第ニ話 教え子
俺の母親は俺が生まれてからずっとママさんバレーをやっていて、柚葉ちゃんのお母さんともそこで知り合った。
小さい頃――俺も柚葉ちゃんもまだ物心がつく前、甘木のおばちゃんはよく柚葉ちゃんを連れてうちに遊びにきていたらしく、俺と柚葉ちゃんの出会いは正確には二十年近く前のことになる。とはいえ、当時、俺は二歳とか三歳とかそこらで、柚葉ちゃんなんて赤ちゃんだったから、お互い、当然ながら全くもって覚えてはいないのだが……。
やがて、柚葉ちゃんが幼稚園に上がったのを機に、おばちゃんは職場復帰してママさんバレーを辞め、それ以来、二人は徐々に疎遠になり、再会を果たしたのは一年半ほど前――俺が大学一年の冬の頃だった。ばたりとスーパーで出会し、どうやら『ちょっとやだ〜、久しぶりー!』からのファミレスでのお茶会に発展、そして、ウチに来て延長戦へと突入。ちょうど、俺が大学から帰ってきたのはそんなときで、俺は見事にその延長戦に巻き込まれることになったのだった。
「あら!? 旭くん!? まあ〜、大きくなってー!」
「体だけよ、立派になったのは」
「え〜、何言ってんのよ〜。帝南大学でしょー! すごいわよー! 小さい頃から賢そうな顔してる、て思ってたのよ〜」
「ええ、そうかしら〜? お父さんに似てパッとしないでしょう。華がないというか、地味と言うか……なんだか、いつもボーッとした顔しててねぇ」
ボロクソだな、母さん――なんて思いながら、俺はパッとしない顔に、パッとしない薄ら笑みを浮かべ、リビングの入り口で突っ立っていた。
会話はキャッチボールなんて言うが……おばさん二人のそれはまるでボクシングのスパーリングの如き怒涛の打ち合いだった。お互いに捲し立てるような食い気味の掛け合いが延々と続き、「じゃあ、俺はこれで。ごゆっくり」なんて軽くジャブを入れる隙も無かった。すっかりその場を抜け出すタイミングを失って、どうしたものか、と考えあぐねていると、
「そういえば、柚葉ちゃん、来年、大学受験なのよね! この子、こんなんでも、一応、家庭教師のバイトやってるのよ」
そんな不穏な口火を切るや、母親はにっこり満面の笑みを浮かべて俺に振り返った。
「あんた、ちょっと柚葉ちゃんのお勉強見てあげなさいよ」
ちょっと勉強を見る――て、なに!?
ぎょっとして、「何言い出すんだ」と反論しようと口を開けたが、「あら、いいの!?」と息もつかせぬ素早い右フック――ならぬ、甘木のおばちゃんの切り返しが。
「予備校とか塾に行かせると、帰りが夜遅くなるでしょう。最近、この辺も物騒だから、夜に外を出歩かせるのはなんだか不安だし……家庭教師を雇うにしても、見ず知らずの人を家に上げるのも気が進まなくて。ちょうど、悩んでいたところだったのよ。旭くんに頼めたら安心だわ〜。帝南大だし、なにより、潤ちゃんの息子さんだし!」
冗談ではない。地味で目立たぬ俺にも一応キャンパスライフというものがある。別に、夜な夜なパーリーパーリーしているわけではないし、ようやく出来た初めてのカノジョには『なんかちょっと違った』とパッとしないフラれ方をしたばかりで絶賛独り身中だが、俺は俺なりにパッとしないキャンパスライフをパッとしない楽しみ方で謳歌しているのだ。これ以上、生徒を増やして時間を取られるわけにはいかない。丁重にお断りしよう――としたのだが、
「お代は二倍出すわよ」
にこりと微笑み、実に優雅に繰り出された甘木のおばちゃんのその一言で、財布の外も中身もパッとしない俺は見事にKOされた。
そう――。聞こえは悪いが、最初は金目当てだったんだ。
金につられるままに、俺は柚葉ちゃんの家庭教師を引き受け、そして、その数日後、のこのこと柚葉ちゃんのマンションに赴き――、
「甘木柚葉です。よろしくお願いします、
玄関で出迎えてくれた甘木のおばちゃんと共にリビングに入ると、慌てた様子でソファから立ち上がり、ぺこりと頭を下げる女の子がいた。
小柄な子だった。真っ白なワンピースを纏った身体はほっそりとして華奢で、艶やかな黒髪は肩より少し長いくらい。派手というよりは純朴そうな顔立ちで、両手を揃えて佇む様は控えめで奥ゆかしくも、そのまっすぐな瞳は好奇心をたっぷり詰め込んだかのように溌剌と光り輝いて見えた。
何か……ぐっと惹き込まれるような魅力があった。
でも、そのときはそれだけで。胸にざわつきは覚えつつも、気にはしていなかった。今まで請け負ってきたのは男子高生だけだったし、初めての女子高生に俺も浮ついてしまっているんだろう、くらいにしか思っていなかった。
しかし――。
さっそく柚葉ちゃんの部屋に向かい、デスクに向かって並んで座って、学習計画を立てようかというとき、
「そういえば」と思い出したように、ふいに柚葉ちゃんが切り出した。「悠木センセイと私、小さい頃に会ったことあるらしいですよ」
「ああ……」突然、何だろうか、と思いつつも、相槌打って振り返り、「そうらしいね。俺も聞いたことあるよ」
「悠木センセイが私の初めての友達だ、てお母さんが言ってました」
「そうなんだ? へえ……」
まあ、赤ちゃんと二歳児じゃ、『友達』なんて関係性は無かっただろうけど、親にとってはそんなのどうでもいいんだろうな――なんて、天井を振り仰いでぼんやり考えていると、
「家庭教師も……実は、悠木センセイが初めてで」と柚葉ちゃんがぼそっと言うのが聞こえた。「この部屋に、男の人を入れたのも……悠木センセイが初めてなんです」
え……と視線を向けた先で、
「悠木センセイは、私の『初めて』の人ですね」
未だに覚えてる――。
髪をそっと耳にかけ、ふわりと微笑む彼女。その瞬間、まるで、世界が変わったように思えた。
辺りが突然、ぱあっと眩い光に満ちて、目に見える全ての色が鮮やかに色づき、部屋の中だというのに、春一番でも吹き抜けていったかのような爽やかな風を感じた。マンションから、突然、ぽいっと花畑にでも放り出されたかのような……そんな感じだった。
完全に落ちたのだ。
約二十年ぶりに再会した彼女と、『はじめまして』と挨拶を交わしてからほんの一時間。俺は柚葉ちゃんを好きになっていた。
男というものは単純なもので。好きになったらあとは真っしぐらだ。
俺は(恋に)落ちたが、柚葉ちゃんを(大学に)落とすわけにはいかない、と……綿密に学習計画を立て、カリスマ塾講師のネット動画を漁っては『上手に教えるコツ』を研究し、未だ嘗て無いほど真剣にカテキョ業に励んだ。
そうして、新学期になり、夏を迎え、七月の期末テストがやってきた。その結果は目を見張るほど。中間テストに比べ、柚葉ちゃんの成績はぐっと上がり、順位は文字通り桁違いに。その成績表を見るなり、嬉しくて、思わず――、
「がんばったな、甘木さん!」
声を上げ、肩をがしりと掴んでいた。
つい、癖だった。柚葉ちゃん以外の生徒は、男だけだったから。
掴んだ瞬間、そのか細い肩がびくんと震えて、「きゃっ……」と小さい悲鳴が聞こえた。
ハッとして、成績表から視線をズラして見つめた先で、柚葉ちゃんの横顔がかあっと赤くなるのが分かって、
「あ……ごめん!」
慌てて手を離して謝ると、柚葉ちゃんは俯き、さらりと肩から滑るように落ちた髪がその横顔を隠した。
表情が見えない――。
ゾッとした。まさに、生きた心地がしないというやつだった。
そのときにはもう、俺も柚葉ちゃんのことはよく知っていて、どれほど男への免疫が無いかも分かっていたから。机の下でぎゅっとスカートを握りしめ、身を縮めて黙りこむ柚葉ちゃんの様子は――表情は窺えないものの――明らかに怯えているふうで。ああ、終わった……と思った。怖がらせてしまった。もうクビになるかも――と絶望しかけた、そのときだった。
「柚葉……」
俯いたまま、か細い声で柚葉ちゃんが言うのが聞こえた。
「え……?」と訊き返すと、
「柚葉……がいい、です」
たどたどしく言って、顔を上げた柚葉ちゃんは、今にも泣き出しそうなほどに瞳を潤ませ、やはり、怯えたような表情を浮かべていた。
ただ、その顔は真っ赤に染まり、じっと俺を見つめる眼差しは縋るようで……。
あ――と、悟った。
心臓が大きく波打って、つい、「俺も……!」と身を乗り出して言いかけ、ハッとする。慌てて「あ、いや……」とごまかして、身を引いた。
「俺も――旭でいい。センセイ、とかいらない」
気を取り直し、真剣な面持ちでそう言うと、柚葉ちゃんは潤んだ瞳を光を散らす水面のようにキラキラと輝かせ、
「旭……さん」
噛みしめるように呟いて、嬉しそうに微笑んだ。
――それが、初めての告白だったんだと思う。
好きだ、と口には出さなかったけど、お互いに、好きなんだと気づけた。気持ちが繋がった感じがした。
そこからは、あっという間だった。あっという間に、俺たちの距離は縮まっていった。隣り合って座る椅子の距離は徐々に近づき、夏休みも半ばに差し掛かる頃には、外が猛暑と言われる暑さを記録する中、まるで俺たちだけ真冬にいるみたいに身を寄せ合うようになっていた。
会うたび、愛おしさが募り、ちょっとした拍子に溢れ返るんじゃないか、と怖くなるほどだった。
ただ、俺はあくまで、柚葉ちゃんの家庭教師だったから――柚葉ちゃんのお母さんに雇われた身であり、柚葉ちゃんを大学に受からせるのが俺の使命。よからぬ妄想は山のようにしつつも、全てティッシュにくるんで捨てることにして、柚葉ちゃんが好きだからこそ、柚葉ちゃんが大学に受かるまでは家庭教師であろう、と心に誓い、一年間耐えに耐え抜いた。
好きな子の存在を――、彼女の好意を――、すぐ傍で肌で感じながらも何もできないというのは、なかなかの苦行ではあったが、それでも……。
「旭さん……」
もうすっかり寒くなって、受験勉強も追い込みという頃。左手に赤ペンを持ち、彼女の課題を採点していたときだった。こっそりと甘えるような声がすぐ隣から聞こえて、右手の甲に彼女の左手がそっと触れるのを感じた。
――それはいつもの合図だった。
そのまま、何も言わず、彼女の左手を右手の掌の中に迎え入れる。ぎゅっと握り締め、採点を続けていると、
「旭さんが左利きでよかった」
うっとりと、彼女は感じ入るように呟いた。
ちらりと見れば、彼女は熱のこもった瞳で俺を見つめていて、
「こうして……手、繋いでられるもん」
へへ、と照れたように笑う彼女は、ぐっと幼く見えて……愛らしくていじらしくてたまらなくなった。
ああ、好きだ。大好きだ……て、抗えようの無い実感が込み上げてきて、ぎゅっと力強く彼女の手を握りしめていた。
無言でただ、手を繋ぐ。――その頃、俺たちにできたのはそれくらいで。でも、それだけで……それだけの繋がりで、胸いっぱいに満たされた。
大げさじゃなく、生きてきて良かった、なんて思えたんだ。
* * *
それから半年経った
「こっちも起きちゃいましたね」
なんて悪戯っぽく言って、彼女はあの頃と同じように手を伸ばしてくる。俺の右手――ではなく、勝手にやる気に満ち満ちて膨れ上がった俺のモノへと……。そして、臆する様子もなく、まるで仔猫でも撫でるように、ズボンの上から優しくソレを弄ってきて、
「また、ご奉仕……しましょうか? さっき、お風呂でしたみたいに……」
小首を傾げ、ほんのりと頬を染めながら訊いてくる柚葉ちゃんに、俺は我に返ったようにハッとして、
「ご……ゴホウシ!?」
夜中にも関わらず、大声を上げていた。
ご……ごほうし? ゴホウシ!? ごほうしって、なんぞ!? 三蔵法師のお友達的な……感じじゃないよな!?
なんで……? なんでだ? やっぱり、おかしい。おかしすぎる……! 俺はそんな卑猥な単語、柚葉ちゃんに教えてないぞ!?
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