10

 車内は、えもいわれぬ疲労感に満ちていた。

 ハンドルを握っているルスラーンは、心なしかやつれた顔で後部座席を見る。ちょこんと座っているアンジェリカは相変わらずのポーカーフェイスで、何を考えているのかさっぱりわからない。


「散々なお見送りでしたね」


 そんな彼女から声をかけられて、ルスラーンは片眉を跳ね上げた。この少女も疲れているのか──と意外に思ったことが気付かれていなければ良いのだが。

 アンジェリカは鞄から何かを取り出し、口に含んだ。ぽりぽりと小さく音を立てるそれは、向日葵ひまわりの種だ。行きにスーパーで買っているのを、ルスラーンも目にしていた。

 小柄で幼げな彼女が食べていると、まるでハムスターのようだ。しかし、黒々とした目はバックミラー越しでも独特の存在感を放っており、癒されるような光景ではない。


「アルマトの方々は、我々に感謝するどころか災害か何かのような扱いでした。一気に村民が亡くなられて、混乱する気持ちも理解出来ますが……まさか我々が犯人扱いされるとは」

「最初から魔女扱いだったんだ。いきなり軟化する方が気持ち悪いよ」

「それにしたって不快でした。美味しいご飯でも食べないとやっていられません。向日葵の種は幸福感を促すといいますけど、これでも足りないくらいです」


 思ったよりもアンジェリカはご立腹のようだ。表情に出ないだけで、内心ではあれこれ考えるタイプなのだろう。

 しかし、彼女が憤然とするのも道理だとルスラーンは思う。

 彼女の言った通り、村民の見送りはほぼ追い出しにも近いものだった。……というのも、今朝になって昏睡状態の村民たちが一斉に息を引き取ったからだ。

 タラスの飼っていた悪霊デーモン。それは家を守るドモヴォーイだけではなく、死者を連れていく死神さえも食らった。死に瀕した村人たちは、死神がいなければ息を引き取れない──否、引き取らない連中ばかりだった。アンジェリカいわく、アルマトを管轄としていた死神がばったり来なくなったことで仮死状態が続いたのだろうとのこと。怪異に馴染みがなければ、非科学的だと一蹴されそうな話だ。

 しかし、アンジェリカには見えていた。ルスラーンですら気付かなかった、悪霊の食べこぼし──かつてドモヴォーイだったものの欠片。だからこそ、彼女は問いかけたのだ。ドモヴォーイとは美味しいのか、と。

 怪異が見えると言っても、ルスラーンはその死に様を見たことはない。怪異とは、自分よりも長命で、どうしようもない存在だという先入観を抱いていたからだ。こればかりは、アンジェリカの観察眼の賜物だと思う。


「けど、死神がいないから死なない──この場合は死ねない、か。とにかく息を引き取らないってのも不思議な話だよな。人間、死ぬ時はどうにもならないだろうに」


 シベリアを突っ切る真っ直ぐな道を走らせながら、ルスラーンはこぼす。少し開けた窓から、涼しい風が入り込む。

 ルスラーンは死神を見たことはあれども、セラやルサールカのように接したことはない。遠目に見るのが精一杯だった。怪異に近しいルスラーンも、青白い顔をした死神のことは恐ろしかったのだ。

 口をもぐもぐさせていたアンジェリカは、そうですね、と呟く。少し思案する素振りを見せてから、彼女は続ける。


「ロシアの民間信仰によれば、義人は死をすんなりと受け入れるそうです。ですから、彼らは死神を介さずに昇天したり、死神がいても彼らは付き添いに過ぎなかったりします。覚悟が決まっているのでしょう。潔いことだと思います」


 しかし、と続くのは対照的な存在に関してだ。


「心に後ろめたさを持っていたり、信心深さが欠けていたり、悪しき心を持っていたりした場合──人は魂を持っていかれることに対して恐れを抱き、その場に留まろうとするらしいのです。だから死神が迎えに来る。駄々をこねる子供を引き剥がして、裁きの場へと連れていく。死の定めを受けて尚魂の留まり続けた体は変質し、やがて悪霊になるといいます。それを防ぐために、死神が派遣されるのです」

「それじゃあ、アルマトの連中はその……後ろめたいことがあって、それを裁かれることを恐れてたっていうのか?」

「そう考えて間違いないでしょう。しかし、彼らが恐れていた罪の発覚について、彼らは我々に語ってはいないはずです。恐らく、ルスラーン君、君も知り得ないことでしょう」

「……? 俺にとって、心当たりがないこと……?」


 アルマトの住人が後ろめたさを抱えているという話は、容易に受け入れられるものだった。その中には、少なからず自分の存在もあるだろう──そう、ルスラーンは想像していたのだが、どうやら彼らの懸念は別のところにあるようだ。

 脳内の疑問符が増えていくばかりのルスラーンに、アンジェリカは淡々と続ける。


「アルマトを訪れる以前、私なりに事前調査を行いました。依頼を受けて、何の考えもなしに現地へ向かうのは無謀が過ぎます」

「耳が痛い話だな」

「君を責めているのではありませんよ。悪しからず」


 タラスに呼ばれて疑りながらもアルマトへ向かったルスラーンとしては、情けなくなるような前置きだ。しかしアンジェリカにそのつもりはなかったようで、淡白な弁明が先に入る。


「無論、信頼出来る資料をあたったのですが、その中に興味深いものがありまして。何でも、ロシア革命の際にヨーロッパ・ロシアのとある地域から逃げてきた方々がアルマトに住み着いたそうです。それゆえに、ヨーロッパ・ロシア的な文化が随所に見受けられるのかもしれませんね」


 ですが、とアンジェリカは背筋を伸ばしたまま続ける。


「アルマト周辺の怪異がその時代に移動したと考えるのは無理があります。推測にはなりますが、彼らがアルマトへやって来たのはそれよりもずっと前なのでしょうね。彼らは恐らく、民間信仰を重んじる人々に付いてきたはずです。しかし、人々にとってシベリアの環境は過酷だった」

「それで……あいつらは一度置いていかれたのか? 其処に、長い期間を経て再び人々がやって来た」

「そう考えるのが妥当かと。怪異たちは、かつて同じ大地に生きた人々の子孫が帰ってきたとでも思ったかもしれませんね。そしてアルマトへ逃げてきた人々は、彼らの問いかけに是と答えた──確かな理由はわかりませんが、怪異が恐ろしかったのか、庇護や利益を得ようとしたか……その辺りでしょう」


 ルスラーン君は覚えていますか、とアンジェリカは問いかける。


「アルマトの人間は見捨てられた可能性がある──その発言に違和感を覚えたでしょう、ルスラーン君。あれは、怪異たちに自分たちの嘘が気付かれたという意味だったのではないでしょうか?」

「……自分たちが、かつての住人を騙っているということか?」

「でしょうね。アルマトの方々は怪異を恐れているようですし。ルスラーン君を迫害したのも、怪異に対する恐れがあってのことだと考えられます。故に、虚偽が露見すれば何かしらの報復があると考えたのかもしれません。それが、死ねない人々と結び付いたのでしょう。実際は、ラジモフさんの独り善がりな企みでしたけれど」


 ふう、とアンジェリカは一息ついて向日葵の種を齧った。暫しの沈黙が下りたが、彼女は口の中にあったものを飲み込んでから話を切り替える。


「ところで、ラジモフさんは最後まで我々の前に姿を現しませんでしたね。昨晩は助けて差し上げたのに、お礼のひとつもないなんて。彼に礼儀作法を教えて差し上げる大人はいらっしゃらなかったのでしょうか。残念なことです」

「仕方ないだろ。あいつは村長の一人息子で、お坊ちゃんなんだ。少なくともアルマトでは大事大事にされてきた。それが悪かったんだろうな」


 ハンドルを操作しながら、ルスラーンはふとタラスの顔を思い浮かべた。

 物腰柔らかで落ち着いた振る舞いの青年。彼には独特の余裕があった。それは、自身の立場に基づいた優越感だったのかもしれない。

 そんなタラスだからこそ、都会の大学ではショックを受けたことだろう。周囲の人間は自分を一番に行動してはくれない。彼は並みいる人間の一人でしかなく、惨めな思いをすることだってあっただろう。


(だから──村に戻り、父親を昏睡状態にして、悲劇の中心人物になったのか? 俺を呼び寄せたのは、恐れられているとはいえ村人たちの話題の中心に立つであろう俺を排斥するため?)


 全て憶測だ。タラスが真実を語らぬ以上、ルスラーンにはわかり得ないことだ。

 しかし、もしそうだったのなら──タラスはとんだ大馬鹿者だと思う。自身が一番になるために父親まで手にかけるなど、あってはならない──いや、ルスラーンとしては、個人的にあって欲しくないのだ。

 アンジェリカは全てわかっているのだろうか。タラスの思惑、そして怪異たちの変遷を。情報屋である彼女ならば、何処かで知り得たのではないだろうか。


(……いや、やめよう)


 いくら何でも、此処で詮索するのは不毛が過ぎる。

 ルスラーンは思い浮かんだ考えを思考の隅へと追いやった。気を取り直して、そういや、と切り出す。


「タラスの前では答えなかったが、結局あんたの依頼主ってどんな人なんだ? こんな僻地のこともやたら知ってるみたいだったし、あんたにアルマトの過去に関する資料を見せたのもそいつなんだろ? 悪霊のブローカー?がどうとかも言ってたし……。もしかして、タラスってとんでもないことに首を突っ込んでたのか?」


 ルスラーンの問いかけに、アンジェリカは僅かにだが表情を曇らせた。それは彼に対する嫌悪ではなく、単純に気まずそうな色を湛えた眼差しだった。初めて見る表情だ。


「あー、その、それはですね……」

「いや、守秘義務があるなら無理にとは言わないが」

「いや、君は協力者ですし、その辺りは許容範囲でしょう。君は咎められることをした訳ではありませんし、むしろ被害者です。君に話すことに関して、後ろめたいことはありません」


 ただ、とアンジェリカは言葉尻を濁らせる。


「何というか、個人的に話しにくいというか……いえ、悪い方ではないのです。私に対して、全面的に協力してくださいますし、お家に招かれたこともあります。その方の作るカーシャはとても美味しいですし、毎回お土産をたくさんくださいます。優しくて良い方だと思います」

「それなら、何がそんなに気まずいんだよ?」

「…………その方、人ではないのです」


 小さなアンジェリカの体がさらに縮まったように見えた。

 彼女は何故かきょろきょろと忙しなく周囲を見つつ、先程よりも声を潜める。


「たまにいらっしゃるんです、都市部にお住まいで、己が意思にて人の中に紛れて暮らしている怪異が。その方もそういった性質で、見た目は本当に人間のようです。人々の中にも溶け込んでいらっしゃいますし、行政に顔も利きます。私に資料を提供出来たのは、その方の立場があってこそです」

「人間みたいな怪異か……。どんな種類に入るのかはわからないが、随分馴染んでるんだな、人間社会に」

「はい、その方ご自身も人間の営みを好ましく思っておいでです。だからこそ、人に害を為す悪霊のブローカーにも目を光らせているのでしょう。怪異の違法な売買はロシアに限ったことではありません。今回の一件も、悪霊ブローカーの足取りから浮上したものですし……。とにかく、依頼主が善良な民を案じておられるのは本当です。故に、怪異に詳しい私を頼ったのだと理解しています。依頼主は人に寄り添ったお方です」


 でも、と続けるアンジェリカの声は僅かに震えている。


「依頼主は怪異なのです。どれだけ人に近くあろうとしても、怪異としての片鱗が垣間見えることがあります。依頼主自身、どうにか馴染もうとはしているのでしょうけれど……うっかり力加減を間違われた先に私がいたら、と思うと、やはり怖いといいますか……。特に行政と繋がりがあるだけに、殊更……」

「……ああ、なるほど……」


 これにはルスラーンも彼女に同情した。どれだけ親しげであろうとも、怪異は怪異。人間と同じ物差しで見ることは命取りだ。

 アンジェリカはうつむきながら、疑っていたのではありませんが、と前置きする。


「いきなりモスクワに呼び出されて、突然シベリア行きを宣告されたのがちょっと……こう……精神に来て……。いえ、本当に良くしてくださる方なんですよ。それは確かです。でも、何て言えば良いのかな……一言一句覚悟を決めながら受け答えして、スキンシップにも気を張らなくてはならないのが、辛いと言えば嘘になります」

「依頼の行き先が悪かったな、それは……」

「何か悪いことをしてしまったのではと気が気ではありませんでした。結局のところ、ちゃんとした仕事だった訳ですけれども」


 アンジェリカは多くを語らなかったが、きっとタイミングと雰囲気の問題もあったのだろう。聡明な彼女が左遷と勘違いするとは、相当の環境だったのではなかろうか。お互いに悪意がないと思われるだけに痛ましいことである。

 こんな時に思うことではないが、アンジェリカにも人並みの感情があるのだとルスラーンは安堵した。

 何事に対しても冷静に臨み、怪異を前にしても平然とし、悪霊をバールで抉っていた無表情のアンジェリカ。其処に不気味なものを感じなかった訳ではない。彼女が始終無表情ということも手伝っている。時折、表情が崩れることはあったが──それはほんの一瞬のことで、今のように色々と吐き出してくれたのとは違う。


「──まあ、でもその人のカーシャは美味いんだろ。それなら良いと思うけどな、俺。あんたは美味いものを食ってる時が一等幸せそうだし」


 だから考えすぎは毒だと思う、と告げれば、アンジェリカはおもむろに顔を上げる。何度もそう、そうだね、と自分に言い聞かせるように呟いて、彼女はありがとうございます、とはにかんだ。


「君のおかげで、少し心が軽くなった気がします。尤も、我々は食い意地だけの人間ではありませんが」

「わかってる。でも、あんたの食べっぷりは本当に気持ち良いんだ。美徳だと思う」

「よく言われます。──でも、それは君と、セラさんが心を込めて用意してくださったからこそですよ」


 そう言って、アンジェリカはそっと目線を動かした。

 彼女の見つめる先は助手席。其処には、白くてふわふわとした毛玉が恥ずかしそうに座っている。照れ屋のケセランパサランは、二人の会話には入らず聞き役に徹しているのだ。

 セラはその境遇から土地に縛られず、持ち主のもとを渡り歩く性質を持っている。アルマトに一人にしておくのは忍びなく、ルスラーンはセラをウラジオストクの自宅まで連れていくことにした。


「今度ウラジオストクで仕事することがあったら言ってくれ。何か作っていくからさ」

「私は君の連絡先を知らないのですが」

「あんたなら自力で探し当てられるだろ」


 アンジェリカは否定せず、目を伏せてそうですね、と首肯した。

 窓の隙間から入り込んでくる風が、彼女の灰色の髪の毛を揺らす。それを押さえたり、窓を閉めたりすることなく、アンジェリカはただ前だけを見つめていた。

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