4

 暖かく、間延びするような花曇りの日であった。が、彼女を見つけたのは。

 彼女はこの春に咲いたらしい、見事な牡丹の側にいた。華やかな風景とは対照的に、何かに悩まされているかのように頭を抱え、困り果てた様子は一目でわかった。

 つい、大丈夫か、と声をかけた。自分に何ができる訳でもなかろうに、とんだ迷惑だ。彼女をさらに困らせる可能性だってなくはないのに、一体どうするというのだろう。

 彼女は弾かれたように顔を上げた。少女と女性の中間を漂うような顔立ちだった。白い肌に、切れ長の瞳。青みがかった黒髪がよく映えて美しかった。絵巻物など読んだことは一度もなかったけれども、きっと物語られる姫君とはこのような姿をしているのだろう──とぼんやり思った。は美醜についてこれといったこだわりがなく、人を比較するような性質でもなかったため、 その娘が一般に美しいとされるのかどうかはわからなかったけれども。

 話しかけられるとは思っていなかったのか、彼女は何度か瞬きをした。しかし固まっていたのは一瞬のことで、すぐにうっすらと紅を乗せた唇を開く。


「ああ、その──申し訳ありません、大したことではないのです。私の勘違いで、ちょっとした手違いがあっただけで……言うなれば、自業自得です」


 今現在困っている訳ではないのだ、と彼女は困り顔で言う。いや困っているのではないか、と指摘する気にはなれなかった。きっと、自分にはわからない深い事情があるのだ。

 首をかしげていると、彼女はそっと苦笑した。静かだが、その変化はたしかにわかった。


「私は、この辺りの者ではなくて……所用で出掛けてきたのです。その道程で、この村に立ち寄ったのですが──ここって、高野山の麓でしょう? だから、行けるところまで行こうと思ったのですが……」


 女人禁制なのですね、と彼女は悲しげに眉尻を下げた。

 彼女の言う通り、高野山は女人禁制である。現在地である九度山は、弘法大師が月に九度、入山できない母親を訪ねて来たという伝承から名付けられたと伝えられているくらいだ。少し歩いたところには、いわゆる女人高野である慈尊院も所在している。女性が訪れられるのは、この土地までなのだ。

 むしろ女性が参詣できる寺院の方が少なそうなものだが──彼女は、その辺りに対する情報を掴めぬままここまでやって来たのだろう。見るからに残念そうな彼女を前にすると、つられてこちらも悲しくなってしまう。

 だが、いくら以前と比較して旅に対する危険性が低下したとはいえ、女性の一人旅とは珍しい。もしや彼女は何らかの理由で出家でも望んでいるのではなかろうか──そう思っていると、彼女はこちらの意図を察したのか、ゆるりと首を横に振った。


「一人旅ではありませんよ。連れは今、少し席を外していて……私が待っているというだけです」


 そのうち帰ってくるでしょう、と彼女は穏やかに言った。連れ合いとやらには、相応の信頼を置いているようだ。

 彼女は特に詮索する様子は見せず、あなたはこの村の方なのか、と問いかけてきた。一応高野山の麓に暮らしている──と言って差し支えはないが、村落に身を置いている訳ではない。家なら少し離れている、と告げると、彼女はそうなのですね、ととりとめのない相槌を打った。山で採れた薬草がある、と恐る恐る付け足すと、気前よく購入してくれた。大量に、という訳ではなかったが、貴重な収入なのでありがたい限りである。

 そうこうしていると、連れらしき青年が息を切らしてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。彼女は途端に頬を膨らませて、遅い、と叱る。


「地元の子供たちに引っ張られていったかと思えば……どれだけ遊びに没頭していたのですか。待っている私の身にもなりなさい」

「申し訳ありません、双六すごろくをしていたら予想以上に時間が延びてしまって……」

「双六?」

「はい。全敗でした。ずっと最下位です」

「全敗て……」


 面目ない、と落ち込む青年は、非常に背が高かった。六尺は越えているだろう。村には彼程大きな人はいないから、子供たちは物珍しさから引っ張っていったのかもしれない。断れない辺り、青年はお人好しのようだ。

 まったく、と腕組みする彼女は本気で怒っている訳ではないようだ。むしろ、こうなることを薄々予想していたかのようだ。


「将棋も囲碁もあまり強くないから、何となくわかってたけど……でも、子供に負けるって相当でしょう。ちょっと悲しくなりました。帰ったら練習をしましょう、このままなのは個人的に認められません」

「相手をしてくれた子供たちの親御さんもびっくりされていました。コツを色々教えていただいて、保護者の方ともやってみたのですが、相変わらず最下位でした」

「それで延びたんですね……」


 はあ、とささやかながらため息を吐いて、彼女は唇を尖らせる。自分が全敗したかのような表情だった。


「とにかく、日が暮れるまでには宿に着いていなければなりません。行きましょう」


 連れの青年を促した彼女は、去り際に会釈をした。口には出さなかったが、待っている間付き合ってくれたことに感謝されているのだとわかった。

 それは青年も同様であったのだろう。ぱたぱたと追いかけながらも、離れたのはお手数をおかけしました、と明朗な声で告げてからだった。そうして、女人高野ならば金剛山も有名だ、天野の酒は美味いらしいと彼女に紹介していた。ご機嫌取りではなく、単に落胆する彼女を慰めているのだろう。出会ってそれほどの時間は経っていないが、あの青年に美辞麗句は似合わない。

 去り行く二人を視界の端に留め、は知らず笑みをこぼす。ああいったやり取りは好ましい。最近は物騒な話も少なくなったし、徐々に平穏が戻りつつある──ような気がする。尤も、戦禍に見舞われたのはもっぱら都市部や遠方のことで、この辺りはせいぜい流刑地になるくらいなのだが──雰囲気が少しでも和やかになるのならありがたい。一住民として、殺伐としてばかりいる生活は気が滅入る。

 こういう風に生きるのが、多分、一番ちょうどいいのだ。民草の一部として、歴史に刻まれることなく生きていく。平穏を享受し、世のうねりとは無関係なまま、呑気に過ごしていけたなら──他に求めるものなど、何もない。


──本当に?


 沸き起こった疑問が起点となり、盈は目を開ける。──いや、もともと開いていたのかもしれない。ただ、幻が終わったことだけは確かだった。


「気付かれたようですね」


 抑揚のない声に顔を上げれば、やはり先に目覚めていたらしい天津の姿がある。此度も遅れをとってしまったことに、年長者として盈は軽い羞恥心を覚えた。

 くるりと周囲を見渡してみれば、当然のようにあばら家の内装には不釣り合いな意匠をしていた。しかし、先程の部屋とは異なり、全体的に色味は控えめで、華やかさには乏しい。幽玄、と形容すべきだろうか。壁一面の墨絵に、素材である木そのままの天井。必要最低限の家具しか置いておらず、無駄な装飾を省ききった風さえある。

 随分と雰囲気が違う。家主がいるのだとすれば、とんだ心変わりがあったものだ。


「先程の幻影、どう見ますか」


 少し目線を動かした隙に、天津はすぐ側まで接近していた。動く気配すら感じられない──本当に生きている人間なのかと、疑いたくなってしまう。

 何はともあれ、天津は先程脳裏に流れた幻について意見を聞きたいらしい。沈黙する理由はないので、少し思案してから口を開く。


「……初めに見たものよりも、平和な感じがした。人の生き死にには、関係ないような……」

「私も同意見です。先程の幻影は、土地が同じというだけで以前のものとは無関係なのでしょう。……視点となる人物を除けば、ですが」

「視点……」


 初めに見た幻で、兵士に斬り捨てられていた人物。その視点を、再び盈たちが借りていたということか。


「これは私の憶測ですが……視点となっている人物の状況からして、我々の見る幻影は時空を巻き戻しているようですね。恐らく、進むごとに過去の映像が流れるのでしょう」

「……いつまで、続くんだろう。視点の、生涯を見せられるのなら……最後は、生まれ落ちる……?」

「でしょうね。そうであって欲しいと思います。あの浮遊感はあまり気持ちの良いものではありませんし」


 そうは言うが、天津の表情は変わらない。本当に堪えているのだろうか、と盈は思わず首をかしげてしまう。

 兵士によって斬り殺された人物。それが生まれ落ちる瞬間が最後に来ると仮定して──その理由は、果たして如何なるものであろうか。


「何か、思い至るところがあるのですか?」


 間近に迫る、光を通さない黒い瞳。ただ視線を投げ掛けるだけなのに、どうしてこれほどまでに気圧されるのだろう。

 ええと、と盈は出だしに困った。質問は、するのも答えるのも苦手だ。傍観者でいるしか、心の平穏を保つことはできない。難儀な性分である。


「あの、個人的な疑問、なのだけれど……わたしたちは、何のために、あのような幻を見せられているのだろう……と思って」


 これが怪異なのだとすれば、自分たちを巻き込んだ理由があっても良い──と盈は思う。たまたま近くを通りかかっただけにせよ、何の理由もなく過去の映像を見せられ、異空間に閉じ込められるなど不可解だ。行動に原理があるのだとすれば、それを明かすのが脱出の鍵なのではないか──いや、そうであって欲しい。訳もわからぬまま全てが終わるなど、気持ち悪いにも程がある。

 聞き手である天津は、ふむ、と目線を上に向けた。その先にある天井は、何も描かない。自然の木目があるだけだ。


「何のために……ですか。過去の幻影を見せることで、何らかの効果がある──そう仮定すれば簡単ですが、今のところ我々に対する異常はないように感じられます。見聞きし、知ることそのものに意味があるとすれば、話は変わってきますがね。例えば、視点となる人物の霊魂がこの場に留まっていて、我々に存在を知らしめたい──とか」

「……そうだとしても、わたしたちには、何もできない。あの兵士たちが今でも生きているとは思えないし……あまりにも時間が経ちすぎている。今からでは、何もかもが、遅い」


 なるほど、と天津はひとつうなずく。わかっているのかいないのか、感情の見えない顔からは判別しづらい。


「何はともあれ、まだ二回目ですからね。先に進まないことには、何も始まらないでしょう。次でどうにか収拾がついてくれれば良いのですが……どうなることやら」


 考察の時間は終わり、ということらしい。口では嫌々言いつつも前に進む辺り、天津は割り切りが良い性格なのだろう。単に諦めが早いだけかもしれないが、前者のように考えた方が幾分か前向きだ。

 次はどういった記憶を見せられるのだろう。初めのような、血なまぐさいものでなければ良い。なるべく穏やかで平和で、誰も傷つかないような記憶であったなら、まだ気楽に進めるというものだ。

 この現象を巻き起こしているであろう何かにそう祈りながら、盈はふわりと体が浮く感覚に身を任せた。

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