第15話橋崩し


 人生に嫌気がさして、動物病院にいる犬達を殺すつもりだったと蹲りながら強盗は叫ぶ。


 「お前の親の事も考えてやれよ。息子が動物病院で強盗したなんて周りに知られたら良い笑い者だぞ。」


 強盗が単なる憂さ晴らしの道具として見ていない犬は飼い主のかけがえのない家族だった。刑務所へ数年間、服役する事で許されないだろう。


 「よくもやりやがったな! お前から死ねぇ!」


 激高した強盗が床に落ちている包丁を取り、足へ切り掛かろうとし、顔面に後ろ蹴りを受ける。


 先程より大きな悲鳴を上げながら男が骨折している鼻を押さえた。床に転がる包丁を知努は遠くへ蹴り飛ばす。

 

 緊張の糸が解けたウルフドッグの飼い主は、大きな家族を抱きながらさめざめと泣いていた。


 柔道3段の実力と包丁があったところで、油断していれば素人にすら負けてしまう事を強盗は学んだはずだ。


 「豆柴とかチワワばっかと思っていたらデカい犬しかいねぇ! しかも〇チガイに鼻を折られるしマジで何なんだよ!」


 小型犬種を狙おうとしていたどこまでも根性が腐っている人間だった。初めからこの男の計画は破綻している。


 診察室にいた獣医と看護師が慌てながら来て、強盗の無力化を確認すると安堵した。早く帰宅したくなっているシャーマンは、ねだるように鳴く。


 数分後に到着した警察官から各自、事情聴取を受けた。強盗を痛め付けた彼は他の人間より長く説明しなければならない。


 防刃ベストを着用している警察官ですら躊躇する相手に立ち向かった彼は、警察官達から異常だと言われた。


 骨折した鼻の治療費を払えば大事にしないと言われ、事情聴取の後、知努は母親へ連絡して説明する。


 『相手が鼻の骨折程度の怪我で済んだから良かった。怒ったちーちゃんは何するか分からないよ』


 先程の警察官と違い、彼の母親が強盗犯の心配ばかりしていた。知努は恐れられている自覚がある。



 1時間後、長い散歩がようやく終わり、鶴飛の家へ戻って来た彼は、散歩の道具を物置に片づけた。


 「周りがあんな奴らばかりだったら人間なんて辞めたくなるな」


 ドッグフードと水が入った容器を犬小屋の鎖で繋がれているシャーマンの前へ置いてからしゃがみ、知努は胸を軽く撫でた。


 武器に使ったツインテールの精巧なカツラはまた頭へ被っている。幼さを感じさせられる為、彼はあまり他人に見られたくない。


 地面へ置いてある荷物を持って、住人の揉め声が聞こえる玄関の方に行く。扉を開けてから父親に怒鳴っていた染子は、すぐ知努を見つけて怯えたような表情へ変わり、抱き締める。


 「最悪なタイミングで戻って来やがったか。あの気難しい染子が他人に甘える姿を見たのは久しぶりだな」


 鶴飛姉弟きょうだいの父親の表情は喜んでおらず、苦虫を噛み潰したようだった。


 思春期は所謂不良だった事もあり、鋭い目つきが人柄の怖さを出している。靴箱の上に荷物を置いてから手櫛で梳き、落ち着かせ親子喧嘩のいきさつを訊く。


 高校生の娘が、幼馴染と大人の真似事のような不安定の関係性を築いた事に対する父親の説教から始まったようだ。


 周りの人間に染子がその情報を流出させていたので、いつか染子の父親の耳へ入る事は分かっていた。


 知努自身がこの関係性を正しいと思っていないため、父親の説教は至極真っ当なものだ。


 「もしお前が染子の事を本当に愛しているなら、2度と近づかないで欲しい」


 娘の為に今後一切関わらないで欲しいという父親の頼みへ知努は呑む条件を1つ提示した。


 それは鶴飛家の人間と知努が絶縁する内容だ。当然、看過出来ない大きな問題を抱え込んでいる。


 「お前、あれだけ慕っていた千景を簡単に見捨てる気か、なんて野郎だ!」


 「知るか。乱暴で、自分勝手なクソ女との幼稚な姉弟ごっこはもう、うんざりだ」


 彼女の背中に隠れて彼女の父親から見えていない知努の手が震えている。差し伸べている手を拒絶する事は心へ刺さっている刃を深く押し込む。


 拳の皮が剥けている知努の右手の平へ重ねる。この拳のように他者を傷付ければ、同じく傷付いてしまう。


 「あいつが自暴自棄になって取り返しの付かない事をしでかしたらどうするんだよ!」


 焦りのあまり、感情的になっている染子の父親は声を荒げている。知努の架け橋無くして維持出来ない兄妹関係だった。


 今まで失敗が許されない他人の責任を多く押し付けられてきた知努の不満は、爆発する。


 「良いよな、千景は。年端も行かない俺を虐めて他人の痛みを知った。そして、俺は真逆へ進んだ」


 「それを今更攻めても仕方ないけどな。でもよ、親の権力で押し付けないといけない程、染子とお前の関係性、稀薄なんだろうな」


 図星を突かれた染子の父親が知努に掴みかかろうとして、染子の母親に後ろから制止させられた。


 中年期に差し掛かっている彼女は、黒いフレームの眼鏡を掛けている。まだ、大人の色香が残っていた。後ろ髪の根元と先をヘアゴムで纏めている若々しさが感じられる髪型だ。


 「クソガキがゴラァ! 両親から甘やかされて育ったカマ強〇野郎が調子に乗ってんじゃねぇよボケ!」


 染子の父親は妻の両手を振り解き、知努の頬を殴る。堪忍袋の緒が切れた彼は、殴り返し、笑いながらカバンからスマートフォンを取り出す。


 「よっしゃ! ついでにもう1人のクソ女との姉弟ごっこも終わらせてやる」


 ショートメッセージで誰かに文章を送信する。凶暴さは千景と引かず劣らずの厄介な人間であり、知努へ正気の沙汰と思えない執着を見せていた。


 『そろそろままごと、キツイからお前と関わらない。2度とキショイツラ見せんな、ストーカーメンヘラヒステリック〇イジスベタ』


 画面を彼女の父親に見せ、実行した事実を見せると彼の顔から血の気が引く。信用していた相手の拒絶で、これからどんな行動に出るか想像出来ない。


 『まだバレンタインのチョコに爪を入れた事、根に持っているの? 私が悪かったけど、そんな酷い言葉、大嫌い』


 返信の後、何度も着信が掛かり、知努はスマートフォンの電源を切って、片付けた。今の彼に他人の気持ちを汲み取る余裕が無い。


 知努の正気を取り戻す為、爪先立ちになり、首の後ろへ両手を回して染子は、熱く口付けする。指が攣りそうになりながも彼女は腰へ両足を回し、支えてくれる事を期待した。


 染子の体が床へ落ちそうになっていると気付き、彼の両手は背中に回り、支える。どうやら正気へ戻ったようだ。

 

 熱く濡れそぼつ舌同士を貪欲に絡めながら、2人の片手がやや乱暴な動きで互いの髪を撫でている。


 知努の脳内に、いつか聴いたピアノの演奏が流れていた。物悲しく、愛情や温かさは存在していないと思うような残酷で美しい音色だ。


 一瞬にして、先程まであったはずの触覚は遮断されてしまい、瞼の裏へ月明かりに似た照明に照らされているピアノの光景が浮ぶ。


 すぐさま演奏している染子の姿が加わり、延々と誰もいない空間で誰にも求められず弾いていた。


 『もしお前が染子の事を本当に愛しているなら、2度と近づかないで欲しい』


 染子の父親が言った言葉を反芻する。世間体ばかり気にして重みも無く、温かさが無い。


 身を引いたところで、鶴飛染子は何も改善されない。延々と続く、深い孤独に苦しみ生きていく。


 知努が与えた人の温かさで少しずつ人間らしくなり、愛し合う事から生の充足を得ていた。


 誰かに心から愛されている現実を喜び、色んな人間へ伝えている。しかし、その幸せは否定された。


 彼女の孤独を癒さない常識という鋭い刃物で破壊され、感情はまた無へ戻る。いつか優しく、物静かで色んな人間を愛せる女性へなれるはずだった少女の姿は、ゆっくりと消えていく。


 ユーディットが恋焦がれている優しく王子様の様な男の子は、もうどこにもいない。己の無力さに打ちひしがれていた。


 ピアノの演奏も聴こえなくなり、三中知努は目を開ける。抱き上げていた染子が床で倒れていた。


 2度と手放さないと決意した大事なものをまた手放してしまい、取り返しが付かなっている。


 「だ、大丈夫だから落ち着いて深呼吸して、ね?」


 染子の母親が優しく微笑みながら近付いて、今まで麻痺していた知努の感情が回復した。


 「ご、ごめんなさい」


 もしかすれば目覚めないかもしれないという恐怖が襲い掛かり、その場から走って逃げ出してしまう。


 罪悪感に苛まれ、胸が張り裂けそうな程の痛みを感じる。無我夢中で走り見慣れた町から出た。


 染子の誕生日まであと少しだが、用意した贈り物は渡せそうに無い。明日の朝は登校しなければいけない事を想像する思考すら今の知努になかった。


 所持金を持っていない子供が逃げられる場所など存在しない。走り疲れて、歩道に蹲った。


「お願いだから誰か僕を助けて」


 弱々しく、誰かに頼む知努の声は、月明かりが綺麗な空へ消えていく。数ヶ月前の破局より悲惨だ。

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