11
アンジェリカは飛行機でモスクワまで向かうとのことだったが、どれくらい滞在するのかわからなかったルスラーンは鉄道を使って帰ることにした。時間はかかるが、致し方のないことだ。出費も押さえなければならないし、ちょっとした小旅行気分を味わうのも良いだろう──帰り道だが。
セラは鞄の中ですやすやと眠っている。もともと、暗くて狭いところが好きらしい。だいぶぎゅうぎゅうに詰めてしまったが、セラは文句ひとつ言わなかった。
駅でコーヒーを買い、列車を待つ。それほど人は多くないし、無事に座れそうだ。
「──少年」
そう思っていた矢先、唐突に声をかけられた。
顔を向けた先にいたのは、ルスラーンと同年代程度に見える華奢な少年。長い金髪をひとつの三つ編みにし、胸元に大きなリボンのついたブラウスを着ている。ロココ美術の中から飛び出てきたような風体の美少年だ。
彼が人ではないことを、ルスラーンは即座に理解した。少年の紅い瞳は、品定めするようにこちらを見つめている。
「誰だ、お前は」
問いかければ、少年はにいと口角をつり上げる。
「名乗る程の名はなし、儂はただの風来坊さ。ひとつ言えることがあるとすれば、あの灰色の髪の毛の娘──サンドリヨンの知り合いだよ」
「あいつの……?」
「お前はシェールィ、と呼んでいたね。仮の名前は教えられていただろうに」
くふふ、と少年は密やかに笑う。その老練な物言いといい、どことなく浮世離れした雰囲気を漂わせている。
彼はどこからか冊子のようなものを取り出した。とある
「だが、それら全ては虚像だよ。シェールィはおろか、アンジェリカ・ロレンスもこの世にはいない──これを見てごらん」
「これは……」
開かれた頁。それはドイツ語の雑誌のようで、ルスラーンには大まかにしかわからなかったが──何を報じているかは把握出来た。
白黒の写真。其処に映っているのは、一人の美しい女性だ。
彼女の名前は──アンジェリカ・ロレンス。
「この女は、十数年前に事故で亡くなった舞台女優だ。それなりの人気はあったようだが、その手の好事家の間でのみ有名だったようだね。つまり、アンジェリカ・ロレンスとは故人なのさ」
少年は歌うように言った。死を悼んでいるようには聞こえなかった。
同姓同名の人間は案外少なくないものだ。もしかしたら、先程まで共に行動していた少女もまた、アンジェリカ・ロレンスなのかもしれない。
だが、違う、という確信がルスラーンにはあった。彼女はアンジェリカ・ロレンスではない。アンジェリカ・ロレンスを名乗っていた誰かだ。
それでも、ルスラーンは構わなかった。彼女の本名を知らずとも、生活に差し障りはない。あの少女はシェールィであり、アンジェリカ・ロレンスでもあるのだから。
「ふむ、お前は肝の据わった小僧のようだね。それならば儂も構うまい。もうお前に用はないよ」
少年は納得したのか、うんうんと勝手にうなずいた。その顔は満足そうだったが、ルスラーンには彼の思惑がわからない。
「お前は理解者だ、少年。あの娘は英雄になり得る。英雄とは孤高であるべきものだが、たまの理解者も悪くはあるまい」
言い終わると、少年の姿はふっとその場から消えてしまった。言葉を返す暇すらなかった。
「……英雄、か……」
少年の言葉を反芻し、ルスラーンは天を仰ぐ。
彼はアンジェリカを英雄の器と言った。其処に揶揄や冗談のような色合いは見受けられなかった。
「あいつには似合わないだろ」
しかし、肯定出来るものでもなく。
無感動で無機質なように見えた、灰色の少女。だが、その人間味をほんの少し垣間見てしまったルスラーンとしては、あの少年の発言に納得することは出来なかった。
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