第14話飛んで火にいる夏の虫


 ロットワイラーのシャーマンに、リードと口輪を付けさせてから知努が早足で動物病院へ向かう。


 散歩だけの時は口輪を付けない為、シャーマンはこれから動物病院に行くと薄々気付いていた。


 どれだけ暴れても結局、連れて行かれる事は、過去の経験から学んでおり、観念している。


 シャーマンが生きてきた8年間のうち、狂犬病の予防接種に連れて行く鶴飛家の男はいない。


 行く直前まで予防注射へ連れて行くと宣言する庄次郎は、毎年怪獣のチヌラ、キングチドラ、メカキングチドラ、カイザーチドラのせいにして結局行かなかった。


 このふざけた言い訳は買い物を頼む時にも使っており、庄次郎のせいで姉の染子が幾度と魑魅魍魎ちみもうりょうへ変貌している。


 知努は頼まれた物を買って帰る度、魑魅魍魎扱いを受けた姉に、家から閉め出される庄次郎を見てきた。


 引き出しから下着を盗む変態が、冷酷かつ加虐性愛者の姉に半殺しとなっていないか、知努が少し心配する。


 染子に容赦無い加虐を受けさせられる役割は、いつも彼が担っていた。躾通り、知努の後ろを歩くシャーマンは、鶴飛家の大黒柱が戦車の名前から取って名付けている。


 ドイツ原産のロットワイラーが、皮肉にもかつての敵国の中型戦車の名前を冠していた。


 その犬をこうしてリードで繋いでいる知努の名前は、枢軸国の中型戦車と同じ名前だ。


 しかし、戦車に興味が無い人間は、クロダイの別名から取ったと勘違いしている。名前や容姿のせいでいつもからかわれてきた。


 他者と関わる時間をシャーマンの躾に使ったおかげか、賢く、手間が掛からない犬へ育っている。


 横断歩道の赤色と青色の意味を理解しているか分からないが、命令すれば言われた通り、停まっていた。


 出す命令を理解し、聞けるだけの能力さえあれば、知努にとって散歩は然程、苦で無い。


 些細な行動や言動で泣いたり暴れたりする鶴飛千景の方が、まだ手間を掛けさせられる。動物をしっかり躾けられる子供へ教育した両親は、養育の腕が良い。


 いくつもの赤信号の横断歩道で待たされた知努とシャーマンは、ようやく動物病院へ辿り着く。


 院内にウルフドッグやジャーマンシェパードといった、飼育し難しい犬と飼い主の姿が見えた。


 カバンから書類を取り出し、手続し、近くのソファーへ座る。隣でいたウルフドッグの目から涙が零れている。


 飼い主は悲しみで泣いていると思い、慰めていたが犬は悲しんでいない。しかし構って貰えて、どこと無く嬉しそうだ。


 閉業時間が近い時刻に人間の都合で付けられている、鶴飛シャーマンの名前を獣医から呼ばれた。


 診察室へ進み、知努は手術台の上に、シャーマンを持ち上げ、載せる。体重が鶴飛染子1人分に相当した。


 予防接種の補助をする若い獣医看護師2人は、こちらにやって来ながら物珍しい男について話す。


 「女装するくらいだからひ弱と思っていたけど、10キロの米袋さえ持てない彼氏より力あるね」


 「でも、ああいう見た目かわいいと思う男に限って結構凶暴、ほら、よく飲み会で無理やり女子に酒を飲ませて襲う大学生が結構中性的だったり」


 大学生が新入生歓迎会を行う4月、5月はよく飲酒による性的暴行が発生する。彼女達が言うように警察へ逮捕された容疑者は中性的な格好の男ばかりニュースで見かけていた。


 相手の同意があったなど、酩酊状態で同意無く及んだ犯行だったなどと、弁護士と検察官は間抜けな容疑者の為、法廷で言い争っている。


 性的な事に比較的大らかな父親から泥酔中の女子を部屋まで運べる様な男へなって欲しいと、知努はたまに言われていた。


 知努が肩、2人の獣医看護師が胴体をしっかりと押さえて、中年の獣医師はシャーマンへ注射する。


 「はい、今年も終わり。そういえば去年の飲み会に、チー坊みたいな服装で来た痛いバカタレがいたんだよな。確か三中ボケゴミだったか」


 獣医師の愚痴は、昼間の居酒屋で同じ服装をしていた知努の耳に痛い話だ。親子揃って男から反感を買っていた。


 シャーマンを抱き上げ、診察室から出て、またウルフドッグと飼い主の隣に座る。数秒後、明らかに動物病院と縁遠い包丁を持った小太りの男が院内へ入って来た。


 包丁が目に入った飼い主たちは叫び出して犬たちも飼い主に真似て吠え出す。しかし、シャーマンは全く興味を示さず、大きなあくびをする。


 「うるせぇよ! これだから犬畜生は嫌いなんだよ! 俺、柔道3段だからオメェらなんかすぐ絞め殺してやるからな!」


 「まあ、金奪った後に全員殺すんだけどな」


 柔道3段の変質者の襲来で受付の事務処理が終わらない為、知努の苛立ちは少しずつ募っていく。


 もし、庄次郎が約束通りシャーマンを予防接種へ連れて来ていたら、この騒動に巻き込まれていた。


 約束を守った事が人生にいくつあるか分からない程、守れていない男だ。しかし毎回、言い訳の理由だけは凝っていた。


 三中知努という頼れる存在があるからこそ、庄次郎は敢えて頼っているだけだ。


 数年前の深夜、喧嘩で勝つために庄次郎は寝ている姉の顔を蹴る出来事があった。いつか喧嘩で済まなくなると危惧した知努は、庄次郎にある簡単な約束をさせる。


 頼み事を出来る限り聞いて貰う代わりに姉と母親へ手を上げない。この約束だけは反抗期の今もしっかり守っている。


知努は違えてはいけない約束が守れる庄次郎に怖い体験をして欲しくないと思っていた。


 受付で座っている獣医看護師も怯えている中、知努の体は行き場のない怒りが支配している。


 このまま籠城でもされ、滅多に本性を出さない鶴飛染子が心配していたらやるせなくなるだろう。


 シャーマンが動かないように冷たい声で指示し、知努はゆっくりと立ち上がってからカツラの後ろ髪を掴んで脱ぐ。


 「俺は早く帰りたいから、隅で一生お遊戯やってろ」


 そのまま男の顔に投げ、一瞬、相手へ背中を見せると、左旋回しながら左脚を曲げて、後ろ蹴りが繰り出される。


 そして、右膝の打撃で体勢を崩した男の頭上へ内回りに回転しつつ、上げた右かかとを勢い良く振り落とす。


 反撃する隙すら与えず、右手首を掴んでから何発も頬骨を殴る。拳の皮が捲れ、院内へ男の悲鳴は絶えず響く。

 

 包丁を手放した事でようやく彼は、顎へ膝蹴りし、解放した。右手は血で濡れている。

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