8

 発進する電車を横目で見送る。平日の昼下がり、加えて今しがた出発したのは各駅停車のため、乗客はまばらだった。

 乗車するのはこの後の急行だ。天津はリュックサックの引っかけているICカードの表面をつるりと撫でる。世界各国を旅しているので、それぞれの地域の交通系カードが溜まりつつある。いっそコレクションしても良いかもしれない。


「やあ、今日はいつになくご機嫌じゃないか」


 視界の中心部に、突如現れる金色。

 つい先刻まで柔らかさを帯びていた天津の表情が瞬時に固まる。ご機嫌、という単語からは程遠い目付きで、彼女は眼前に立つ人の姿をした異形を睨み付けた。


「……お前のせいで台無しだ。聖地に出られないなら、せめて出国するまで私の前に姿を見せないで欲しかったんだけど」

「相変わらず冷たいね、お前は。まあそうさね、たしかにあのお山の側ではお前に近付けなかった。あそこは儂のような存在を受け付けてはくれんようだ──誠に不本意だがね」


 一本の三つ編みを尻尾のように揺らす、麗しの少年──グリモワールの悪魔。自らを睥睨する少女を前にしても、彼が動じることはない。彼自身、少女の反応を楽しんでいる節がある。

 ホームすれすれに立つ悪魔は、危機感などまるで皆無といった様子でくるりと一回転した。当然のことだが、天津から心配はされない。そのまま落ちろと言わんばかりの眼差しを注がれている。

 なあ、とグリモワールの悪魔は呼び掛ける。懲りた風はない。そもそも皆無である。


「お前、次は何て名乗るつもりだい? これまでもお前は色々な偽名を使ってきた。そのいずれも、お前本来の真名とは近いようで遠い。お前なりに、向かう先々の言語をあれこれと調べて、意味合いも考えているようだが」

「だから何」

「ははは、今日も面白い程つれないねえ。──要するに、次の仕事場ではどう名乗るのか、儂は気になって仕方がないのさ」


 どうするんだい、とさして深刻そうなふりも見せずに問うグリモワールの悪魔。紅い双眸が、意味ありげに細められる。


「儂は知っているよ。次の行き先はお前にとって思い出深い土地だ。かつてお前が愛した場所には行かんのだろうが……それでも、第二の故郷と言って差し支えない場所に変わりはないだろう? そろそろ、本名に戻すのも悪くはないんじゃないか?」

「お前には関係ない」


 人もまばらな駅のホーム。誰にも悟られぬ一人と、それに憑く悪魔は相対する。

 少女は冷ややかに悪魔を見た。眼鏡の奥、墨を間断なく塗り込めたような瞳は、悪魔を確かな敵として認識している。


「私が何と名乗ろうが、私が私であることに変わりはない。お前の一存で在り方を変えるなんて虫唾が走る。私に命令したとて無駄ということを知りなさい、グリモワールの悪魔」

「その呼び名にも飽きてきたところだ。お前が名付けてくれれば、儂としては願ったり叶ったりだが……そのつもりはなさそうだな。残念だ、嗚呼残念だ」

「わかったなら失せなさい。いつまでもお前に構っていられる程、私は暇じゃないの」


 最早取り付く島もない。素っ気なく突き放されたグリモワールの悪魔は、にやっと口角を持ち上げる。その直後に乗車予定の急行が到着し、悪魔の分身はふっとかき消えた。

 口をへの字にしながら、少女は電車へと乗り込む。十分にスペースのある席にちょこんと腰を下ろし──ふと思い出したように、リュックサックに手を突っ込む。

 取り出されたのは、先日盈にもらった飴玉。ゆっくりと包装を破き、口に含む。


「……うん、美味しい」


 確かめるように呟いてから、少女は口内で丸い飴玉をころりと転がした。

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