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 置かれている状況を一言で言い表すならば、間違いなく窮地である。

 人の手がほとんど加えられていない鬱蒼とした森、その深部には昔──と言っても十年は経っていないし、此方からしたらまだまだ最近に入る年月──に燃え落ちた洋館の残骸、正確には土台と骨組みがぽつねんと存在している。

 其処に、彼──同胞からは、いつの間にかウィル、と呼ばれていたのでなし崩し的にそう名乗っている──はいる。好き好んで滞在しているのではない。其処から動けず、存在そのものが不可視の力によって縛り付けられている。

 失敗だった、とウィルは思う。

 この森には、不思議なことに同胞が一切住んでいない。本来ならそれを不審に思うべきなのに、騒がしくて向こう見ず、鬱陶しい同胞たちから逃れられるという理由だけでこの曰く付きの森に飛び込んでしまった。此処でならば自分の好きなようにやれるし、邪魔されることもないと思って。

 もう少し本音を語ろう。ウィルは人を驚かせるのが好きだ。予想外の出来事に慌てふためく人を見ると、胸の内が躍るような心地を覚える。だから、此処に居座って冗談半分にやって来た人を驚かせてやろうと思った。

 この洋館だったものがどのような事情から焼け落ちたのか、ウィルは知らない。だが、当時はそこそこ離れているウィルのねぐらにも、この森で何かが燃え、決して少なからぬ命が失われたという噂は駆け巡った。同胞たちは事情も知らないくせに怖い怖いと騒いでいたが、ウィルは恐怖よりも興味の方が勝った。もともと誰も寄りつかず、それでいて謎の火事によって失われた命がある森とは、如何様なものかと。

 幾度目になるかわからない溜め息を吐こうとして、やめる。大丈夫だとは思うが、など愚者中の愚者だ。完全に笑い話の主人公だ。そんな間抜けな終わりは、とてもじゃないが受け入れられない。

 意識を何処か遠くに飛ばしてしまいたい。憂鬱な気持ちのまま天を仰ぎ──其処で、そう離れていないところから近付いてくる足音を知覚する。

 好機だ。ウィルはそそくさと移動する。この機会を逃せば、次に人が訪れるのはいつになることか。もう数年単位で孤独と閉塞感を味わいたくはない。

 本来なら人を驚かせるところだが、逃げられては一巻の終わり。何とか自分を認識してもらい、今の状況を打破するための一歩を踏み出さなくてはならない。

 しかし、いきなり人前に飛び出すのは下策だ。此処は一度様子見をして、出方を窺ってから行動に移すべきだろう。

 木陰に隠れ、足音の主が近付くのを待つ。もし方向を変えて此方に来なかったらどうしよう、という不安にも襲われたが、幸いにして杞憂に終わった。ウィルからしてみれば永遠にも感じられる時間だったが、現実の時間経過は然程かからなかった。やがて人影がウィルの視界に入る。

 歩みを進めてきたのは一人の少女だった。遠目からでも、非常に小柄なことがわかる。

 もう少し待ってみれば、容姿もはっきりと視認出来るまでに距離が詰まった。所々跳ねた灰色の髪の毛に、顔の小ささから不格好にも見える、大きめのレンズが特徴的な丸眼鏡。見たところ十代半ばのようだが、年頃の少女が身に付けるにしてはシンプルに過ぎる黒のパーカーとジーンズ、飾り気のないデッキシューズという出で立ちで、若者特有の溌剌はつらつとした華やかな雰囲気は感じられない。

 地味だが不思議と目が離せない。ウィルが少女に抱いた第一印象である。

 少女はリュックサックを背負っていたが、それとは別に花束らしきものを手にしていた。素朴な黄色い花である。ミモザだろうか、とウィルは推測した。


「──松明持ちのウィリアム、ではありませんね」


 直後、少女の視線が真っ向からぶつかる。

 情けない話だが、ウィルは怯んだ。どうにか声は上げなかったが、既に少女は此方の姿を視認しているらしい。ずんずんと淀みない足取りで近付くと、ウィルの真正面に立った。

 改めて、不思議な空気を纏った少女だと思った。顔立ちは西洋人のそれだが、両目は一切の混じりけがない純黒。一筋の光も通さないそれは底知れない黒を湛え、彼女の意思の強さを悟らせた。

 何故、こうもすぐに気付かれたのだろう。いや、それよりもこの少女は自分を前にしても落ち着き払っている。場慣れした人間、と捉えて良いのだろうか。

 何せ、今のウィルの姿を表すのならば怪火、ふわふわと浮かぶ火の玉なのである。いつだったか、火の玉って科学的に実現するらしいよ、と同胞から言われた気がするが、それはさておき典型的な怪異現象なのだ。大抵の人間ならば驚いてもおかしくない気がする。それなのに、目の前の少女に臆したところはない。

 彼女なら、解決策を導く糸口になるのではないか。ウィルの胸中に、僅かながら希望の光が灯る。


「たしかにおれはウィルって呼ばれてるけど、松明なんか持っちゃいない。多分そいつは余所の怪火だぜ」


 ふよん、と幾分か躍動的に浮遊しつつ、ウィルは少女に説明する。誤解されたままでは後で困る。

 やっぱり、と少女はひとつうなずいた。じ、と瞬きせずに此方を凝視する。


「では、あなたは何者なのでしょう。意思疎通もできるようですし、ただの現象としての火の玉ではありませんね?」


 少女の目に映るウィルは、顔も体もない、橙色をした掌大の火の玉だ。それが喋っているというのに、彼女は顔色ひとつ変えない。それどころか問いかけを投げ掛け、会話を続けようとしている。

 ウィルは此処のところ悲観的だったが、久方ぶりの会話と理解者らしき人物の登場に嬉しくなった。こくこくと首を振り──正確には火の玉としての実体を縦に揺らして──少女の言葉を肯定する。


「そうそう、おれ、もとから火の玉って訳じゃないんだ。種族とか、細かいことはわかんないけど、もともとは此処よりも南に住んでた妖精でさ、」


 全てを話し終える前に、ウィルははたと口をつぐむ。

 何故だろう。少女との距離が明らかに開いている。


「……おまえ、もしかして引いてる?」

「否定はしません」

「なんだよその曖昧な物言いはよ、火の玉とか怖くないんじゃなかったのかよ」


 好き勝手に喋ったのはウィルなのだが、彼としては何となく裏切られたような気分だった。先程まで平気そうに見えたのに、今の少女ときたら明らかに逃げ腰である。

 少女はいえ、と前置きしたが、完全に苦虫を噛み潰したような顔付きだ。ウィルの心はさらに傷付く。


「嘘つき、ペテン師、いかさま師! 何がいえだよ、無茶苦茶嫌がってるだろ! おれがどんなに寂しい思いをしてたかなんて知らないで」

「す、すみません。邪険な態度をとったことは謝ります」

「謝って済めば警察ヤードはいらないんだよ!」

「でもほら、妖精って面倒臭いじゃないですか」

「それはわかる」

「いきなり落ち着かないでください」


 突然の同意に少女が的確な突っ込みを入れる。悪いことをした訳ではないが、ウィルはつい反射的に悪い、と謝罪してしまった。

 しかし、同胞──自分以外の妖精と上手くやれなかったウィルとしては、少女の言葉には全面的に同意するしかない。ふわふわと移動し、少女の隣へと並ぶ。何だか一気に親近感が湧いた。


「おまえ、連中の被害者なの? 取り替え子とか仕掛けられた?」

「うきうきしながらとんでもないことを聞かないでください。昔から何かとちょっかいをかけられるだけですよ」

「いたずらにだって色んな段階があるだろ。とにかく苦労してきたんだな」

「あなたは他の方々とは違うんですか? 妙に同情的ですが」

「当たり前だろ、同じにしてもらっちゃ困る。おれは良識ある妖精だからな」

「…………」

「そんな疑わしげな目で見るなよ。それに、今の言葉が嘘だったとしても、おれはおまえに何もできない。数年前からここに縛り付けられて、限られた範囲でしか身動きできないんだからな」


 なげやりに告げると、少女の目の色が変わった。ずい、と顔を近付けてくるので、火の玉の身としては逆に不安になる。いくら肝の据わった少女といえど、顔に火傷を負わせたとなってはなけなしの良心が痛む。


「それは本当ですか」

「ほ、本当だよ。とりあえず離れてくれよ、おれ一応火の玉なんだぞ」

「表面上の姿だけなら大丈夫でしょう。それに、万一本物の炎と同じ効果を有していたとしても、私は距離感を見誤りません」

「わかったよ、おれが自主的に離れればいいんだろ」


 おとなしそうな見た目に反して、少女はなかなか強情である。こういった手合いに対しては、のっぴきならない事情でもない限りこちら側が引いてやる他ない。

 ウィルが後退したことで、前のめりだった少女の背は再び伸びる。ふむ、と小さく唸ってから、細い指で眼鏡を押し上げる。


「ところで、あなたは以前よりこの場所に縛られているそうですね。そのお話、詳しく伺っても?」

「ああ、大歓迎だ。この窮地を救ってくれるんなら、いくらでも話してやるさ」


 人の体があったら、ウィルは肩を竦めていただろう。

 どうにもこの少女はやりづらい。だが、不快に感じることもない。

 趣味で人間と関わることの多いウィルではあるが、こういった性質タイプの人は初めてだ。物怖じせず、かといって驕ることなく、淡々としていながら妙に芯のある人間。


「そういえば、名乗ってなかったな。おれはウィル、周りからは愚者火のウィルって呼ばれてる。ま、おまえに見破られた通り、ウィルオウィスプとは何の関係もないけどな。他に呼び名がないから、差し支えないならウィルって呼んでくれよ」


 一通り名乗ってから、おまえは、と促す。片方だけが情報開示するのは不公平だ。

 少女が一歩踏み込む。ただそれだけの動きで、何故だかざわりと寒気を感じる。その場の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。


「アイン、とお呼びください。それが私の名前です」


 灰色の髪の少女──アインは、機械的に口角をつり上げた。

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