7

 沈みゆく夕日を眺めながら、陽の乗った飛行機は無事に発っただろうか、と仙女は思った。

 あれから陽が憂いを見せることはなく、もう何軒か飲食店を回った後仙女は彼女を空港まで送った。灰色の髪の小さな少女は、出発ゲートの前でありがとうございました、と告げて深々と頭を下げていた。

 彼女は子供ではないのだ、と改めて思った自分が滑稽で、今になって自嘲する。

 吹き付ける風が生ぬるい。真っ直ぐ自宅に戻る気にもなれず、この時間には人気のない農道を歩いていた仙女は、ふと足を止める。

 背後に気配。足音は聞こえなかったが、間違いない。何かが、


「何者だ」


 名乗れ、不敬者。

 振り返らずに口のみを動かす。結っていない黒髪が風に弄ばれ、時折仙女の視界を覆う。

 ふふ、と背後で密やかな笑い声がした。若い少年の声のように聞こえたが、ただの子供のようには思えなかった。

 これは人の子の声ではない。人の子は、こうも不愉快で不気味で、這いずり回るような声を出さない。

 ざわり、と仙女の肌が粟立つ。

 これは、人ではない。神仙でも、中華に息づく妖異でもない。

 仙女の、知らないモノだ。


「いやはや、名乗る程の者ではないよ。あの灰色の髪の娘は、勝手に呼び名を付けてくれたがね」

「…………」

「お前も耳にしたはずさ。まさか忘れてはいまい?」


 やはりか、と思った。遠からず接触を図られるとは考えていたが──かの少女に付きまとっている怪異は、相当せっかちか構いたがりのようだ。これでは鬱陶しがられるのも当然だ。

 グリモワールの悪魔。陽から成長を奪った怪異。人を魅了し、破滅させる魔書。


『グリモワールの悪魔は分身を使います。本体がその場になくとも、魔書が存在するだけで奴は分身を作り出し、どれだけ遠方にいようとも接触することが可能です。それゆえに、奴を消すためには本体である書物を破壊するしかありません』


 空港に到着するまでの間、陽がハーレーの後ろでそう言っていたことを思い出す。本体が破壊されなければ何処にでも現れ、人と同様にものを言うことができるのだと。

 きっと、陽も数えきれぬ程ちょっかいをかけられてきたのだろう。グリモワールの悪魔について語る彼女の声は、顔を見ずともわかる程の嫌悪感と憤怒に満ちていた。

 仙女は細く息を吐き出した。この怪異は性質たちが悪い。一見して相互理解ができるように見せ掛けておいて、実際は相手のことなどちらりとも見ていない。

 何処までも自分勝手。自己中心的で独善的。ただの気紛れで人間を破滅させる、人ならざる存在。

──気に食わない。


「そう怒らないでくれたまえよ、仙女殿。儂は未来の英雄を育てているだけさ。あの娘は、常ならざる器の持ち主だ。普遍の中で腐らせるには惜しい。せっかくの逸材なのだから、相応の舞台を用意してやらなければ」


 仙女は答えない。背後の怪異だけが、愉しそうに喋る。


「英雄とは、常に現れるものではない。英雄たる器を持つ人間と出会うには、途方もない時間と一瞬の運が必要だ。あの娘は、やっと出会えた原石なのさ。特に最近は退屈で退屈で仕方がなかった。ようやく、儂は面白い娯楽の種を見つけたのだよ」


 怪異は喋り続ける。立て板に水を流すように、滔々とうとうと。


「あれは気付いていない──いや、気付こうとしていないだけさ。英雄になるのが恐ろしいんだ。だから、儂は背中を押してやろうとしている。英雄を求めているのは、何も儂だけじゃあない。人は心の何処かで、常ならざる英雄を求めるものさ。そんな人の期待さえ、お前は邪魔し、奪おうというのかい?」

「黙れ」

「やれやれ、つれないな。歳をとると、皆頭が硬くなっ」


 次ぐ言葉を、仙女は許さなかった。

 ひゅおう、と風切りの音。仙女が振り返るのと、背後に立っていた人物──金髪をひとつの三つ編みにした麗しき少年──の首が、風の刃によってすぱんと切れるのはほぼ同時だった。


「黙れと言った。実力行使せねば人語は解せぬか」


 仙女は笑みひとつ浮かべない。落ちた首を、喜怒哀楽のいずれも映さぬ顔で見下ろす。

 切断面から血は流れない。そもそも、骨肉すら通ってはいない。首も、崩れ落ちた胴体も、中身はすっからかんの空洞だ。

 中身のない見せ掛けの首は、転がった後も動きを止めなかった。く、と笑い、目線のみで仙女の方を向く。


「まさか。人の言葉はわかるさ。ずっと昔から、奴等は儂を手に取ってきたのだから」

「だが心はわかるまい。貴様は所詮考えなしの根なし草よ。後先を顧みることも、見えぬものを慮ることもない。憐れよのう、何とかという魔書」

「はは──その言葉、そっくりそのままお前に返してやろう、仙女殿」


 ぐりん、と怪異の血を凝らせたような目が動く。同じ赤でも、辰砂を思わせる仙女のそれとは全く異なる色合いだった。


「根なし草の儂と違い、お前は中華から出られない。お前は中華に根を張ったから。いずれ死ぬ人から離れられず、連中が死んだ後に暴かれることさえ許せず、その度に間に合わず、次こそは護ろう護ろうと泣いて後悔して根を張り続けた」

「…………」

「可哀想になあ。人に見つからぬように、己の気を中華のあらゆる場所に埋め込んで。そうして、物言わぬ死人の眠る墓を生者から護ろうとして。幾つ隠しきれた? 墓荒らしと戦火から、幾つの死体を護れた? やっと訪れたと思った平和に安堵して、油断したろうな。そうして気の弛んだところを、暴かれたのだろう? 宝を奪われ、死後の安寧は打ち砕かれ、弔いもなく遺構は見世物にされる。それでよく生きていられるなあ? この狭い中華に縛り付けられて、醜い世界ばかり見て。何と憐れな小娘だろう。涙が出そうだ」

「誰の許しを得て私を見上げている、下郎」


 こうべを垂れよ、と仙女は命じた。

 首は、尚も視線を下げなかった。

 そうか、と仙女はうなずく。そのまま、一歩も動かない。


「最早貴様に割く時はなし。失せろ」


 閃光が墜ちる。ならされた農道の中央に小さな窪地ができた。

 怪異の姿は既にない。もとより分身だったのだろう、仙女の五行による攻撃で木っ端微塵に破壊されたらしい。これが本体であったならさぞ胸が空いただろう、と仙女は思った。

 何度か呼吸を繰り返す。そうして気分を落ち着けてから、帰路をゆっくり歩き出す。

 かつんかつんと鳴るブーティ。その踵の下には、気によって張られた網がある。中華にその身を根付かせ、その地中に埋没した異物を包み隠し護るための網状組織ネットワーク

 見抜かれたことに戸惑ってはいない。一端の怪異であれば、気付いて当然だ。中華全土を埋め尽くした気の網は、仙女が生きてきた証左あかしのようなもの。もとより隠すつもりはない。隠したいものは、網の中にあるのだから。


「醜い世界、か」


 怪異の言葉を思い出し、ふと目を閉じた。しかしそれは須臾の間でしかなく、すぐに仙女は前を向いて歩を進めている。


「美しいと思った記憶を現在いまで塗り潰せる程、私は耄碌もうろくしていないよ」


 様変わりした街。日々変わりゆく常識。色褪せ、やがて忘却される過去。中華の大地が終わらぬ限り、永遠に続く生。

 流動する世界の中に取り残された、老いず死なない己に苦笑する。きっと明日も生きているだろうと誰にでもなく思いながら、仙女は何度も通った道を踏みしめた。

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