[5]夜中 -六花絹江-
息を切らして走る。闇に追い着かれる前に。
市街地のビル群は横殴りの閃光を遮り、漆黒の光芒となってアスファルトを喰い散らかす。アタシは影を避けるようにして走りたかったが、歩幅が、アタシという運動能力の限界がそれを許さなかった。ざけんな、アタシは陸上部だぞ……!
まっすぐの筈の道路はぐねりと歪んでいる。地を蹴る感触が覚束ない。何度も何度も転びそうになって、その度に顔を上げると、路地の向こうの橙色を見据える。あの角を曲がれば、アタシの家。あそこに辿り着かなければ、足を止めてしまえば、その瞬間、この闇に呑まれてしまいそうだった。
必死に走って走って、ついぞ太陽に辿り着いた――と光に踏み入れようとした刹那に、その橙はなくなった。
「あ……」
訪れる闇。
空を見上げる。まだ仄かに赤みがかった地平の向こうと、藍に染まった頭上の天。
アタシ知ってる。黄昏時っていうんだ、これ。
だっていうのに、辺りは一筋の光もない暗黒と静寂に包まれてる。
『りっか……』
アタシを呼ぶ声が聞こえる。背後から……真横から……アタシの目に映らないあらゆる場所から。
恐る恐る、アタシは振り返る――
そこには、黒さえ吸い込むような黒いヒトガタのもやが在って、アタシを見て笑ってた。
くすくす、ざわざわと雑音が広がって、もやは増殖していく。
視界を、聴覚を、外界全てを、一片の隙間なく埋め尽くし。
さいごに、アタシをぱっくりと呑み込んだ。
* * *
「ああああッ!!」
覚醒する。やはり闇。硬い布団の感触。ぐっしょりと濡れたパジャマ。
枕元に手を伸ばすと照明のリモコンを手に取り、手探りで出っ張りを片っ端から押す。
寸刻の後、光。眩しさに目を眩ませながら、ここが自室のベッドの上だということを確認する。
「はぁっ……はぁっ…………」
夢……今のは夢だ。ただの夢。止まりかけた心臓に向かって言い聞かせる。
乱雑に雑誌やゲーム機の置かれた部屋の中にはランドセルが投げ捨てられ、棚の上の写真立てや置物がいくつか床に転落している。
心の中では、一度は押し込めた、今すぐ誰かに泣きつきたいほどの恐怖が再びぐるぐると渦巻いていた。何処から来るのか、何に怯えているのか、アタシ自身にも分からない、正体不明の悪感情。それが頭痛となり、動悸となり、全身の痛みとなり、アタシの心も体も乗っ取ろうとするかのごとく蝕む。
「絹江!! 何時だと思ってんのッ!!」
女の怒鳴り声が聞こえてアタシが我に返ると、間髪入れず、ばん、と扉を打ち付ける音が響く。
ビクッと震えて、弱々しく「ごめん」と返すと、どたどたと野蛮な足音を立てて、そいつはアタシの部屋の前から離れていった。
そうだ、泣きつく相手なんていない。
気を紛らわせるために、スマートフォンを取り出すと電源を入れる。メッセージの着信数多。見ないようにして、ブラウザを立ち上げる。
……あの後、家まで一目散に逃げ帰ったアタシは、なるべく親の機嫌を損ねないようにしつつも、アタシ自身の精神を落ち着かせることで精一杯だった。
多少、冷静になってくると、どうしてあんなに取り乱したのか、自分でも分からなくなってくる。呪いなんてあるわけがない。あんなものはただの文字の羅列だ……そうやって、もっともらしい正論でアタシを諌めても、アタシの中の怯えは取り除かれる気配がなかった。
いや、そもそも、もっと別の深刻で理解できる恐怖がある。アタシはあの場に美月を置いてきた。散々蹴り飛ばして、動かなくなった美月をだ。後で美月が証言すれば、一発でバレる。いや、全く加減も何もせずに壁に打ち付けたのだ、もしかすれば、あのまま死ん……
今更になって、足元に生温い感触が蘇ってくる。どうしよう。そうなれば、アタシは殺人犯だ。テーガクとかタイガクとかそういう次元じゃない。犯罪者だ。一生、後ろ指を指されて生きていくのだ。
嫌だ。けれどもう、証拠隠滅なんてできっこない。何の手立ても講じられない。朝日が昇れば裁かれることを分かっていながら、アタシは朝を迎えなきゃならない。そのことが何よりも耐えがたい苦痛だった。
「うう、ああぁ……」
堪えきれなくて、アタシは涙を流す。
ニュースサイトを映すスマートフォンの液晶は、最新鋭を誇るかのように、その雫をことごとく弾いてみせた。
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