3

 真っ先に肌を刺したのは、己を取り囲む兵士たちの視線だった。

 体がない、というのは不思議な感覚だ。意識だけがふわふわと漂い、一線を画したところから俯瞰ふかんしている。夢を見るのと少し似ている、と意識のみの盈は思う。

 だが、意識のみでも向けられる厳しい眼差しは感じられるのだからおかしな話だ。今の盈は肌どころではなく、五体のいずれも持ち得ないのに。

 兵士に取り囲まれているのは、一人の痩せた人間だった。顔色が悪く、陰った山中にいることもあってその肌は死人のよう。視線をさ迷わせながら、それでも確固たる意思を以て兵士たちに対峙している。──ともすれば、彼らの腰に携えられた得物で斬られそうな雰囲気にも関わらず、だ。


「いい加減にしろ。お前のもとで匿っている人間がいるのだろう」


 痺れを切らしたように、眼前に立つ兵士が言う。彼以外は口を開くことすらせず、いつでも鯉口を切れるようにと柄に手をかけている。

 かけられた言葉に対しての答えがあるとすれば、是と言うべきなのだろう。指摘された通り、この痩せぎすの人物は、住まいたるあばら家に人を隠している。

 初夏の頃、大坂で勃発したという戦。かつて天下人と呼ばれた男の造り上げた何もかもが、燃えて焼けて崩れ落ちた。その残滓、生き残った名も知らぬ侍女を、この人間は匿ってしまった。いわく、それなりに名の通った家の生まれで、生きていれば追われる立場にある彼女を。

 自分でも、何故彼女を助けようと思ったのかわからない。これまでは、己の本能──死にたくない、危険な目に遭いたくないという防衛本能に従って生きてきた。自ら危険に飛び込むなど、本来あってはならないはずだった。

 おかしい。おかしい。おかしい。今の自分はおかしい。その自覚はある。それなのに、口を割り、保身に走ろうという気が一切起きない。

 おい、と苛立った兵士が声を荒らげる。それでも、人間は動かない。このまま黙りを続けるつもりなのだ。証拠さえ見付からなければ、いずれ兵士たちは去っていくだろう。

 そう思っていた、矢先。


「おいっ、いたぞ!」


 嗚呼、駄目だった。

 いつまでも隠れているのが、恐ろしくなったのだろうか。かつて大坂で侍女として働いていた女は、がたりと小さからぬ音を立てて逃げ出してしまった。

 こうなればもう遅い。足でも、数でも敵わぬ。逃げおおせることなど出来まい。

 黙りを貫いていた人間は、直ぐ様斬り捨てられた。

 袈裟懸けに、一閃。どうと体が倒れるのとほぼ同時に、兵士たちは人間から目を離し女を追いかけている。

 じわりと血が滲む。地面に血だまりが広がっていく。口内に鉄錆の味が溢れ、吐き出しても吐き出しても止まらない。

 痩せた人間は静かに目を閉じた。全ての音が遠ざかっていく。意識は微睡みの中に沈み、肉体から自己が分離する──。


「──さん、盈さん。起きてください」


 遠くくぐもっていた声が徐々に近付き──そうして、盈は軽く頬を叩かれていることに気が付いた。

 かっと目を見開く。見上げる先には、所々が跳ねた灰色の髪の毛──そして、底知れぬ、黒々とした両の瞳がある。


「ああ、気が付きましたね。おはようございます」

「お、おはよ……?」


 共に謎めいたあばら家に足を踏み入れた少女、天津。彼女は動じた様子もなく、最後の記憶と変わらぬ平坦な声色で場違いな挨拶をした。

 現在何時何分何秒なのか、盈にはわからない。腕時計は持っていないし、このあばら家に正確な時を刻む時計があるはずもない。完全な闇に包まれてはいないから、一応まだ日は出ているのだろう。だが、おはようございます、と言うのは些か不釣り合いに感じる。

 ともあれ、いつまでも寝転がっている訳にはいかない。軋む節々を無視しつつ、盈はよいしょと起き上がる。気を失っていただけでこうも疲れるとは、人の体はままならぬものだ。


「ここは……」

「新たな部屋のようです。しかし、見ての通り出入口はひとつだけ。私は上から落ちるような感覚を抱きましたが……天井にも破損は見受けられません。転移してきたと考えるのが妥当でしょう」

「転移……? そんな、ことが……」


 きょろきょろと周囲を見回してみるが、今のままではこれといった手がかりを掴めない。わかることといえば、ここが外観からは予想もつかない程きらびやかな部屋である、ということだけだ。

 汚れひとつない畳。真新しい壁には、色鮮やかな花鳥絵が所狭しと描かれている。天井は蒔絵まきえ螺鈿らでんだろうか、黒地に金色と色とりどりの貝殻が星のように二人の来訪者を見下ろしていた。

 まるで権力者の部屋のようだ、と盈はぼんやり想像する。権力とは縁のない生活を送っているから、あくまでも庶民から見た偏見混じりの感想である。


「どうやってこの部屋までいざなわれたかはともかくとして……目がしてきますね、この部屋は」


 一通り視認したらしい天津は、眉根を寄せることすらせずに前述の感想を述べた。またどこかに飛ばされるのを懸念しているのだろうか、立ち上がっただけでその場から動いたり、室内のものに触れたりはしていない。

 ここで、盈は不躾ながら強烈な違和感を覚える。深刻かと問われれば首を横に振るのが妥当なのだろうが、だからといってそのままにしてはおけない。

 ゆっくりと立ち上がれば、すぐに天津の旋毛つむじが見えた。小柄な彼女は、その意思に反して上目遣いを求められる。


「あの……恐らく、ちまちま、ではなく、ちかちか、かと……」

「……?」

「あ、ええと……先程の……」

「なるほど」


 盈の説明が下手くそなせいで、一瞬変な空気が流れてしまった。──が、天津は直後に訳知り顔でうなずく。


「申し訳ございません、日本語にはまだそれほど慣れていないのです。日常会話程度なら、会得しているつもりでいたのですが……やはり、そう上手くはゆかぬものですね。言語体系の差異とは、こうも厄介なものでしたか。まだまだ勉強が足りない、ということですね。精進します」

「いえ、あの……十分、上手いと思うけれど……」


 東洋人らしからぬ顔の造形をしているとは思っていたが、天津の日本語はほとんど母国語話者ネイティブに近い。発音やアクセントに癖はないし、言われなければバイリンガル──いや、もしかしたらそれ以上かもしれない──とは気付けなかっただろう。

 世の中には色々な人がいるものだ。決まりきった地域で暮らしてきた盈としては、己が世間知らず加減にため息を吐きたい気分である。

 一人で勝手に鬱々としている盈とは対照的に、天津はやけにすっきりとした顔をしている……ように見えた。相変わらずのポーカーフェイスなので、盈の見間違えという線も拭いきれない。身に纏う雰囲気が少し、晴れやかになったような、なっていないような。


「何はともあれ、安心しました。盈さん、あなたが人間であることは確定したのですから」

「……?」


 こちらを向いた天津の言葉の意味がわからず、つい幼子のように首をかしげる。そんな盈を見ても、灰色の髪の少女は表情ひとつ変えない。


「一説によれば、人ならざるモノは同じ言葉を繰り返して言えないそうですね。一度だけの呼び掛けに対して、不用意に応じてはいけない……インターホンのない時代には、そのように言い含められる子供も少なくはなかったとか」

「そう……なのか? わたしには、さっぱり……」

「知らぬことが悪い、と言うつもりはありませんよ。時代によって価値観が変わるのは致し方のないこと。私が言いたいのは、あなたは繰り返し言葉を口にできる──つまり生きている人間であることが確定した、それに安堵しているということです」


 盈は目をぱちくりとさせる。そのような伝承があるとは、思いもよらなかった。

 これは……一応、天津からの信頼を得ることに成功した──と言っても、良いのだろうか。


「……さて、先程と同様の仕組みであれば、襖を開けた先に何者かの記憶がありそうですが……そもそも、あれは誰の記憶なのでしょうね?」

「記憶……」


 今一度周囲を見回してから、天津が顎に手を添える。どうやら、彼女も盈と同じように、俯瞰した光景を見たようだった。


「全く同じものを見たとは限りませんので、一応確認をしておきましょう。私は先程、この部屋にと知覚するその直前まで、こことは異なる場所を見ていました。夢を見ているような状態に近かった、とだけ伝えておきます」

「それは……意識のみが、浮遊しているような……?」

「その通り。見解は一致しているようですね。──その状況下で、私は人が斬り殺される場面に遭遇しました。登場人物の出で立ちからして近世日本、逃亡者を匿った者が中心でした。恐らくその人物は、このあばら家に住まい──そして、そこに逃亡者を隠した」


 家主の可能性が高いと見て良いでしょう、と天津は断じた。盈も異論はないので、黙って聞き役に徹する。


「例の光景は、斬殺された人物の記憶なのかもしれません。となると、この場に我々を閉じ込めたのは、家主──あるいはその思念と考えるべきなのでしょう。今ある情報のみで考えればね」

「でも……わたしたちには、閉じ込められる理由がないのでは……? 無差別に人を閉じ込めているのなら、行方不明事件として取り沙汰されていそうだし……今のところ、そういった話は、聞いたことがない」

「私も周辺地域をある程度調査しましたが、あなたのおっしゃる通り、このあばら家が関係していると思われる行方不明事件の記録はありませんでした。生還者がいたとしても、何らかの記録は残るはず。しかし、異界と思わしきあばら家の話題そのものが残存していない……」

「……もしかして、わたしたちが、初めて……?」

「そのように考えた方がよろしいかと。もしくは、このあばら家は私か盈さん、あなたを目標としている──とも言えるでしょう。確たる証拠はありませんがね」


 一息に話し終えたからか、天津は一度息を吐き出す。困りましたね、とは言うが、その顔は全く困っていなさそうに見える。


「何にせよ、先程の性質からして、我々は前に進む他ないのでしょう。次に見せられる記憶があると仮定して、そこから手がかりを導き出さなくてはならない」

「また……どこかに落ちなければならない?」

「あの浮遊感は、一体何なのでしょうね。ヘカトンケイルやキュクロープスと感覚を共有したようで不気味でした。残りが片手で収まる回数だと良いのですが」

「…………?」

「独り言です。気にしないように」


 盈は横文字に疎い。突然の耳慣れない単語に、どう反応したら良いのかわからず変な間を作ってしまった。

 恐らく文脈からして、ろくな目に遭わない……とか、そういった意味合いを兼ねているのだろう。これ以上の混乱を防ぐため、天津の発言に関してはここで打ち切るのが最善だと判断した。無事に自宅に戻れた時点でまだ耳に残っていれば、その時に調べれば良い。

 盈は一歩踏み込み、天津の横に並ぶ。そうして室内を見渡し、ちらと灰色の旋毛を見た。


「次の部屋があるとすれば……あの襖、だろうか」

「他に出入口は見当たりません。向かうとしたら、そこ以外になさそうですが……」


 不可解です、と天津は切り込む。


「意匠としてはこれ以上ないくらいに手を込んでいますが、迷い家にあるような家具や什器が一切見当たらない。仮に例の斬殺された人物がここで暮らしていたとして、生活感が皆無です。その上、外観のように朽ちた部分はなし……」

「……この部屋そのものが幻、という線は……?」

「あり得なくはありません。ですがその場合、我々の肉体は解離しているはず。今ここにいる我々は、意識、もしくは思念体によって形作られていることになります」

「……それは、おかしいこと?」

「おかしい……というよりは、考えにくい、と形容するべきでしょうか」


 説明は難しいのですが、と珍しく天津が顔をしかめる。盈に対して機嫌を損ねている訳ではなさそうだが、ぴりりとした敵意のようなものはうっすらと感じ取れた。


「私、夢ならよくんです。故に、どれだけ巧妙に誤魔化していたとしても夢と現の区別ならすぐに付く。記憶を目にしていた時の私は、夢を見ていたのとほぼ同じ状態でしたが……今の私は肉体を有しています。つまりこれは現実です」

「では……わたしたちは、肉体ごと転移させられている……?」

「これは憶測に過ぎませんが、何らかの要因が支柱となって我々をこの場に留めているのでしょう。それを探らなければ、何も始まらない。例の記憶にあった人物には、個人情報の観点から不快な思いをさせてしまうでしょうが、それはそれ。謝罪する機会があれば、無事に出られた折に誠意を見せるとしましょう」


 つい、と滑るような足取りで、天津は襖へと近づいた。歩幅は盈よりも小さいであろうに、不思議と先行されてばかりだ。

 覚悟はできているか、と言わんばかりの視線を送られる。真っ黒な双眸を前にする度、盈の心はぎゅっと縮み上がるが、いちいち怯えてばかりもいられない。今の自分にとって、頼れるのはこの小柄な少女ただ一人なのだから。

 決意を示してうなずけば、天津は躊躇いなく襖を開く。その先に広がるのは、やはり先の見えぬ闇。

 体が引っ張られる。抗えない、抗いようもない、強烈な力によって。

 吸い込まれ、落ちる。そう確信した盈は、自然と目をつむっていた。

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