7

 天津が遅めの昼食を食べるのに選んだ場所は、涼しげな川の畔だった。道中に立ち寄った道の駅で弁当を購入し、ピクニックよろしく景勝を愛でようという算段であろうか。普段から見慣れている盈としては特別な風には思えなかったが、外からやって来た天津にとってはそうでもないらしい。すう、と深く息を吸い込んで頤を上げ、目線の先に広がる自然を眺める。


「空気が清々しくて、良いところですね。人によって好みもありましょうが、私は都会の空気よりも長閑な里山の方が好きです」

「そ……そうなのか」


 曖昧な返事をする盈の視線は、天津が広げる昼食に注がれている。

 先刻の盛大な腹の音から、彼女が空腹を我慢していたことは明らかだった。しかし、それにしても量が多い。多すぎる。盈はおにぎり一つで十分腹を満たせるというのに、天津に関してはしっかりした弁当が四つ。腹持ちが良いどころか、胃もたれしそうなラインナップである。

 困惑の眼差しは目に見えて明白だったのだろう。盈が直接口にせずとも、その意図は相手に伝わっていたようで、すぐに天津からじっと凝視された。


「盈さん。もしや引いていらっしゃる?」

「…………そんなことは、とても…………」

「無理はなさらなくて結構。よく言われます、なりは小さいくせに食べる量だけ一丁前だと」

「そこまでは、さすがに……」


 天津の健啖ぶりに驚いたのは確かだが、彼女が言うようなことは微塵も考えていない。むしろ、自分自身が小食な方なので、それも相まって純粋な驚愕の方が大きかった。

 そうした反応から、盈に悪意がないことを感じ取ったのだろう。一つ目の海苔弁を完食した天津は、唐揚げ弁当の包装を破りながら気にしないでください、とやや硬い声色で言った。


「昔から、人よりも食べる量が多いだけです。もともとこうした食生活を送ってきたので健康を崩すことはありませんし、体質的に太らないので案ずることはありません」

「そう……? それならば、良いのだけれど」

「私としては、あなたの昼食が少なすぎるのが気がかりです。節約のために無理をしてはいませんか? 今からでも遅くはありません、レシートを出していただければすぐにその分を上乗せします」


 ずい、と天津が顔を寄せてくる。しばらくの付き合いで、彼女の無表情にも色々な種類があるのだとわかってきた。今は、変に意固地になっている。詫びも兼ねて昼食代を支払う、という申し出を断られたのが、未だに納得いかないのだろうと盈は推測した。

 たしかに山中では散々な目に遭ったが、それは一から十まで天津が引き起こしたことではない。自分に直接的な被害はなかったのだし、いずれ過去に向き合う必要はあった。盈は、横に並んで座る健啖家の少女を恨んではいない。それに、年下の若人に奢られるというのは、少々気恥ずかしい。これでも一応パートタイマーとして働いているし、収入は微々たるものだが困窮はしていない。


「いいえ、わたしはこのくらいで十分。中身を見たことがないから、わからないけれど……恐らく、わたしの体は、普通の人のように食事をせずとも、永らえるようにできている」


 経口摂取自体は可能だが、盈に空腹の概念はない。百年ものを食べずとも飢えなかった経験もあるので、食事を必要としない体にできているのだろうと考えている。こうしてものを飲み食いするのは、不可欠とまではいかない、一種の娯楽であった。

 なるほど、と天津は相槌を打つ。その後に、暫し柴漬けを噛む小気味いい音が鳴った。


「しかし、老いない体とは大変でしょう。人里であれば衆目もありますし、都市部よりも人同士の繋がりが強い場所となれば尚更です。その辺り、どのように対処されてきたのですか」


 強烈な激情はなくとも、天津の目力は強い。黒々とした双眸を前にすると、全てを暴かれてしまうのでは、という不安感に襲われる。


「どのように……と、言われても……。目立ちたくないと思った時期には、しばらく山籠もりするだけ。普段から悪目立ちしないよう、気を付けてはいるし……多分、影は薄い方だから、怪しまれたことはないと思う。わたしに関わろうとする者の方が、奇特というか……」

「……この土地を離れようとは考えなかったのですか?」

「どうだろう……わたしがもっと外向的だったら、それもあったかもしれない。でも、この土地から出た後、自分がどうなるかわからないのが恐ろしいから……相当な心変わりでもない限りは、この辺りに留まろうと思っている。わたしは、臆病で、出不精だから」


 そこで、盈はふと横にいる少女を見遣った。

 天津の表情は変わらない。ひっきりなしに箸を口元へ運びながら、こちらを見つめているだけだ。

 その眼差しに、僅かながら陰がかかったように見えたのは──気のせいと考えた方が良いのだろうか。


「あなたは、色々なところを回っているようだけど……見知らぬ土地に対して、恐れを抱くことはない?」


 質問に返してばかりというのも居心地が悪いので、たまにはこちらから問いを投げ掛けてみる。

 具体的な仕事内容はわからないが、少なくとも天津はこの地域に限定して働いている訳ではなさそうだ。彼女自身が日本人に見えないことから、もしかしたら国境を跨ぐ職なのかもしれない。

 天津は既に開封している釜飯弁当を頬張りながら、うーん、と首を捻った。


「今の私にとっては、定期的な移動が日常ですから。危険地帯に派遣されればそれなりの緊張感は覚えますが、特定の場所を離れること自体にどうこう思うことはありません」

「慣れてるんだ、すごい」

「そうでしょうか。私が望んでこうしているだけですから」


 しかし褒め言葉ならばありがたくいただいておきましょう、と天津は抑揚に乏しい声で言った。喜んでいるようには見えないが、少なくとも不機嫌でないことはわかる。

 ペットボトル入りの緑茶を口に含み、飲み下してから天津は向き直る。そよ風が優しく吹き付け、彼女のくすんだ髪の毛を弄んだ。


「──ひとつ、忠告しておきます」


 最後の弁当、そのおかずである高野豆腐を箸で半分に割りながら天津は静かに告げる。


「これまで通り平穏な暮らしを維持したいのなら、私との関係性を問うてくる存在がいたとしても念入りに無関係を装うことです。恐らく、聖地の近辺ですから、通常よりもリスクは低いでしょうが……用心するに越したことはないかと。特に金髪の少年が現れたら気を付けるように。最悪無視して構いません」

「それは……もしや、怪異?」


 ご明察、と天津は顔をしかめた。


「奴は本当に質が悪いので、私が関わった者には大抵絡みます。あなたに迷惑はかけたくない。あれは他者の人生を滅茶苦茶にすることに関しては一級品ですから」

「……あなたも、被害者?」

「…………はい、認めたくはありませんが」

「なるほど……」


 苦虫を噛みつぶしたような顔の天津に、全容を知らないとはいえ盈は心の底から同情した。彼女のポーカーフェイスをこうも容易く打ち破るとは、相当な目に遭ってきたのだろう。

 何か慰めの言葉をかけてやりたかったが、生憎の口下手である。どうしたものかと盈はひとしきり悩んでから、ポケットをごそごそと探る。


「あの……もし良ければ、どうぞ」


 盈がおずおずと取り出したのはいくつかの飴玉だった。味ごとに個包装がされている、一般的なキャンディーだ。

 先程よりも些か乱暴に白米をかき込んでいた天津は、目をぱちくりとさせる。無音で嚥下してから、まじまじと差し出された飴玉を見つめた。じっと視線を向けられるのが何となく居心地悪く、盈は逃げるように口を開く。


「ええと……つい、癖で。もらってばかりなのは、不公平だし……。みかんと、ぶどうと、りんご、どれにする……?」

「全ていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「か、構わない。持って行ってくれ」


 ありがとうございます、と感謝を述べてから、天津は受け取った飴玉を大事そうにリュックサックへとしまった。そして、空になった弁当箱をビニール袋にまとめつつ、嬉しい偶然ですね、と僅かに語調を上げて切り出す。


「私、キャンディーが大好物なんです。本当に嬉しい」

「その……普通に市販のものだけど……」

「構いません。存在そのものが好きなので」

「包括的……」

「私にとっての大好きはそういうものなんです」


 結んだビニール袋を手に、天津は立ち上がる。その顔は、妙に晴れ晴れとしていた。


「良い思い出になりました。個人的な観光で訪れることは難しそうですが……機会があれば、この辺りの部屋を借りて、ねぐらにするのも良さそうですね」

「……短期間で、どこでも良いなら、わたしの家に泊まっても構わないけれど」

「そこまでのご迷惑はかけられませんが……どうしてもという時は、連絡するかもしれません」


 いつの間にか拾っていたであろう小石を、天津は皮に向かって投げる。水切りのつもりらしい。

 投げ込まれた小石は綺麗な放物線を描き、二、三度跳ねてから水中に沈む。僅かに波打った水面を、天津は目を細めながら眺めた。


「生まれ変わったら、こういった自然豊かで長閑な場所に暮らすのも、良いかもしれませんね」


 追随するように、盈は顔を上げる。

 晴れやかな声色、その奥底にある空虚な諦念は、隠しようもなかった。

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