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 この土地で頭を抱えている娘を見かけるのは二度目だ──そう、みつるはぼんやりと思った。

 ただし、一度目は集落の中だったが、今は違う。山中でしゃがみこんで、まるで避難訓練で安全姿勢をとっているかのような格好をしている。文字通り、本当に頭を抱えているのである。

 たまたま山菜を採りに来ていた盈だったが、困っている人間を放っておくことは出来ない。どうにかして助けてやりたいと思う気持ちはあったが、生憎他者と話すことは不得手だ。いきなり声をかけて、不審者だ何だと通報されるのは避けたい。

 もとより、他人から話しかけられることはあっても自分から話しかけることは少なかった方である。たとえ相手が年端もゆかぬ少女であったとしても、初めの一言を口にするのは並々ならぬ勇気が要った。怖がらせたり、嫌な思いをさせたりしたらどうしよう、詰まるところ相手から拒絶されたら悲しい──情けないことだが、盈は恐ろしくて堪らないのだ。他人から拒まれ、突き放されることが。

 近くにあった太めの木の幹を壁にして、盈はそっと様子を窺う。

 しゃがみこむ少女。顔は見えないが、小柄で華奢な体躯から何となく年齢は推し量れる。シンプルなデザインのリュックサックに、同じく柄のほとんどないパーカーとジーンズ。登山靴ではなくデッキシューズを履いている辺り、この辺りに住んでいる者ではなさそうだ。山慣れした者は、相応の対策をして山に臨む。ハイキングコースが敷かれている易しい登山道ならともかく、ここは地元の者でもなかなか立ち入らない山深き場所。少なくとも、軽装で立ち入るべき場所ではない──そう思う自分も登山家に怒られそうな普段着なので、口に出すのは憚られる。他人のことをとやかく言えた口ではない。

 いやはやどのように声をかけたものか。このままでは、見知らぬ少女を観察しているだけの不審者だ。第一声とはあまりにも難しい。こんにちは、と挨拶するのが最善だろうか。第一印象は大切だ。表情を動かすことは苦手だが、無表情というのは感じが悪いのを通り越して気味が悪い。ここは頑張って笑顔を作らなければ──。


「何をなさっているんですか?」


 背後に気配。足音ひとつ聞こえなかった。咄嗟に振り返れば、勢い余って幹に背中をぶつけてしまう。

 つい見上げ──ようとする盈だったが、相手は随分と下にいた。日本人としては平均的な身長の盈だが、一瞬とてつもない長身になったのでは、と錯覚する程の身長差だった。

 盈の背後を撮ったのは、先程頭を抱えていた少女だった。


「あ──申し訳、ない」


 あれこれと考えていた言葉は全て忘却した。盈の口からこぼれたのは、弱々しい掠れ声だけ。

 いつもこうだ、いざ喋るとなれば上手く言葉が出ないばかりか、か細く聞き取りにくい調子の声が漏れるばかり。これで他人を苛立たせたのは一体何度になるだろう。

 自分よりも小さな少女を相手にしているというのに、盈は彼女に気圧されるしかない。眼鏡の奥にある一切の光を映さない真っ黒な瞳は、まるで墨汁をそのまま流し込んだかのようだ。


「あ、あなたが困っている、ように見えたから……何か力になれないか、と……」


 語尾は尻すぼみになってしまったが、何とか言いたいことは全て伝えられた。言い訳のように聞こえていれば意味はないだろうが、それでも無言よりはずっと良い。

 少女は暫し黙したまま、盈の顔をじっと見つめた。他者と目線を合わせるのが苦手な盈は、反射的にアイコンタクトを避ける。


「大丈夫です。通報はしません」


 明らかに挙動不審、怪しさ満点の盈に、少女は抑揚のない声でまずそう告げた。

 たしかに、不審者と疑われるのは避けたかったので通報されないに越したことはないが──もし少女に通報する気があったとしても、それは無理な話だと思う。いくら社会の情報化が進んだとしても、この山中では電波もままなるまい。

 先程まで人間味を感じさせない相手だと思っていたが、盈はそこはかとない親しみを目の前の少女に覚えていた。本人には悪いが、他者の少し抜けているところを見ると安心感を抱けるようだ。

 少女は少し首をかしげてから、ところで、と前置きする。


「あなたはこの辺りにお住まいですか」

「あ、ああ。家は、幾つか駅を乗り継がなくてはならないけれど……この辺りの地理には明るい、と思う……」

「なるほど……」


 須臾の間思案する素振りを見せてから、少女はつと顔を上げる。首が痛くなりそうな姿勢だ、と盈は他人事のように思った。

 そんな盈の呑気な考え事は他所に、少女はやはり無機質に口を開く。


「あなたに頼み事をしてもよろしいでしょうか」

「頼み、事」

「はい。実は私、迷い人でして。人里まで案内してはいただけないでしょうか」


 何となく予想はできていたので、盈は特段驚かなかった。はあ、と気の抜けた返事をするだけでは意図が読み取れないかもしれないと思い、承諾の意味も込めてうなずいておく。

 盈にとって、迷い人はそれほど珍しい存在ではない。高野山が観光地となってから、観光客のために敷かれた道を外れてしまう者は度々現れた。ケーブルカーが設置されてからはそちらを利用する者が増えたようだが、登山に挑もうとして道に迷う人間が完全に消滅した訳ではない。高野山の麓で暮らしている盈がそういった人々を案内することは少なくなく、今となっては慣れっこ──とまではいかないが日常のひとつとして受け入れられるまでになっていた。

 しかし迷い人とは思えない堂々──というか開き直ってすら見える少女の振る舞いに、盈は不思議なものを感じる。普通、道に迷った人間とは多かれ少なかれ当惑しているはずだ。こうも冷静なら、自力で解決策を見出だせそうにも思えるものだが──いや、何でも『普通』という枠組みで判断すべきではない。現にこの少女は困っていて、自分に助けを求めているのだから、それを突っぱねる道理はないだろう。


「ここからだと、上古沢駅が近いはず。そこからは電車やケーブルカーで移動になるけど、良い?」

「構いません。それに、高野山の方はもう見てきましたので。良い時間の電車がなかったので出費を減らそうと思ったのですが……これが裏目に出ましたね。お恥ずかしいことです」

「え……もう、回りきったの?」


 少女の言葉に、盈は思わず目を瞬かせた。

 高野山は広い。主要な寺院や名所を巡ろうと思えば、それなりの時間がかかる。見たところこの少女は軽装なので、日帰りと考えるのが妥当だろうか。現在の時刻は午後一時を少し過ぎた程度、電車やバスを上手く乗り換えられたとしても高野山の名所全てを巡り、かつ下山しようと試みるのは難しいはずだ。

 見たいところだけ回ってきた口だろうか。一人首を捻っていると、少女はああ、と思い出したように言った。


「たしかに観光もしてきましたが、それは二の次。私は仕事のためにこの地を訪れました。昨日は高野町の辺りを一通り見て回ったのですが、あてが外れたようで……一泊してもう一度見落としがないか回ってから下山したので、あなたが考えているようなことにはならないかと」

「そ、そう……。ところで、お仕事、って? あてが外れたって、どういう……」

「とりあえず、歩きながら話しませんか。いつまでもこうして向かい合っていては、先に進めません」


 少女に指摘されて、盈は申し訳ない、と再度謝罪した。たしかに、一歩も動かないままでは彼女の案内などできない。

 自分が通ってきた道を戻りつつ、盈は横を歩く少女をちらと見る。彼女は盈の半歩後ろを進みながら、それで、と切り出した。


「私の仕事に疑問をお持ちのようでしたね。……ええと……」

「あ──わたしは、盈、という」

「盈さんですね。あなたにだけ名乗らせておくのは失礼なので、私のことは天津あまつとお呼びください」

「天津、殿」

「そこまで畏まらずとも構いません。……して、私の仕事ですが、今回の場合は人捜しです。尤も、その方が高野山付近にいらっしゃったというのはだいぶ前のお話なので、既に別の場所に移られていたらその旨を依頼者にお伝えするだけなのですが」


 つらつらと連ねられる少女──天津の言葉に、盈は自分が話す隙間を見出だすこともできずひたすら聞き役に徹することとした。

 話すことは苦手だが、他人の話を聞くことは好きだ。ならば一体何が楽しいのかと問われれば返答に困ってしまうが、意志疎通コミュニケーションを取ること自体は嫌いではない。自己主張という一点が不得手なだけで、他者との関わり合いは基本的に好ましいものと思っている。相手の語りに耳を傾けている時は、不思議と心安らぐのだ。我ながら難儀な性分だと思う。

 天津いわく、彼女と尋ね人との間に親交はないという。ついでに言えば、彼女に捜索を依頼した者も尋ね人と会ったことはないらしい。


「その……お捜しの方は、指名手配されていたり……?」


 自分から発言するのが苦手な盈も、これには口を挟まずにはいられなかった。指名手配犯が近隣をうろついているとなれば、不安を覚えるのは当然である。

 しかし、天津はいえ、と否定の言葉を口にした。


「お尋ね者ではありませんよ。危険人物ではないはずです。聞いた限りでは」

「ええ……」

「不安になるお気持ちはわかります。ですが、その人物が誰かに危害を加えたという話は今のところ聞いていません。それに、私は司法関連の人間ではありませんから。そういった方々を取り締まるのは専門の方に任せるが最善かと」

「それなら、何故……?」

「人捜しをしているのか、ですね。仕事──と言ってしまえばそれきりになってしまいますが、それではあまりにも感じが悪い。そうですね──簡単に言えば、安否確認です」


 とはいえそれほど重大な話でもないのです、と天津は続ける。


「依頼者いわく、そこにいてもいなくても良し、とのことで。まだ高野山周辺で暮らしていらっしゃるかの確認のみをして欲しいそうです。ただ、相手に警戒されては困るということもあって、私に依頼した……という流れですね」

「……誰でも、同じでは?」

「それは私も思いました。しかし、依頼者によれば、恐らく私のような『片足を突っ込んでいる程度の人間』なら許容範囲になるのではないか、との見立てでして。真っ当な人間には頼みにくい案件とのことでしたので、私のような半端者に頼んだのでしょうね。最近の仕事は色々と骨が折れる作業が多かったので、この程度の依頼であれば大歓迎です」

「守秘義務は、大丈夫?」

「本来なら、隠しておかねばならない部分もあるのですが……今回に限っては目を瞑らなければならないと判断しました」

「……?」


 妙に遠回しな言い方だ、と盈は感じた。思わずその足が止まる。

 振り返って見てみれば、天津の鼻先が盈の背中にくっつきそうな位置にあった。突然立ち止まったことで、彼女は急停止を余儀なくされたのだろう。その点については申し訳ない、と思う。

 盈が唇を動かす前に、天津が切り出す。


「盈さん。あなたに謝罪しなければならないことがあります」


 自然、盈の体は強張った。

 聞くべきではない。きっとろくなことにならない。盈の直感らしきものが、脳裏で警鐘を鳴らす。

 だが、盈に話を遮ることはできなかった。他者が話している途中で割り込むなど、奥手で引っ込み思案な盈には到底不可能だった。


「私たち、異界へんなところに迷い込んでしまったようです」


 おもむろに、顔を上げる。

 二人の目の前には、それまで影も形もなかったはずの、朽ちかけたあばら家がぽつんと建っていた。

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