8
仕置き小屋というからには表立って建てることの出来ないもので、ルスラーンたちは再び森の中を移動することとなった。
懐中電灯を持っているとは言え、さらに深まった夜の森を歩くのはさすがに緊張する。動物の鳴き声すら聞こえず、自分たちの足音だけが幽かに響く状況に、ルスラーンは気温だけではない薄ら寒さを覚えずにはいられなかった。
──のだが。
「やはり冷えた時には飲食が効果的ですね。毎日飲もうとは思いませんが、お酒で暖を取るのも悪くないと思います」
隣を歩いているアンジェリカは、あろうことか以前の夕食で飽きるのではないかという程口にしていたピロシキを食んでいる。ごく当たり前とも言いたげな表情で鞄からピロシキを入れた保温性の高い容器を取り出された時は、さすがのルスラーンも二度──いや三度見はしてしまった。いくら何でもこのような状況でやることではない。肝が据わりすぎている。
「どうしたのですか、ルスラーン君。君もお腹が空いたのですか」
唖然として見つめていただけだが、アンジェリカには物欲しそうに映ったようだ。小さな口をもぐもぐと動かしながら首をかしげる。
当然ながらルスラーンは空腹どころではないので、初めにいいや、と首を横に振っておく。
「あんた、見た目に似合わずすごい度胸の持ち主なんだな。これから向かうところがどんな場所か、想像出来ない程鈍感でもないだろうに」
「もっと緊張感を持つべきだ──とでも言いたげなお顔ですね」
「わかってるんじゃないか」
じと、と横目で見ても、アンジェリカは足も口も止めない。むしろ、一切の迷いも妥協も見受けられない眼差しでルスラーンを見つめ返してくる。
「たしかに、仕置き小屋というくらいですから、表立って口に出来ないことをする場所だったのだということは私にもわかります。ですが何に緊張すれば良いのでしょう。その場の雰囲気ですか? それとも、其処に縛られているかもしれない幽霊だの怨念だのにですか?」
「それは……」
「私はただの調査員。アルマトを訪れるのは、これが初めてです。君のようにアルマトで暮らしていた訳ではありません。このような言い方は冷たく聞こえるかもしれませんが、此処の住人と私はほぼほぼ無関係だったのですよ。何を臆することがありましょうか。私は私の役目を全うするだけのこと。まだ目にしてもいないものを恐れて尻込みする程、相手の顔色を窺う必要などないのです」
言い切り、アンジェリカは残っていたピロシキの欠片を口の中に放り込んだ。
彼女が吐き出す息は白く、空気は冷たく肌を刺す。アンジェリカが歩く度に、リボン結びにされたマフラーがひらひらと揺れる。
「……ですが、君がその小屋に抱く気持ちを否定はしません。君の過去にまで口出しをするつもりはありませんから」
前を見据えたままアンジェリカが紡ぎ出した言葉は、何でもはっきりと口にする彼女にしては珍しく言い訳じみていた。ルスラーンを傷付けてしまったとでも思ったのだろうか、先程よりも些か早口でもあった。
ふぅぅ、とルスラーンは息を吐き出す。隣を歩く小さな身体は、さらに縮まって見える。
「あんたの言うことは正論だよ。それだけのことだ。別に俺が傷付くような話じゃない」
それに、とルスラーンは続ける。
「もう目的地が見えちまってるんだ。今更引き返すなんてつまらないにも程があるだろ。文句があるなら、調査を終えた後にまとめて言うさ」
「死神に目をつけられそうな台詞ですね。言いたいことは先んじて言った方が後々困りませんよ」
「何てこと言うんだよあんたは……」
縁起でもない発言だが、アンジェリカなりに元気付けようとしていたらしい。唇の端だけをつり上げた、独特な笑みで見上げられる。
何はともあれ、仕置き小屋には無事に到着した。この場所にも、先程の猟師小屋のように隠しものがあるかもしれない。
ルスラーンは歩く速度を速め、アンジェリカの先を歩いた。仕置き小屋の扉の前に立ち、扉に耳を近づける。
「……今のところ、物音はしないが……実際に見てみないとわからないな、これは」
「覗き穴はないのですか?」
「あったら先にそっちを見てる」
「それもそうですね。では、私の出番ということですか」
そう言ってアンジェリカは扉へと歩み寄る。先程のようにピッキングでもするつもりなのだろうか。その手の話題に疎いルスラーンは、専門家の邪魔にならないようにと身を引いた。
サムターン回しの方が得意だなんだとは言っていたが、一種のやりがいは感じていたらしい。むん、と得意気に唇を引き結んだアンジェリカは、身を屈め──たちまち拍子抜けした目になった。
「どうやら私がいなくても良かったようです。此処、施錠されていません」
「えっ、嘘だろ」
「エイプリルフールはもう過ぎましたよ。──この通りです、わかりますね?」
そう言ってアンジェリカがドアノブを回せば、彼女の言う通り施錠されていなかったのかすんなりと扉は開いた。
余計な手間が省けたという点に関しては純粋にありがたいと思う。しかし、後ろめたい理由から造られた仕置き小屋の鍵をかけ忘れることなどあるのだろうか、そもそも最近になってもまだ使われているのかという疑問を拭うことは出来ない。
直接口に出すのは
決して誇れるようなことではないが、ルスラーンはこの小屋の常連だった。
「…………」
最後に此処を訪れてから、もう五年以上は経っているはずだ。この場にアルマトの大人たちはいないし、それゆえに怯える必要はないと理解はしている。
だが、足が動かない。体は凍りついたかのように硬直して、喉はからからに渇く。しかし暑さを感じることはなく、むしろ寒さが強まった気さえする。
「私が見て来ます」
いつまで経っても動かないルスラーンにしびれを切らしたのか、はたまた気を遣ったのか。どちらが本当の理由なのかはわからなかったが、何はともあれアンジェリカが先陣を切ることになった。
悪い、と小さく謝罪したが、その声が届いたかはわからない。返事がなかったため、ルスラーンは外壁にもたれて人が来ないか見張ることにした。
息を吸い込めば、冷たい空気が肺に満ちていく。寒くはあったが、頭を冷やせるのなら多少は我慢出来た。
(……今のアルマトに、俺のような弱者はいるんだろうか。そうでもなければ、この仕置き小屋は使われないだろうに……)
単なる鍵のかけ忘れというだけかもしれない。しかし、ルスラーンは仕置き小屋が施錠されていなかったことに思考を巡らせずにはいられなかった。
アルマトは閉鎖的な集落だ。何が理由かは知らないが、この村の中にいるのが一番良い、と言うような風潮がある。それゆえに、外部から流入するものを何よりも
ルスラーンの父親はアルマトの出身だったそうだが、母親は違った。シベリアでキャンプをしていたらしいカメラマンの彼女は、道に迷い遭難しかけていたところを父親に救われ、なしくずし的に結婚してアルマトに移住したのだという。
外からやって来た彼女に対する当たりは、当然ながら強かった。その子供であるルスラーンも同様で、怪異を見ることが出来るという異能力まで携えていたため迫害は悪化した。父親が流れ弾に当たるという不慮の事故──と村人たちは言っているが、彼らが意図的に仕掛けた可能性もある──で亡くなったのも拍車をかける一因となった。
村人たちはルスラーンとその母親を忌避、そして嫌悪していたが、アルマトから追放しようとはしなかった。都合良く憂さ晴らしが出来る存在として、彼らなりに重宝していたのだろう。尤も、その結果村人たちからの扱いに耐えかねた母親が真冬の森で首を吊って亡くなり、ルスラーンも怪異たちの助力を得て逃亡した訳だが。
だから、今のアルマトに残っている者たちにはストレス発散のための敵がいないはずなのだ。しかも件の奇病のせいで、ただでさえ少ない人手も削られつつある。住人たちにとっては好ましくない状況に違いない。
「どうだ、シェールィ。何か見付かったか」
小屋に入っていったアンジェリカからの反応がないため、ルスラーンはそのままの姿勢でそう声をかけた。何もなかったなら、もう出てきてもおかしくはない頃合いのように思える。
しかし、アンジェリカからの返答はない。代わりにがちゃがちゃと
一体どうしたというのだろう。ルスラーンは震えそうになる足をどうにか動かして、小屋の中を覗こうとする。この短時間で恐れが消える訳ではなかったが、アンジェリカを心配する気持ちを抑え込むことなど出来なかった。
「──動くな」
内部を覗こうと顔を傾けようとした矢先、後頭部に硬いものが押し付けられる。唐突な接触に、ルスラーンの喉がひゅ、と鳴った。
恐らく、押し付けられているのは銃口だ。引き金を引かれれば、ルスラーンの頭を弾丸が貫き、高確率で死ぬだろう。
視界が狂いそうになるのを、どうにか理性で押し止める。一度唾を飲み込んでから、ルスラーンは僅かな震えを帯びた声で問いかけた。
「昨日も随分な歓待だったが、今のお前には負けるよ。──なあ、どういうつもりなんだ、タラス」
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