5


「お前は相変わらず悲観的だね」


 慣れた手付きで草鞋わらじを編みながら、その僧侶は普段通りの柔らかい口調で笑い飛ばした。

 此方は真面目に相談したつもりだったのに、こうも前向きな様を見せられては腑に落ちない。たしかに、生き方もものの見え方も違う相手ではあるが、仮にも僧侶であるならば衆生の言葉にももっと耳を傾けるべきなのではないか──などと、口には出せない反発心を抱かずにはいられない。


「悪かった、悪かったよ。そうむくれてくれるな、お前は本気でそのように思っているのだね」


 よしよし、と童子にするように頭を撫でられて、何だか複雑な気分になる。自分はこの僧侶よりも、ずっと年長だというのに。

 彼と知り合ったのは数年前、己にとってはつい最近に思える時分だが、僧侶からしてみれば長年の付き合いと見なされるらしい。高野山上と麓を行き来する彼は、その途中にあるこのあばら屋に寄っていくのがきまりとなっていた。冬の山越えは決して楽なものではないし、自分自身にとっても話し相手ができるのは悪くなかったから、彼が訪れる度に迎え入れている。

 自分にとっては大したことではないのだが、僧侶は此方を恩人と思っているようだ。慣れない山中で迷って遭難していたところ、ちょうど目にとまったこのあばら家で命を繋ぐことができたのだと彼は言う。その恩返しに何かしよう、と言い出して、悩みを相談したところ──先程の言葉が返ってきた訳だ。


「まあ、何だ。その反応から見るに、お前は生まれてきたことを後悔している……と。そういう解釈で良いのだね?」


 草鞋を編む手を止めて、僧侶が問いかける。的を射た答えだったので、否定せずにうなずいた。

 生とはままならないものだ。生まれたいと思ってこの世に生まれ落ちた訳ではない。今こうして熱を持つ生命いのちは、自分ではなく、他者に望まれて存在を成した。

 だというのに、現実はどうか。自分は誰の役にも立てず、期待に添うこともできず、惰性的に生き続けている。誰かに望まれるでもなく、むしろいない方が良い期待外れなのに、自死を選ぶこともできずに息をしている。

 それがずっと申し訳なかった。せめて人目につかぬところでひっそりと消えてしまいたいが、独りではどうしても生が続いてしまう。かといって他者がどうこうできるような問題でもなく、他者を頼ろうにも迷惑をかけるばかり。このような生が続くなら、一刻も早く終わらせてしまいたい。

──などといった内容をぐちぐちとこぼしてから、そっと僧侶の顔を見上げた。

 勢いに任せて吐き出してみたは良いが、さすがに重かったのではなかろうか。そもそも誰かに愚痴をこぼすなど、これが初めてだ。これまでの年月で溜まり積もった聞き苦しい感情が、一気に堰を切ったにも等しい。言い終わった後で、引かれるのではないかという恐怖に苛まれる。

 僧侶は暫し沈黙する。時間にすれば十数秒、だが此方にとっては永遠にも感じられた。


「ううむ、僧侶がこのようなことを提案するのはどうかと思うのだがね。引かないで聞いてくれるか?」


 そうして投げ掛けられたのは、先程の自分とよく似た悩みだった。

 僧侶の端正な顔がしかめられるのを見て、何となくあれこれ考えるのが非常に下らなく感じられた。面長で知的な顔をした僧侶ではあるが、表情筋がたいそうよく動くのでどことなく愉快である。口に出すとさらに面白い顔をしてくるので、口下手なのを活用して心中にのみ押し止めるのが常となっていた。

 大丈夫だ、という意味合いを込めて首を縦に振れば、僧侶はこほん、と一度咳払いをした。謎によく響いた。


「お前は何か一つに執着すべきじゃないか? 今のお前は、謂わばまっさらな状態だ。良くも悪くもね。故に、自己の存在意義が気にかかって仕方がない」


 視点を固定するのさ、と僧侶は弁舌さわやかに続けた。


「執着とは、時に自己を確立する手助けにもなる。仏道においては切り離さなければならぬものだがね。しかし、お前は未だに赤子も同然。欲もなく、個性もあやふやだ。それで長生きするのは苦しかろう。一つでも良いから、これだけは手放したくないと思えるものを見付けるのが得策ではないか、と思う次第だ」


 僧侶の言葉は尤もらしく聞こえた。自身の矮小な頭と思考能力でも、おおまかに理解することはできた。

 だが、何故だろう。それを実行するには、もう手遅れのような気がした。


「まあ、何事も行動に移してみなくては始まらない。春になってからでも良いから、山を下りてみるのはどうかな。お前は人里に赴いたことがないそうじゃないか。きっと新たな知見を得られるよ」


 そう言って間もなく、僧侶はあばら家を発った。これから寒くなるのに山上に行かねばならないのだと、肩を竦めた姿をよく覚えている。

 あの若い僧侶は、此方の本質を突いていたと思う。ろくに身の上話をしたことはなかったが、大体の事情は察していたのかもしれない。鬱陶しがるでも、気味悪がるでもなく、真正面から此方の存在を飲み込んでくれる、優しく可笑しな男だった。

 彼は春先になると人里に下りる予定だと言っていた。共に花見をしようと、毎年飽きずに約束した。実際、この年も春は花を愛で、秋は月を眺めながら取り留めもない話をしたものだった。

 その日々こそ、自分にとっては何よりも代え難く、手放したくないたった一つだったのだが──僧侶には、ついぞ伝えられなかった。

 何と愚かな生き物か。雪の中から現れた、かつて笑い、動き、生きていた、僧侶だったものに触れながら、独り自嘲する。

 彼は足を滑らせたのだろうか。雪が溶けるまで、その姿を見付けることはできなかった。無事に山上へ行けたのだと、信じて疑わなかった。

 きっと、自己を受け入れ、愛することはできないだろう。誰の役にも立てず、言祝ぐような生を持たない己が生き続ける意味など、どこにもありはしないのだから──。


「人が好きなのですね」


 耳元に吹きかけられた囁き。決して大きくはなかったが、盈の意識を引き戻すには十分だった。

 はっと身を起こせば、傍らにはちょこんと正座する天津がいた。相も変わらず無表情、透明な眼差しを此方に向けている。


「あ……今の、は」

「驚かせてしまったのならお詫び致します。自分なりの解釈を得られましたので、同じ光景を見ているであろうあなたにお伝えするが良いと思いまして」

「解釈……?」

「はい。例の心象風景、その目線となる人物に関してです」


 改めて周囲を見回してみれば、そこは色彩に欠いた──というよりは、単純に劣化の進んだ状況と言えた。部屋としての形を成してはいるが、所々に汚れが目立ち、手入れも久しくされていない。言っては何だが、外観に見合った内装と言えた。

 今まで通ってきた空間が全て同一のものと言えるような証拠はない。ただ、時を巻き戻すにしたがって段々と古く、荒廃しつつあるように感じられた。

 いや──それよりも、だ。


「ここは……先程見た幻影と、同じ……?」


 視点と、若い僧侶が談笑していたあばら家。その内装は、現在二人が留まるこの部屋と全く同一である。

 天津も同じものを見ていたのだろう、ええ、と短く首肯した。彼女が立ち上がると、床がぎしりと不穏な音を立てる。


「実在の可否は問えませんが……これまでとは異なる展開ですね。あの幻影が何らかの引き金だったのでしょうか。我々の置かれる環境は、幻影の中と繋がりつつある」

「……良いこと、なのだろうか。あるいは、此方も幻影に浸食されているか……」

「前者であれば良いのですがね。何はともあれ、我々を取り巻く現象はやはり限られた区画を中心に展開されていると考えるのが妥当でしょう。だとすれば、起点となるものが近くにあるはず」


 しばらく室内をうろうろと歩き回っていた天津は、唐突にその歩みを止めた。床の鳴る音が止んだというのに、盈の不安は消えない。

 目だ。黒々とした天津の瞳が、此方を向いている。


「盈さん。あなたは、幻影の中にある視点──その持ち主をどう見ますか」

「どう……とは」

「直感でも構いません。私は、あなたの意見が聞きたい」


 いつの間にか眼前まで移動していた天津は、じ、と瞬き一つせずに見つめてきた。射抜くような眼差しに、嫌でも後退りしたくなる。

 盈はそっと目を伏せた。まなうらに、斬り捨てられた、名も知らぬ旅人と語らった、僧侶と談笑しその骸に触れた、過去に在ったはずの視点を思い浮かべる。

 生まれたことを後悔し、消えてしまいたいと願いながら生をやめられない、何か。単に臆病で、自死に対して腰が引ける、という訳ではない。最初から、選べないのだ。


「……普通の人より長命の生き物……のように、思えた」


 非科学的だけれど、と自信なげに付け足す。

 夢か現かわからぬ状況下に置かれている時点で科学的も何もないが、一応盈は二十一世紀に生きている身だ。非日常をすぐに受け入れられるような生活を送ってはいない。

 結果として、盈の懸念は杞憂に終わった。天津はそうですか、と静かに首肯する。


「未だ憶測の域を出ませんが……そういった特性を有した存在、と考えても良さそうですね。本来人造人間とは、特殊な条件下から外れれば脆く壊れやすいものですが……東洋のそれに関しては浅学。一つの事例として記録しておきましょう」

「……? 何の話を……?」

「失礼、此方の仕事に関する独り言です。お騒がせしたのなら申し訳ありません」

「いや、そのようなことは……わたしは気にしていないから」


 どちらかと言えば騒がしさよりも置いて行かれる感覚に不安を覚えたものだが、天津を責めたい訳ではないので追及はしないでおく。忘れかけてはいたが、彼女は何らかの仕事のため高野山を訪れたのだ。ふとした瞬間に思い出しても可笑しくはない。


「さあ、行きましょう。きっと次で、全てがわかる」


 気付けば、天津が襖に手をかけている。ぼろぼろで障子は所々破れ、然れど穴の向こうは暗闇。先はわからず、道があるのかさえもわからない。

 この先へ進めば、後戻りはできない。それだけの何かが、襖の向こうで待ち受けている──そんな予感が、盈の胸中をざわめかせる。

 すうと息を吸い込んだ、直後。天津の小さな手が、襖を開けていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る