6

 『それ』は生まれ落ちた直後、産声を上げなかった。

 朧気な視界に入り込んできたのは、一面の緑。青々として瑞々しく、生まれたままの肉体を柔らかく包む自然。それは優しく、僅かな湿り気を帯びて、新たな命を歓迎する。

 だが、聴覚が捉えるのは嘆きの声。ややあってから、『それ』は、自らの側に一人、自分とよく似た生命体──人がいることに気付く。


「ああ……ああ、なんということだ」


 声は低い。その時、それは性別という概念を知らなかった。それゆえに、側にいる人物が男性であるということもまた、後から知り得た情報だった。

 男は僧形であった。自らの側で落胆し、項垂れていた。一体どうしてこうも悲しんでいるのか──男以外に、理解する者はない。


「これでは失敗だ。このようなものが、人であるはずがない」


 うう、とそれは唸った。か細く、今にも消え入りそうな、人のそれにしては頼りなさすぎる声だった。

 男はぶつぶつと何やら呟きながら、その場を去っていった。地に倒れ伏すそれを顧みることなく、さっさと歩を進めてしまう。

 置いていかないで欲しい、と思った。訳はわからなかったが、独りは嫌だという思いはあった。どうにか男のように立ち上がろうと力を込めてみるも、初めて得た体は存外に重く、すぐに地面へ崩れ落ちた。

 次第に男の背中が小さくなっていく。完全にその後ろ姿が見えなくなった時、それの頬を温かい液体が流れた。

 寂しさを、その時のそれは知らない。悲しみも、悔しさも、何も知らない。ただ、土に顔を擦り付けながら、声を上げず、無表情のまま泣いた。自分でも、どうしたら良いかわからなかった。

 それが泣き止んだのは三日後。這って動き始めたのは半月後。立ち上がり、歩くまでには数年を有した。

 その間、それは人らしいものを食べず、まともな衣服も身に付けずに過ごしたが、不思議と死ななかった。一定の『限界』はあるようだが、月日が経てば傷も不調も消えている。目覚めるまでに年単位の時間がかかっているとわかるのは、それが確たる自我を手に入れてからのこと。

 それが自我らしきものを確立させるまでに、百年近い時間が過ぎていた。恐らく、傍らにあった僧形の男は生きていないだろう。その頃になってやっと、それは男の感情を理解する。

 失望されたのだ。生まれ落ちて、すぐに。

 悲しい。置いていかれたことが、ではない。期待に添えなかったことが、出来損ないで生まれてしまったことが、ただただ悲しい。

 もう二度とあのような思いはしたくない。どうしたら、人の期待に応えられるだろう。人の真似をして、それらしい振る舞いをして、役に立てる存在にならなければ。

 人らしく、人のように、人たらしめる。そのためにはどうしたら良い。何をするのが最善か。人を見なければわからない。人はどこにいるのか。見に行かなければ。学ばなければ。会得しなくては。人にあるべきその全てを、この身に宿し模倣しなければ、


「わたしは──!」


 自分の声で、我に返った。これほど大きな声を出せるとは、思いもしなかった。

 まず視界に飛び込んできたのは緑。山の草木、見慣れた色。木々の香りが鼻先を掠め、空気は清く澄んでいる──よく知る、山中の感覚であった。

 気温は心地よい涼しさを有してはいるものの、盈の額には不快な汗が滲んでいる。悪夢を見て飛び起きたような気分だ。胸元を押さえ、どうにか呼吸を落ち着かせようと努める。


「……盈さん」


 呼び掛けられ、おもむろに振り返る。

 そこにはやはり、天津がいた。顔色を変えず、淡々とした口調で、真っ直ぐに此方を見つめながら。まるで初めからそこにあったかのように、然れど山中においては確かな異物として、盈を見据えている。


「我々は無事に戻って来れたようです。恐らくここは、あなたと出会った場所で間違いない」

「……何故、確信を持てる……?」

「勘です。しかし、真上には太陽があり、虫や鳥の鳴き声も健在。先程方位磁石を取り出してみましたが、正常に反応していました。異界の気配もしません」

「……そう」


 それなら良かった、とは言えなかった。未だ息切れは止まず、切れ切れに返事をすることさえ労力が要った。

 それでも、天津が此方を不審がることはない。リュックサックの持ち手をぎゅっと握り、緩やかな歩みで近付いてくる。


「結局、あのあばら家の怪異は我々にこれといった害をもたらすことなく消えた。単に、ある人物の視点で過去を見せようとしたのか、来訪者には誰であれああいった体験をさせる機構システムが組まれているのか……私だけでは図りかねます。神隠しにしても短時間、少なくとも私の確認した時間帯からは然程経っていません」

「……無害だった、ということ?」

「端的に言えば、ね。ですが盈さん、あなたは気になりませんか? 何故、我々はあのあばら家に誘われたのか。何が起点となって、あの幻影は我々に接触したのか──」


 天津が眼前に立つ。上目遣いに、此方を見上げる。

 盈の息は整っていた。それでも、言葉を発する気にはなれなかった。


「覚えていらっしゃいますか、盈さん。私はもともと、人捜しのために高野山を訪れた」


 安否確認をしたいだけでしたが、と天津は付け足す。業務連絡のように、温度がなく事務的な声色だった。

 それは勿論覚えている。これまで色々なことが起こりすぎて後回しにすべき事柄という認識がないでもなかったが、恐らく外国人であろう天津がわざわざ観光以外の理由で高野山までやって来たのだから、それなりに大切な用事なのだろうと憶測してはいた。

 だが、何故それを今持ち出すのだろう。高野山上では見かけなかったと言っていたが、まさかこのような山中に探し人がいるとでも言うのだろうか。

 冷や汗が背中を伝う。後退りしようとした矢先、見計らったかのように天津は口を開いた。


「私が探していたのは、盈さん──あなたです」


 盈は瞠目する。

 後頭部を金属製の棒で叩かれたように、突発的な頭痛に襲われた。口の中に、じんわりと血の味が広がる。

 ふるふる、と首を横に振った。盈は、目の前の少女のことなど、何一つ知らない。探される覚えもない。


「ひ──人違い、だ」


 それだけ言うのがやっとだった。喉は渇き、声はしわがれて、とても他人に聞かせられるものではなかった。

 だが、天津はいいえ、と否定する。その眼差しは確信を湛えていた。


「私はあなたの知人ではありません。一方的に、その存在を知っているだけ。あなたのことは、伝承でしか知り得ない」

「伝承、など……そのようなものは、ない。わたしは、ただの人だ」

「そうでしょうね。あなたは人だ。人に造られた生命体です」


 ぐらり、と盈の視界が揺らぐ。どうにか両足を踏ん張り、その場に立ち続けた。


「あばら家で見せられた幻影。あれは全て、あなたの心象風景です。あなた自身、努力してこられたのでしょう。声色も、振る舞いも、注視しなければ同一とわからない。あなたは人らしくやれている」

「わた、わたしは……」

「覗き見するつもりはありませんでした。しかし、あなたは恐らく、この土地と深く結び付いている──他者と共に揺りかごたる山中へ入ったことで、あのあばら家は出現したのでしょう、あなたの意思とは別に。世の中では、ままあることです」

「…………」


 盈は何も言えない。震えそうな唇を噛み、両足に力を込めていることしか、できない。

 天津は瞬きすらせず、淡白な口振りで続ける。


「全てが憶測です。あなた自身にも、わからぬことはありましょう。私の感覚による確信もありますから、何もかもを証明することはできません。それらを加味した上で結論付けました──あなたは、かつて西行なる人間に造られ、高野山の奥へと棄てられた人造人間であると」


 罪の告発でもされているかのような気分だった。

 盈は息を吐き出す。呼吸には慣れたつもりだったが、ふとした瞬間に忘れかける。今だって、すっかり存在ごと忘却していた。


「……あなたはわたしを、どうしたい?」


 反抗しようと思えばできるだろう。だが、超自然的な力は有していない。人のように暴れ、人並みの力を振るうしか、盈にはできない。

 目の前の少女が何者であれ、そもそも盈には力ずくでも逃れようという気がなかった。もとより暴力は好かない。いくらこの地域でなら体が丈夫──ほぼ不死身と言えども、自棄になろうとは思わない。人を傷付けるなど、尚更。


「別にどうもしません。依頼者にあなたの健在を伝える、それだけです」

「……依頼者とは、何者か」

「守秘義務がございますので、具体的な説明は致しかねます。ですが、あなたの生活を脅かすような方ではありません。謂わば、この国の観測者と表現すべき存在が、今もいらっしゃるのです」


 天津は多くを語らない。だが、彼女の言う依頼者が途方もなく大きくて遠い存在であることは伺い知れた。

 そのような存在が、自分を認知している。そう考えるだけで、盈の下っ腹はきりきりと痛んだ。情けないことではあるが、捕捉されたという事実だけで、精神的に追い詰められた気になってしまう。

 そんな盈の不安を察したのだろう。天津はやや語気を和らげた。


「ご安心ください。依頼者はあなたの存在の有無を確認したかっただけで、直接的な接触は図らないとのことです。もとより出不精な方ですから、高野山まで足を運ぶことはないかと。京都からここまで来るとなると、割とかかりますからね」

「京の方なのか……」

「隠れ上手でいらっしゃいますから、出向くとなれば相応の下調べと労力を要するかと」

「いや、それはないから安心して欲しい」


 優柔不断は自覚するところだが、今回ばかりははっきりと断言できた。得体の知れない上位存在に突撃をかますなど、考えるだけでも寒気がする。高野山から離れるとなれば尚更だ。

 盈の心中はわかりきっていたのだろう。天津は軽く肩を竦めた。


「それなら案じることはないと思います。あなたが危険と断ずるに値する存在でないとわかれば、それ以上のことは求めないでしょうから」

「是非、そうしてくれ」


 勿論、と天津はうなずく。抑揚のない声だったが、此方の望むようにしてくれるだろうと信頼できた──不思議なことに。

 これで目下の問題は解決した。天津が自分の正体を口さがなく言い広めるとは思えないし、依頼者とやらに絡まれる心配もなくなった。

 後は天津に別れを告げ、自宅に戻れば良い。──のだが、天津に先手を打たれる。


「ところで、盈さん」

「うん?」


 視線を向ければ、天津は律儀にはい、と返事をしてから切り出した。


「この度はあなたに多大なご迷惑をおかけしてしまいました。長時間連れ回した挙げ句、個人情報を暴いたとなっては、何もしない訳にはいきません。つきましては、何かお詫びをさせていただきたく」

「お詫びなど、そのような……何も気にすることはないから」


 大丈夫、と続けようとした瞬間、盈のものではない腹の虫が高らかに鳴った。


「察してください」


 盈が言葉を発する前に、ほぼ遮るような速度で天津が言う。

 表情こそ変わっていなかったが、今までで一番早口であった。

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