスコンプレックスないしエレクトラコンプレックスに至らなかった。


 男性的な要素を手に入れる為、母親と敵対し、父親を愛する事がエディプスコンプレックスだ。母親がした出産という行為で代替の男性的な要素を入手しようと考える。


 自我心理学に疎い知努は、女児のエディプスコンプレックスやそれを回避する為の考えがなかなか理解し難かった。


 正しいかどうか分からない複雑な心理学の話を子守唄代わりにして、染子は胸の中で寝ている。


 話し終えた知努も睡魔に襲われ、ゆっくりと目を閉じて就寝した。永遠に夜ならば染子の温かさを忘れない程、感じられる。


 一足早く、鶴飛染子の誕生日パーティーを夢で楽しんでいると現実の染子に叩き起こされた。もうすぐ16歳を迎える少女は、未だに1人で暗闇の廊下が歩けないようだ。


 初めて劇場で見た『ゴジラ・モスラ・キングギドラ怪獣総攻撃』へ出てくるゴジラのような白目の知努は、パジャマの裾を掴まれて1階のトイレに向かう。


 父親へバラゴンが題名に書かれていない理由を訊いて、身も蓋も無い答えが返って来た事は今も覚えている。


 数分かけて用を済ませた染子にまた裾を掴まれながら自室へ戻り、暖かい布団の中で眠った。幼馴染の指を絡め合わせて更に暖かさを求めて染子は、寝間着の中へ顔を入れる。

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