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「……こういうの、慣れてるの?」


 だいぶ風化が進んでいるので無礼とわかっていながら土足であばら家に上がり込んだ盈は、一足先に入った天津へそう問いかけた。

 突如二人の前に現れた異界へんなところ。常識や科学ではまず考えられない異常事態ということは盈にもわかる。

 だが、天津があまりにも落ち着きすぎているため、当初は困惑していた盈も段々と頭が冷えつつあった。そして、異界よりも泰然自若としている天津の方が不思議な存在に思えてきた。そして発せられたのが先の問いである。

 天津は僅かに首を動かして振り向く。光を映さない目を向けられると、つい逸らしてしまいたくなる。


「こういうの、とは、異界に迷い込むことでしょうか」

「そ……そう、だけど……」

「それなら一度ではないので、一般人よりは慣れている部類に入るのだと思います。しかし日本では初めてです。さすがに高野山という聖地の近くなのでそこまで凶悪な怪異ではないでしょうが……俗に言う神隠しの線も拭いきれないのが不安ですね。今の状況では何もわからない」

「そっか……。早く、戻れるようになったら良いけど……」


 盈としてはあばら家の中に入りたくないし入ったところでこの異界から脱出できるのか不安でしかないが、天津は探索する気満々らしい。とりあえず調べられるだけ調べましょうか、と言ってずんずん進んでいく。取り残されるのも気まずいので、盈は急いで後を追った。


「ところで盈さん」


 振り返らずに、天津が切り出す。彼女の歩幅は狭いので、盈はすぐに追い付くことができた。


「もしこの近辺で語られている怪談があれば教えていただけないでしょうか。お恥ずかしながら、地方の民間伝承には疎いもので。我々がこのような場所に転がり出た原因を突き止める上で、何か手掛かりになりそうなものがあるならば是非ともお聞かせ願いたいのですが」

「怪談……というと、お化けの話……?」

「お化けでなくとも構いませんよ。謎の全てが解明されているのではない不思議なお話なら、何でも」

「不思議な話……」

「日本における山の怪異は枚挙に事欠きません。どんな些細なお話でも構いませんよ」


 いきなり内部に踏み込むつもりはないのか、襖は無視してぐるりと回るように進みながら天津は言った。癖毛なのか寝癖なのかわからないが、後頭部の髪の毛が控えめに跳ねている。

 怪談、と意識しながら盈は記憶の糸を手繰り寄せる。他者との接触に苦手意識を抱いている盈だが、全ての音声を遮断したいと思う程静寂を愛している訳ではない。日常生活の中で、近隣住民があれこれと話している様々な話題は部外者でありながら耳を傾けている。盗み聞きと言われたら言い逃れできないが、人々の話を第三者として聞くのは盈の趣味でもあるのだ。人嫌いではない人見知り故の性質であると言えよう。


「たしか……少し前に、ツチノコを見たって話なら聞いたことがあるけど……」


 だが、山、神隠し、家屋という条件を付けられるとこれがなかなか難しい。辛うじて思い出せたのは、地元の住人が山に入ったところツチノコらしき影を見た、という今の状況とは何の関係もなさそうな話だけだった。

 案の定、天津はじっとりとした眼差しを向けてくる。盈は思わずうう、とうめいた。


「も、申し訳ない……。ツチノコが神隠しするというのは、少し無理があった……」

「…………いえ、高野山のツチノコは他と違うかもしれませんから。情報提供ありがとうございました」

「そ……そもそも、山の中に何か出たという話自体、あまり聞かないから……。やはり、仏道の聖地だから、おかしなものは寄り付かないのかもしれない」


 そう指摘すれば、天津はぴたりと歩みを止めた。どうしたのだろう、と盈は一瞬思ったが、すぐに一周してもとの場所に戻ってきたのだと気付いた。

 退廃的な外観に似合わぬ、しみも破れもない襖を天津はじっと凝視する。無表情だが、内心では入りたくないと思っているのだろうか。手をかけようとすらしない。


「……盈さん、あなたは東北や関東に行ったことがありますか」


 何の脈絡もない問いかけ。盈は言葉を返すのに少しの間を要した。

 生まれてこの方、盈は高野山を離れたことがない。何度か住まいを変えたことはあるが、何となくこの地を離れることは考えられず、気付けば人里であれば大体の地理はわかるようになっていた。さすがに山中となれば、大自然が相手ということもあり道行きが不安になることも少なくはないが。

 盈にとって、世界とは己の目で見る場所に限られている。時々遠方から訪れる者と話し、見知らぬ土地について聞くこともあったが、だからと言ってその土地に住みたいと思うことはない。相手にそれを気取られた時は、決まって地元愛があるのだろうと解釈された。それを真に受ける訳ではないが、自分は知らず知らずのうちにこの地を故郷と定めているのかもしれないと盈は思う。

 要するに、天津の問いに対する答えは否だ。遠出すると言えば、精々隣の橋本市へ買い物に行く程度である。

 静かに首を振れば、天津は表情を変えずになるほど、とうなずいた。そして、盈の答えに対してそれ以上突っ込むことはなく口を開く。


「甲信地方ではあまり語られないそうですが、東日本には迷い家なる怪異が存在するそうです。まだこの家屋の内部を探索してはいないので確実とは言えませんが、山中に突然現れる、家屋を伴った異界という点では似通っているように思えます」

「迷い、家」

「遠野物語で語られるものが有名ですね。伝承にいわく、山中を歩いていた人間の前に突如無人の屋敷が出現し、そこに置いてあるもの──話によって什器だったり家畜だったり様々なのですが、とにかくその家のものを持ち帰れば富を得られるそうです。特に無欲で謙虚な者であれば、何も持ち帰らずとも家具の方から来てくれるというパターンもあります。山中異界を表現した伝承とも言えますね」


 しかし、と天津は続ける。


「この家屋は、伝承に語られる迷い家とは些か異なります。迷い家は無人の屋敷ではあるものの、こうも寂れた廃屋ではありません。富をもたらす存在ですから、基本的には整備の行き届いた外観なのかもしれませんね。話によっては、誰もいないのに生活感だけはやたらある場合も見受けられますから、少なくとも廃屋として語られていないのは確かでしょう」

「それなら……ここは、迷い家じゃ、ない?」

「そう考えるのが妥当ですね。日本の民話の中には、狐狸が人を化かしたり、単なる神隠しとして山中に誘うものもありますから、どちらかと言えば迷い家よりも我々に害を与えるような怪異と考える方が筋は通るのですが……この廃屋から、敵意や害意は今のところ感じられません。ただここに存在しているだけの、住人のいない建物。これほどくたびれているのに人を誘う怪異であったのなら、先達に色々学んでから実践に取り組んで欲しいところですね」

「でも……人を騙すモノなら、悪意を隠すこともできるのでは……?」

「私はこう見えて隠し事を暴くのが得意なのです。もし騙されていたのなら、その怪異には称賛の言葉を差し上げましょう」

「す……すごい、自信……」


 何はともあれ、天津は場馴れしているということだろう。でなければ、ここまで余裕を持って状況に対処できないはずだ。

 ふうぅ、と天津は息を吐き出す。小さく白い手が襖の取っ手にかけられた。


「……正直、中には入りたくなかったのですが……こうも収穫がなければ、無視する訳にもいきません。盈さん、あなたは私の側を離れないでください」

「わ……わかった。でも、どうか、無茶はしないで」


 頼もしいのは確かだが、華奢な少女に頼りきりというのはさすがの盈も避けたい。然るべき場面に遭遇したら、自分が天津を守らなければと己に言い聞かせる。武術の心得は皆無だが、それでも天津より体格は良い訳だし、時間稼ぎ程度ならできるだろう。──いや、囮になってそのまま終わり、という展開は盈とて嫌だが。

 掠れて消え入りそうな盈からの激励を、天津の耳はしっかりと捉えたらしい。僅かに目を見開いてから、勿論、とうなずく。


「では、開けますよ。何が来るかわかりませんので、どうか油断されぬよう」


 そう告げて、天津は一気に襖を開ける。もっと慎重にいくのかと思っていた盈としては、その積極性に驚かされた。

 だが──状況は天津の行動に対する印象ばかりを考えさせてはくれないようだ。


「う、わ……!?」


 ぐん、と体が引っ張られる。それは誰かに掴まれてのものではなく──言うなれば体内に磁石が入れられて、否応なしに室内へ引き寄せられているような感覚だった。

 開かれた襖の先は、一面の暗闇。気付けば、前も後ろもまともに見えやしない。


「天津殿……!」


 無理矢理に体が移動する不快感に顔をしかめながらも、盈は手を伸ばす。自分の前に立っていた少女と離れることのないように、彼女と己を繋ぎ止められるようにと無我夢中で指先まで神経を集中させる。

 しかし、盈の伸ばした手は虚しく空を切っただけ。何も掴めなかったという事実を思い知らされると同時に、盈の体にはふっと浮遊感が訪れる。


(落ちる……!?)


 どのくらい浮いているのか、どこに落ちるのか。その両方を知らぬまま、盈の体は着地の姿勢を作ることすら許されずに叩きつけられた。

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