7

 村落にさえ存在しない街頭などの灯りがほぼ手付かずの森にあるはずがなく、いざ森へと繰り出した二人は真っ暗闇の中を進むこととなった。

 その上、夜間は凄まじく冷えるために防寒にも気を配らねばならない。道を間違えれば遭難必至な上に、冬よりましとはいえ厳しい寒さに挟まれたルスラーンは常に気を張った状態を維持しなければならなかった。


「なるほど、これが寒冷地の森……。資料で見たことはありましたが、実際に歩くのは初めてです。貴重な経験です」


 隣を進むアンジェリカはというと、心なしか声色が弾んでいる。北方のタイガを歩けることに喜んでいるようだ。

 防寒着としてぶかぶかのダッフルコートと白いマフラー、ふんわりとしたミトンを身に付けている彼女は、どちらかと言えば防寒着に着られている風が拭いきれない。当たり前のようにコートの袖は余っているし、マフラーに関しては長すぎて何重にも巻いてから余裕でリボンの形が作れる程である。何を基準に購入したのか──貰い物という線もあるが──もう少しサイズ感を考えた方が良いとルスラーンは思う。余計なお世話かもしれないので、本人から言及がない限り黙っておくが。


「ルスラーン君はこの森に慣れていらっしゃるようですね。頻繁に訪れていたのですか?」


 マフラーに顔を埋めながら、アンジェリカが問いかける。光源と言えるものは頼りない二人分の懐中電灯の光だけだが、白ということもあって彼女の顔周辺は暗闇でもある程度視認出来た。


「まあな。昔は村に入るな、なんて閉め出されたこともあったし、正直なところ森にいる連中の方が仲良かったから、よく逃げ込んではいたよ」

「冬季は辛かったのでは?」

「当然クソ寒かったが、村にいるよりはましだ。それにセラがいたから、あいつに暖めてもらってたよ。セラ、怪異なのにぽかぽかしてるからな」

「たしかに、セラさんは人肌程度の温度でしたね。抱き枕にぴったりです。お酒で暖まるよりもずっと効果的ですね」


 セラが嫌がっていないから良いようなものだが、アンジェリカは余程気に入ったのかよくセラを抱えている。彼女の見目も相まって、幼い少女とぬいぐるみのような光景でもある。アンジェリカの場合、童女のような初々しさというか、いとけなさは見受けられない訳だが。しかし抱き枕にしようというのは初耳だった。


「そういえば、近年のアルマトでは人が死なないこともありますが子供もなかなか生まれていないそうですね。特に女子は三十年近く生まれていないとか。他にいらっしゃるのかもしれませんが、今のところ若者と言える方はラジモフさんくらいですし」


 少子高齢化ですかね、とアンジェリカはうそぶいた。彼女がルスラーンの方を向くことはなく、ただ目の前だけを見据えている。

 アルマトに生まれる子供──ひいては若者が少ないのは、今に始まったことではない。物心ついた頃から、ルスラーンの目に入る若者は片手で数えられる程しかいなかった──幼かったルスラーンにとって、『大人』の範疇に入らないのは年齢の近いタラスくらいのものだったのだが。

 昔はどうだったか知らないが、ルスラーンが知るアルマトは外界との繋がりを厭っている。子供が生まれないのも道理だし、そもそもアルマトに住もうと思う人間など稀だろう。それゆえにアルマトの住民の大多数は高齢者で、保守的な彼らの意見が優先されるのが現状であった。


「ところでルスラーン君。先程から私は君の進む先に付いていっている訳ですが、そろそろ行き先を教えてはくれませんか?」


 アルマトの年齢層について考えていた矢先、横から──正確には斜め下から──じっとりと静かに責めるような視線を浴びせられた。言うまでもなくアンジェリカである。

 彼女の言う通り、ルスラーンははっきりとした行き先を告げずに自宅を出た。闇雲に森を進む程の無謀は冒さないし、心当たりがあると前置きしてから出立したので行き当たりばったりではないと断言出来る。

 しかしアンジェリカとしては曖昧な説明に納得がいっていなかったらしく、先程からやけに饒舌だった。ルスラーンが説明する機会を待っていたのだろう。結局我慢出来ず、彼女から切り出した訳だが。

 たしかにこれ以上黙っているのは無意味かもしれない。ルスラーンは悪いな、と前置きしてから口火を切った。


「家じゃ誰かに聞かれてる可能性もあったから、ある程度人気のない場所に出てから説明するつもりだったんだ。今更あんたに隠し事なんて出来るかよ」

「言い訳は必要ありませんので早いところ本題に入ってください」

「あんた、意外とせっかちだな。まあ良いか、目的地っていうのは村人が使ってる猟師小屋だ」


 猟師小屋、とアンジェリカは鸚鵡返おうむがえしに言う。ルスラーンはうなずいた。


「この広さの森だ、いきなり天気が悪くなった時とか、日の入りが早い時はその小屋に泊まることもあるんだよ。森に出入りする人間なんて限られてるし、手が入るとすればその辺りだろうと思ってさ」

「使われる道は限られている……ということでしょうか」

「そういうことだ。尤も、同じ場所でばかり獲物が獲れる訳じゃないだろうし、多少のずれはあるだろうがな。けど狩りをする連中なんて老人ばかりだし、新しい小屋を作る余裕なんてないだろ」


 アンジェリカは同意しなかったが、咎めることもなかった。もっと口数が多い人間であれば、君の言うこともわからなくはありませんよ、と同意してくれただろうか。

 つくづく、アンジェリカという少女はよくわからない。物事をフラットな視線で見ているようでいて、何だかんだ肩入れされている気がしないでもない。一見物静かで無駄話を好まない風にも見えるが、あちらから話しかけられることも多い。そのほとんどは調査に関する話題だが、何でもない雑談にも厭うことなく応じてくれる。案外気さくで話好きなのかもしれない。

 当初は情報機関所属の調査員、と聞いてお堅い印象が付いて回っていたが、実際に接してみると違うものだ。肩書きや格式ばった口調だけで彼女を推し量るのは無粋と言うべきか。

──と、アンジェリカの考察はさておき、しばらく歩いていると木々とは異なる影が浮かび上がった。高さや形からして、目指していた猟師小屋で間違いなさそうだ。


「人……はいなさそうだな。怪異の気配もない」


 念のため懐中電灯で照らしてみるが、小屋の周辺にいるのは自分たちだけのようだった。

 人気がないとわかっていても、油断や慢心は禁物だ。いくら魔女だなんだと言われようが、村人たちがただ恐れているだけとは考えにくい。怖がって手を出してこない──という保証は何処にもないのだ。クジマのように、銃でも持ち出されたらひとたまりもない。

 特にアンジェリカが狙われることは避けたいところだ。見るからに小柄で体格に恵まれているとは言えない彼女が、日頃から暴力慣れしている可能性は低いに違いない。

 いざとなったら俺が守らねば。そんな決意と共にアンジェリカを見遣ろう──としたルスラーンだったが、彼が向いた先に彼女の姿はなかった。


「閉鎖的な割には無用心ですね。この程度なら楽勝です」


 ルスラーンがあれこれ思案を巡らせている間に、アンジェリカはずんずん前に進んでいた。そして小屋の扉の前でしゃがみこむと、肩にかけているトートバッグの中からピックを取り出して鍵穴をいじり始めた。

 これにはルスラーンも一瞬何が起こったのか理解出来なかったが、いつまでも硬直していられるご身分でもない。おいっ、と小声でピッキングを始めた少女を咎める。


「何してるんだよあんた!」

「ピッキングですよルスラーン君。こうして鍵穴にピックを挿し込むことで解錠する手段です。鍵を使用しない解錠方法としては比較的ポピュラーと言えますね。私としてはサムターン回しの方が楽なのですが、此方の小屋は郵便受けや侵入出来そうなスペースがない上にこの暗さですから、地道にはなりますがピッキングの方が有効かと──あ、開きました」


 一分もしないうちに、アンジェリカは小屋の鍵を解錠してしまった。本当に地道なのかと疑いたくなる手際だった。

 若干引いているルスラーンを尻目に、アンジェリカは何食わぬ顔で不法侵入──この後正当な理由が見付かれば見逃されることになるのだろうが──を決めた。躊躇いの欠片もない。かなり手慣れている。


「君はあくまでもこの小屋をひとつの目印にしたいようでしたが──案外手掛かりはあるものですよ。時には冒険もしてみると良いでしょう」

「言いたいことはわかるが、いきなり目の前で空き巣じみたことをされた身にもなってくれ」

「その点に関しましては驚かせたことを謝罪します。しかし鍵を破壊した訳ではありませんのでどうかご安心を。調査が終わりましたら施錠しておきますから」

「そういう問題じゃないだろ」


 見事に着眼点がずれている。此処まで来るといっそ清々しい。

 いつまでも扉の前にいるのも居心地が悪いので、ルスラーンは恐る恐る小屋の中へと足を踏み入れた。最近はあまり使われていないのかほこりっぽく、思わず軽く咳き込んでしまう。


「大丈夫ですか」


 アレルギーがあるなら口元を覆った方が良いかもしれませんね、とアンジェリカから無感動に心配される。形式だけの言葉なのか、はたまた本心から来るものなのか……暗がりでは判別し難い。

 今のところこれといったアレルギーはないはずなので、ルスラーンは問題ない、とだけ答えておく。呼吸を整えてから、懐中電灯を室内に巡らせる。


「……まさかこんなものを隠していたとはな」


 まず目に入ったのは長い間使われていないと思われる家具だが、それよりも先にアンジェリカが手を付けていたため、見るべきものを誤ることはなかった。

 壁と似た色合いのクローゼット。其処も施錠されていたのだろうが、既に開かれている。ルスラーンが目を離している隙に、アンジェリカが開けたのだろう。ちらりと南京錠が見えたが、彼女にかかれば容易く踏破出来る障害だったようだ。

 クローゼットの中には一目でそうとわかる祭壇が設えられていた。宗教に詳しい訳ではないルスラーンも、中央に掲げられた八端十字架やその近くに飾られた聖像イコンが何に使われるかわからない程無知ではない。恐らく正教徒と思わしき人が信仰を隠すため、家具の中に紛れ込ませたのだろうと想像するのは難しくなかった。


「ほんの数十年前まで、正教徒たちは弾圧される立場にありましたからね。政府に取り入ることも、抵抗することも難しい信徒の多くは西側陣営──北米や西欧諸国に亡命する道を選んだと聞いていますが、一部の信徒はアルマトに逃げ込んだのでしょう。交通網が十分に整備されていなかった時代において、この地を訪れることは容易ではなかったはず。それに険しい森の中に隠してしまえば、たとえ村の監察があったとしても見付かる可能性を軽減出来るかもしれませんからね。よく見られる手段ですから、特段驚くべきことではありませんが」

「だとしても、よく隠せてると思うぜ、これ。現に、俺はあの村に正教徒がいるなんて知らなかったからな」

「君の世代となると、冷戦時代を記録でしか知らないでしょうし、そもそも隠れて信仰を守っているという結論を導き出すことそのものが困難でしょう。君はとある時分までアルマトの外に出たことすらなかったようですし」


 そう言うと、アンジェリカはちらりと此方を盗み見た。彼女にしては珍しく、少し迷っているようにも見えたが──気のせいだったのだろうか、すぐに言葉を次いでいる。


「君は確か、自身の意思でアルマトを出たのですよね。リスクを冒してでもこの僻地を飛び出そうと決意し、そして達成した。──理由はどうあれ、その行動力を私は羨ましく思います」


 上目遣いに見上げるアンジェリカの表情は、感情を映してはいないものの柔らかかった。彼女はルスラーンを褒めている訳でも、責めている訳でもない。恐らく、素直に所感を述べただけなのだろう。

 妥当な評価だ、とルスラーンは思った。

 これはアンジェリカの個人的な意見であって、世間一般的にどうこうと言っているのではないのだ。世の中で語られている常識だとか善悪だとか、そういったもので論じられる程ルスラーンの行いは大それたものとは言えない。ただ単に、限界を感じただけなのだ。


「逃げ出しでもしなくちゃ、いずれ憂さ晴らしにでも殺されるかもしれない環境だったんだ。俺は聖人サマじゃないから、アルマトの連中の食い物になるなんて御免だった。だから逃げただけだよ」


 そっと聖像に目をやれば、其処には磔にされる救世主が描かれている。

 世のために犠牲となった救い主。その行いを純粋にすごい、と思うことはないでもないが、自分も同じようにあらなければ、というのは性に合わない。所詮ルスラーンは人並みの勇気と人並みの臆病さを持っただけの、少し不思議なモノに縁がある一般人に過ぎないのだから。


「別に俺は特別すごい人間じゃない。行動力があるってあんたは言うけど、行き倒れにならなかったのは怪異たちが逃げる俺を助けてくれたからだ。あいつらがいなかったら、俺は凍土の下で朽ちるだけだったと思う。偶然と幸運と、あとはちょっとした繋がりがあって俺は生きてるだけだよ。羨まれる程のことじゃない」


 何だかきまりが悪くて、ルスラーンはクローゼットを閉めた。仰々しい祭壇は隠され、もとの古びた家具に戻った。

 数秒間、その場には沈黙が垂れ込めた。柄にもないことを言ってしまった自覚のあるルスラーンとしてはなかなかに恥ずかしかったが、何と発言したら良いのかわからず黙りこくるしかなかった。


「──少し、安心しました」


 その沈黙を、アンジェリカはいとも容易く破ってしまう。悪びれることなく、むしろすっきりとした眼差しでルスラーンを見上げてくる。


「ルスラーン君。私が君に、真偽はともかくしっかりとした名前を教えた理由、わかりますか」


 お馴染みの唐突な質問である。しかも難易度は高めだ。

 見当もつかない、と言って肩を竦めて見せれば、アンジェリカはポーカーフェイスを崩さぬままそうですか、と返答する。ルスラーンが答えられないことを見越していたのだろうか、味気ない反応だった。


「どうせ此処には人間も怪異も私たち二人以外いませんから、正解を教えてあげます。それは君が私の友人に少し似ていたからですよ」

「友人? あんたの?」

「意外でしたか? 私にも親しい人間はいるのですよ。あちらはどう思っているか知りませんが、私にとってはたしかに友人でした。その認識はこの先何があろうと変わりません」


 南京錠を元通りに施錠してから、アンジェリカは続ける。


「彼もまた行動的な人でした。ですが君よりも勇ましく、それゆえに無茶をするきらいがありました。案の定彼は若くして亡くなり、見方によっては刹那的とも言える生き方のせいで穏やかな最期ではありませんでした。当然私は彼の死に目に会えませんでしたし、後から業務連絡のように訃報を聞かされて何とも言えない気分になりました。普通に不快でした」

「……俺が、その友人みたいな最期を迎える可能性が少ない──そう言いたいのか、シェールィ」

「別に君と彼を重ねている訳ではありませんよ。似ている、と直感的に思ったのは後ろ姿でしたから。彼も綺麗な金髪で、空港で君を見た瞬間つい思い出してしまったのです。──まあ、君のことは事前に知っていましたから、運命の巡り合わせと言うのはあまりにもこじつけが過ぎますけどね。そもそも私、運命という言葉があまり好きではありません。何でも都合良く解釈するための便利な言葉じゃないですか」


 何にせよ、とアンジェリカは話を戻す。やはりその口振りには抑揚がなく、淡白な印象を与える。


「私は君を信用したいと思ったのです。それゆえに名前を教えました。君が無茶をせず、危険を感じたら逃げることを視野に置ける人間ということがわかって──改めて安心すると共に、不満を覚えずにはいられませんでした。君は私の羨ましいという所感を否定しようとしたのですから」

「それは……たしかに、よくよく考えてみたら悪いことをしたとは思うけどさ。何であんたが其処まで話す流れになるんだよ? 普通に注意するだけで良いような気もするが」

「私が良いな、と思ったものを、君自らが否定したのですよ。一言言わなければ気が済みません。それだけ、私は君を評価しているのです。謙虚なのは悪いことではありませんが、己を卑下するのは控えなさい。私は君の用心深さや咄嗟の判断力、思いきった自己保身を良いと受け取ったのですから」


 わかりましたね、と念を押されて、ルスラーンは思わずうなずいた。見えない圧力に屈したような気がしてならなかった。

 要するに、今しがた自分は説教を受けたらしい。アンジェリカの真意を全て読み取り噛み砕くことは出来なかったが、この調査員は細かなところ──ルスラーンがつい卑下してしまうような、彼の中では後ろめたく思うような部分まで評価してくれているようだ。何故、という疑問がないと言えば嘘になるが、褒められているのなら悪い気はしない。


「この小屋はあくまでも経由地だったのでしょう、ルスラーン君。君はもっと別の場所に目星を付けていた──そうですね?」


 いつの間にか横に並んだアンジェリカが、幾分か声を落として問いかける。問いと言うには核心を突きすぎている気がしないでもない。

 案の定図星だったルスラーンは、ああ、と答えて用心深く扉を開ける。懐中電灯で照らさなければ周囲がわからない程の闇に、己の声だけが反響する。


「この先に仕置き小屋がある。村人でも一部の連中しか入れなかった場所だ……其処に何か隠してあるかもしれない」


 ざり、と一歩を踏み出せば、冷たい空気がルスラーンの頬を軽く刺した。それは、決して外界の気温のみが由来する冷気ではなかった。

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