[18] --

 市街地の外れに立つ、高級マンション。

 大都市に比べれば、田舎と見られても致し方ない程度の街にしては、郊外には立派な住居が建っていて、眩しいくらいに輝く街灯が、真夜中であっても人々の安全を保障する。

 山根の自宅は、その中程度の階層にあった。調律の取れた間取り、光学に基づく快適な色温度、欲求を満足させる為の雑多なグッズ類。

 けれどその全てを拒絶するように、山根は電気を消した自室で、布団に包まってただガタガタと震えていた。


「あるわけない……あるわけない……! “呪い”なんて……!」


 カーテンは閉められ、天井に備え付けられた常夜灯の、淡い橙色の光だけが室内を照らす。

 自宅に着いた山根は、心配する家族をよそに自室に駆け込むと、扉に鍵を掛

けて 閉じ篭ってしまった。もうすぐ夜の十二時を回るというのに、飯も食べず、風呂にも入らず、友達と楽しく通話もせず、ただひたすらに布団の中で得体の知れない恐怖に怯えている。

 現代っ子の山根の家に固定電話などなく、故に携帯を失うことは情報連絡網の死を意味するのだが、山根は予備のスマートフォンも含めてしてしまっていた。尤も、それらが手元にあったとして、今の山根はマトモに見る気分にはなれなかっただろうが。


「ぜんぶ嘘……ぜんぶ……六花と美月がおかしくなっただけ……おかしく……じゃあ誰なの? イタズラしてたのは、誰なのよぉ……っ」


 自らを慰める理論すらロクに組み立てられず、ただ夜が過ぎ去るのを、闇が通り過ぎるのを、極限まで醒めた意識と遅くなった刻の中で、山根は待たなくてはならなかった。


「朝になれば……朝になればそう、みんな学校にいるよね……? 愛川も、星野も、六花も……。また、いつも通りの日々が、始まるよねぇ……?」


 泣きじゃくりながら、虚空に向かって語り続ける。他人に話しかけなければ、自我を維持できない。たとえ、独りになってしまったとしても。それが、山根という女だった。


「みんなで駄弁って……ウザイ先生をバカにして……六花を虐め倒して……みっ……つきを……。そんな日々が、戻ってくるんだよね……? ねぇ……ねぇ……そうでしょ? そうでしょ、誰か――」


 山根が、同意を求めて縋ったとき。

 どん、と、扉を叩く音がした。


「ヒィッ!? だれ!?」


 吃驚して、山根は部屋の扉の方に向き直る。


「おとーさん……? おかーさん……?」


 返事はない。

 両親に対しては険悪というか、見下した対応をとる山根も、今だけは甘えずにいられない。

 プライドと衝動が鬩ぎ合った結果、山根は力なくベッドから降りると、扉の方へ向かおうとした。その時。

 どん。

 再び、扉が叩かれる。


「へっ?」


 どん。三度。

 どん。

 どん、

 どん、

 どん、どん、

 どん、どん、どん、どん、

 どんどんどんどんどんどんどんどんどんどん


「えっ。えっ……えぁ」


 心臓が締め付けられる。

 扉は何回も何回も叩きつけられ、今にも割れてしまいそうなくらいに木の板が悲鳴を上げている。

 けれど一向に開く気配はない。当然だ。鍵掛けてるんだから。じゃあこれ何? 親? 親はこんなことしない。じゃあこれは一体――


「いっ……ひぃ……っ」


 鼓動がばくばくと波打ち、抱えてた布団がずるずると剥がれ、山根は、目の前を凝視する。

 扉は開かない。開かないままに、視界はだんだんと狭く闇に満ちていく。いや、視野が狭くなっているだけか? 違う。視点を左右に振ってみれば分かる。

 “闇”が、入ってきている。扉の向こうから、壁の向こうから、こちらに、一切の光を通さない、そんな“闇”が入ってきているのだ。


「イヤアアアアアアァァァアアアアアァァ――――ッ!!!」


 山根の理性はあっけなく吹き飛んだ。ただの肉塊になっていた。

 布団を投げ、スリッパを投げ、手に触れるあらゆる物を投げ込んだ。全部“闇”に吸い込まれて消えていった。音すら立てなかった。


「くるなあああぁぁ――ッ!! くるな、くるなあああぁあああぁあああッッ!!!」  


 工場の時とは段違いの絶叫を上げて、山根のような肉人形は喚き散らす。

 ここが、最後の砦だった。身と心を守れる、最後の拠り所だったのだ。それはあっけなく犯された。山根は壊れる他なかった。

 抵抗の手段を失い、肉塊おんなは窓際まで追い詰められる。

 部屋の半分は“闇”に呑み込まれ、橙の灯も消え失せて、本当の常夜が訪れた。


「あああぁあぁぁっ……やめてやめてやめて……ころさないでぇ……」


 背中をぺたんと窓に付け、無謀にも“闇”に語りかけるおんな。“闇”が答える筈もない。

 けれど酔狂なことに、“闇”はぐねぐねと蠢いて、歪なヒトガタを取り始めた。完全な黒の輪郭など知覚できる訳がないのに、しかし今の肉塊おんなには、なぜだかが視えてしまっていた。


『やまねっち……』

『やまね』

『やまね……』


 それは、聞き覚えのある声だった。いや聞き覚えなどない。ないのに脳内の当て嵌めは完璧だった。


「りっかぁ……? みつきぃ……? あいかわぁぁ……?」


 三人だけではない。何処かで見たような、見てないような、無数のクラスメイトたちが、友人たちが、奴隷たちが、みんながみんな、私の名前を呼んでいる。そして、呼んでいるのだ。



 ここっっちちににここいいよよおおオオオおおおおおお

  ここっっちちににここいいよよおおオオオおおおおおおヲヲヲヲ



「やあああああぁぁぁっ!! やだあぁぁぁああっ!! やだよおおおぉぉっ!!! いやだああぁぁぁああ!!」


 狂乱しながら、窓を叩いて叩いて叩いて、鍵を開けながら叩いて叩いて叩いて窓を開けると、叩いて叩いてベランダに出る。

 ガラスは赤で汚れたが、  おんなにはそれすら愛しく思えた。

 ベランダは月明かりと文明の灯りに照らされて、仄かな光に包まれている。

 ぜぇぜぇと呼吸をして、  おんなは身体の中のすみずみまで光を取り込んだ。

 けれど背後からは、俄然“闇”が迫ってくる。部屋から出ても、その勢いが衰えることはない。人の歴史も、自然の加護も、“闇”の前では何の意味も為さない。ベランダもまた、“闇”に侵蝕され往くだけの空間でしかなく、最早逃げ場はないと悟った。


「うええぇぇん……おとーさん……おかーさああぁん……」


 ふらふらと手すりに掴まると、子供の守護者たる概念に助けを求める。

 走馬灯のように、脳内に小さい頃からの思い出が蘇る、

 けれど、その記憶もまた、影が入ったかと思うと、次第に“闇”に呑み込まれて消えていく。涙さえ、“闇”に墜ちれば誰も気付くことはない。

   おんなは恐怖と絶望の余り、生物ですらなくなりつつあった。嫌だ。このまま、あいつらと同じになりたくない。“闇”になんてなりたくない。光、光、光……

 走光性の虫けらのように明を求めた  おんなは、マンションの近くを流れる川に、大きなお月様が映っていることに気付いた。

 水流に反射して様々な光沢を覗かせる、白くて美しい月。

 それは何よりも綺麗で、恒久の純白を湛えていて、暗黒を打ち破るだけの神力が込められている。


「あ、ひかり……」


   おんなはそれに向かって手を伸ばし、足りないので身を乗り出し、届かないので足を乗せる。

 

「これで、わたしは……」


 そのまま、恍惚とした表情で手すりを蹴ると、女は他ならぬ地球の重力に身を委ねた。




 













 ぐしゃっ。


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