6


「見捨てられている──か」


 帰り道、自分たち以外に人気のないのを良いことに、ルスラーンはぽつりと呟いた。

 クジマはそれ以上を語らなかった。露骨に嫌そうな顔をしてしっしと手を払われた二人は、まだ怯えているのかしきりに謝罪してくるタマラをいなして彼女の家を後にした。


「気になりますか」


 動物や鳥の声さえまともに聞こえない道中だ。ルスラーンの呟きは否応なしに聞こえたらしく、アンジェリカが視線を寄越してくる。先程までは幾分か表情豊かだったが、今となっては何を考えているのかさっぱりわからない。


「……まあ、それなりにはな。あとは自分が思った以上に無知だったってわかって少し落ち込んでる」

「致し方ありません。君は共同体のいちばん外側にいたのですから。ただでさえ閉鎖的な社会の中で迫害されていたとなれば、情報共有が滞るのも道理。むしろ積極的に関わろうとするだけ偉いものです」

「あんたは……同じ状況に置かれたら関わらないのか?」


 どうでしょう、とアンジェリカはうそぶいた。


「もしもを語ればきりがありません。どう足掻こうと、我々に過去は変えられない──変えるべきではないのです」

「……そうかな。結果、悲惨な事態に陥ったとしても、現在いまを受容しなければならないのか?」


 言い争うつもりはなかったが、ふと杓子定規な物言いをする少女に従ってばかりいることに対してルスラーンは癪に感じた。アルマトに抱くそれよりは控えめだが、それでも反骨心を持ったことに変わりはなかった。

 アンジェリカは一瞬目をすがめた。反論されるとは考えていなかったようだ。しかし驚きをいつまでも保つことはなく、すぐにポーカーフェイスに戻って言う。


「私は時空の調停者ではありませんので、確実性のあることは言えません。しかし、敢えて答えるとすれば是でしょう」

「ちょっと待て、時空の調停者って何だよ」

「それは企業秘密です。何はともあれ、我々が生きるのは現在でしかありません。それは過去を生きた者たちも同じこと。それゆえに、我々は過去を振り返ることはあれど干渉することはありません。不可能であれと戒められているのです。過ぎたことはどうにもなりません。過去とは、その時を生きた者たちの尊き選択の集合体なのです。あれこれと論じるなとは言いませんが、過去の事象に対してああすれば良かった、昔の人は愚かしい、などと口さがなく言い立てるのはやめた方が良いでしょう。過去のことはその時が『今』だった人間にしか触れられません。全て知り尽くした今の我々が、過ぎ去った過去を、その当時の人々が何もわからない中、時には迷いながら選んだ現在いまを我が物顔で批判すること──それそのものが醜くおぞましい」


 アンジェリカの言葉尻は相変わらず平坦で凪いでいたが、その眼差しは異様に強い輝きを秘めているように見えた。

 平生はその真っ黒な瞳に光がともることはない。不気味な程の黒──闇と形容してもあながち間違っていないような、少なくとも年端もゆかぬ少女が持つことはほとんどないだろう瞳。彼女がどれだけの修羅場を潜ってきたのか、ルスラーンにはとんとわからないが、きっと並々ならぬ壮絶な人生を送ってきたのだろうと察することは出来た。

 言いたいことがなくなった訳ではなかったが、怒り──いや、もっと複雑な感情だろう──に打ち震えるアンジェリカを前にしては、自分の意見などちっぽけなものに思えて仕方がない。ルスラーンはふうっ、とため息を吐いて前を向いた。


「とりあえず、俺たちはアルマトをどうにかしなければならない。クジマの爺さんが言うには、アルマトはとっくの昔に見捨てられている──くそ、あのじじいけてないならもっと具体的に説明してくれよ。ただでさえ与えられる情報量に差があったんだから」

「気持ちはわかりますが、不満をぶつけるだけでは何も解決しません。それにルスラーン君、君には頼りになる仲間がいるじゃないですか。困っている時は、その力を借りれば良いのですよ」

「頼りになる仲間……?」


 アンジェリカの瞳はもとに戻っている。どうやら先程の激情は特定の誰かに向けられていたものではないようだ。

 頼りになる仲間。ルスラーンは、かけられた言葉を脳内で反芻はんすうする。

 かつて自身をのけ者にし、今では化け物か何かのように見ているアルマトの住民は間違いなく外れるだろう。タラスのこともいまいち信用出来ない。となれば真っ先に候補とすべきはアンジェリカなのだろうが、彼女が其処まで自信満々に己を『頼りになる仲間』と呼称するかと問われれば即答は出来ない──いや、頼りにはなるのだが、これはあくまでもアンジェリカの性格的な問題だ。彼女の能力を否定する訳ではない。


(……セラみたいな怪異の力を借りろってことか?)


 最終的に行き着いたのは、物心ついた頃から慣れ親しんできた怪異であった。

 怪異とは気紛れで、人間の常識に囚われないものが多い。しかし中には心からの善意で付き合ってくれるものもいる。セラはその筆頭で、ただルスラーンが帰ってくるというだけでわざわざ人里にやって来て、家の掃除もしてくれていた。自宅の状態から考えるに、ルスラーンがアルマトを出てからも定期的に整備していたのだろう。ありがたいことだが、セラはにこにこしたまま友達だから当たり前、と言うのみ。セラは見返りなど必要としていないのだ。

 きっとセラは協力を惜しまないだろう。ルスラーンのことを純粋に友人として慕う、あの柔らかく温かな怪異なら。

 しかし、だからこそ躊躇いが生まれる。一体何が起こっているのかすらはっきりとしていないのに、セラを巻き込んで良いものか──と。

 セラは大切な友達だ。正直に言えば、アルマトの人々よりもセラの安全を優先したい。ルスラーンを傷付けるどころか助けてくれるセラを危険に晒すかもしれない、そう考えるだけで罪悪感がルスラーンの胸をじわじわと締め付ける。


(相談するなら、信用出来るセラが一番だが……いざ行動に移すなら、セラは外した方が良い。もしも知られたというだけでセラに危害を加えるような存在が相手なら、致し方ないが俺とシェールィで調査を進めるのが得策か……)


 考えれば考える程、思考のまとまりが散っていくような心地だ。ルスラーンは何度もため息を飲み込んだ。

 そうこうしているうちに、二人はヤスクノフ家の前にたどり着いていた。考え事をしていると、距離感も曖昧になるのだろうか。


「……ただいま」


 セラがいると思い、ルスラーンはそう呟きつつ扉を開ける。寂しがり屋なセラのことだ、すぐに腰の辺りに抱き付いて──。


「お帰りなさい、ルーシャ?」

「──わぷっ」


 抱き付いてくるだろう──とルスラーンは予想していたのだが、予測していない位置に何かが飛び付いてきた。正確に言えば、両の腕で抱き締められたのだ。

 すべらかで柔らかい感触は人間の肌のそれに近い。しかし生者らしい温かみはなく、ひんやりと冷たい肌だった。


「ルスラーン君、此方は? 女性……のようですが」


 半歩後ろでアンジェリカが怪訝そうに問いかけてくる。顔は見えないが、じっとりと白眼視されているのだろう──とルスラーンは想像した。

 突然飛び付いてきた相手は、うふふ、と嬉しそうに笑い声を上げてからルスラーンを解放した。ほとんど同じ目線に、朗らかな笑顔が映る。


「あらあら、ルーシャのお友達? 可愛い女の子。アルマトの子ではなさそうね? もしかして、私のことはまだ紹介されていないのかしら」

「はい。……ですよねルスラーン君」


 振り返って見てみれば、やはりアンジェリカは此方を白眼視していた。事前報告くらいしておいてくださいよ、と訴えられているような気がして、ルスラーンは面倒なことになった、と内心後悔した。

 ルスラーンを出迎えたのは、緑色の髪の毛を弛く結わえた妙齢の女性だ。おっとりとした雰囲気を感じさせるたれ目と、柔らかそうな厚い唇、めりはりのある豊満な体つきが特徴的な美女である。まだ寒さが残る季節だというのに、ノースリーブの白いワンピースを身に付けていた。


「……こいつはそう遠くない川に住んでいるルサールカ──平たく言えば水妖だ。名前を付けたら取り憑かれてろくなことにならないから、ルサールカとだけ呼んでやってくれ」

「私は名前をもらえたら嬉しいわ。でもルーシャ、頑固なんですもの。私のことが好きになったら、いつでも名前をちょうだいね。私、人間は結構好きなの」


 ルスラーンの腕に己のそれを絡めながら、ルサールカはにっこり微笑んだ。柔和で穏やかな笑みだが、何処かぞっとするような凄みがある。

 しかしアンジェリカはそうですか、と至って冷静に返答した。視線のみを押し上げて、女性にしては背の高いルサールカを見上げる。


「私はとある一件を調査すべく派遣された者です。ルスラーン君には、道中で助けてもらいました。それから色々あって、調査を手伝ってもらっています。シェールィと呼んでください」

「シェールィちゃんね。それはルーシャからもらったあだ名? 可愛い響きね~」

「至極単純な命名ではありますがね。しかしその単純シンプルな響きは割と気に入っています」

「あらあら、自慢をされてしまったわ。北の方のルサールカなら、羨ましくて危害を加えるところでしょうけれど──私、伝承としては南の方のものを採用されているの。だから何もしないわ、安心してね?」


 ただでさえ嫉妬やら何やらの話が多い女性型の怪異に面と向かってマウントをとるとは──こいつ本当に命知らずだな、とルスラーンは外野ながら冷や汗をかいた。冷静沈着なように見えて、アンジェリカは案外負けず嫌いなのかもしれない。

 居たたまれなくてそっと視線をずらすと、遠慮がちに此方の様子を窺っているセラの姿が見えた。ルサールカに何かされた訳ではなさそうだ。


「大丈夫よ、ルーシャ。森や川の精霊たちは今も皆仲良しよ。気難しい夫も、あなたのところに行くんだって伝えたら羨ましそうにしていたわ。彼は出不精だから、あなたから会いにでも行かない限り顔を出してはくれないだろうけど」


 ルサールカはいとも容易く他者の心を読む。そういう能力があるのか、はたまた彼女個人の特技なのかはわからない。今のところわかるのは、彼女は気紛れで自由気ままではあるもののルスラーンに対して嘘を吐くことはほとんどないということだけだった。


「配偶者がいるのですか。それはもしやヴォジャノーイ?」


 さっさと移動して、手伝ってくれるセラといっしょに食事の支度をしていたアンジェリカが顔だけを此方に向けたまま問いかける。手元を見ずに作業が出来るとは、器用なものだ。

 ルサールカは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを戻してええ、とうなずいた。


「そうよ、水晶宮殿の主にして、人間嫌いのヴォジャノーイ。でもルーシャのことは大好きなの。きっと人間にいじめられているからね。敵の敵は味方っていうでしょう? あれって本当だったのね~。人間は敵と見なしたものを遅かれ早かれ排除したがる生き物だと思っていたけれど、誰もが同じ性質って訳ではないみたいで面白いわ。だから私は、本当につまらない子じゃなければ大抵の人間は好きよ」

「そうですか。ところで、森や川にはあなたやヴォジャノーイ以外の精霊もいらっしゃるそうですが、具体的にはどのような方々なのですか?」

「あら、他の子たちに興味があるの? 最近は人間が遊びに来ることもめっきりなくなっちゃったから、お喋り出来るのは嬉しいわ。という訳で、お隣失礼するわね~」


 どことなくのんびり間延びした口調とは対照的な、隙のない動きでルサールカはアンジェリカの隣──右側にセラがいたので左側だ──を獲得した。そのまま彼女は腕を絡めようとしたが、アンジェリカはするりと流れるような動作で回避する。

 まあうぶなのね、とくすくす笑うルサールカ。怒っている訳ではなく、単純にアンジェリカを可愛らしいと思っているのだろう。

 人間のような姿をしているが、ルサールカは怪異。水辺の精霊である。彼女に人間の常識はほとんど通じない。人懐っこく見えるが、心を許せば水中に引きずり込むような恐ろしい存在だ。穏やかで人間好きだからといって、用心するに越したことはない。

 仕事柄、その辺りはよく理解しているのか、アンジェリカは顔色ひとつ変えなかった。肯定もしなければ反論もしない。程よい距離感を保っている。物理的にはバカップルの距離感だが。


「よく目立つ子だと、やっぱりレーシーとかヌチニーク、シショークに、ゴールヌィ辺りかしら。レーシーは悪戯いたずらを仕掛けられる相手がいなくて退屈だって言っていたわ。コシチェイおじさまも、若い女の子なんて此処五十年見とらん、なんて愚痴ってたし……。ルーシャのお友達のあなた、細身の男性はお好き? 良ければ仲人になってあげるわ、面白そう」

「外見年齢が離れすぎている方は守備範囲外です。加えてほぼ不死身なのを良いことに好き勝手やるようなお調子者はどう足掻いても好きになれる気がしません」

「はっきりものを言うのね~。すっきりしちゃうわ、うふふ」


 コシチェイ本人──人ではないが──が聞いていたらただでは済まなそうな発言だが、ルサールカは楽しげに笑うだけだった。この後アンジェリカがとんでもない失言をしてルサールカに嫌われでもしない限り、彼女がコシチェイに告げ口することはないだろう。ルサールカは殺し方が難解でほぼ不死身、若い女性を襲う醜い老人の怪異よりも、目の前の人間たちの方が好みなのだ。

 女性ではないためコシチェイに会ったことはないが、その他に挙げられた三つの怪異と同様にルスラーンもよく知っている。

 森の王とも呼ばれる、タイガの支配者であるレーシー。光る体を持つ夜の精、ヌチニーク。沼に棲む悪魔、シショーク。人に好意的な山の主、ゴールヌィ。

 彼らは民間信仰の中に息づく存在だ。宗教と呼ぶにはあまりにもお粗末な、小さな神格。しかし、彼らは時に人間を脅かし、助け、生活の中に割り込んでくる。無視したくとも、余程の現実主義者か強い意思の持ち主でもなければ無視出来ないであろう、強烈な存在感を持つ怪異たち。

 そんな彼らは、人里から離れた場所に棲んでいる。ルサールカもそうだ。水辺に現れる水妖の彼女──彼女たちと形容するのが妥当か──は、夏は森や空き地、冬は川にいるという。こうしてルスラーンの家にやって来れるのは、彼女にとって今が夏季にあたるからなのだろう。一見自由奔放に見える怪異たちにも、彼らなりの制約があるのだ。


「それにしても、ルーシャが帰ってくるなんてね~。いつか身辺整理に来てくれるかしら、なんて皆と話していたものだけれど、まさか本人が帰省するとは予想外だったわ。勿論嬉しいけれど、びっくりしちゃった」


 アンジェリカの頭を優しく撫でながら、ルサールカは感慨深そうに言った。背の高い彼女は頭ひとつ分小さな調査員が可愛くて仕方ないようだ。撫でられている側は無表情だが、納得出来ない──とでも言いたげに口を引き結んでいる。


「そうかな。たしかにアルマトは好きになれる気がしないけど、知り合い連中がある程度くたばった頃合いにでも家の片付けはしようと思ってたよ」

「それじゃあ数十年は必要じゃない。私たちも初めはね、それくらいかかると思っていたのよ。だから寂しがり屋のセラなんて、ずうっとしょんぼりしていたの」

「……そうだったのか、セラ?」


 ルスラーンは伊達に怪異たちと付き合っていない。そのため、セラが寂しがることは予想出来ていた。申し訳ないとも思った。

 しかし、それだけアルマトで暮らすことに苦痛を感じていたのだ。当時のルスラーンは、アルマトを飛び出すことばかり考えていた。

 セラはこくりとうなずいて、ぽてぽてとルスラーンの方へ歩いてきた。その姿がいじらしくて、反射的に手を伸ばして抱き上げる。ルサールカとは違い、セラはいつでもほんのり温かい。


「セラは偉い子よ。我慢が出来るもの。私たちは楽しいことが好きだから、あなたのお手伝いをしている間は満ち足りているけれど、その後はつまらなくて仕方ない。ルーシャがいなくなってから、何か新しい楽しみがあるかと少しは期待していたのだけれど……駄目だったわ、本当に。この村、民度は勿論のことだけど、全体的に終わっているんですもの」


 物憂げに嘆息するルサールカは、息を飲む程美しい。絵画にでもなりそうな光景だ。


「誰も森に来ないってことはないんだろ? クジマの爺さんとか、狩りをする奴を構えば良いんじゃないか。暇潰しにはなるかもしれないぜ」

「もう、ルーシャ、意地悪言わないで。私たちはあなた以外、アルマトの民に興味はないのよ? あなたをいじめていた人たちと、何を楽しめば良いのかしら」

「何をって、あんたは気に入った人を水に引き込むのが本業だろ。それか旦那の邪魔をしそうな人間にちょっかいかけるとか」

「その気に入った人がいないのよ~。あなたが出ていってから、あの森は随分寂れちゃった。レーシーやレソヴィークは、最近臭い臭いって言ってたけど……。まあ、誰かが森の中に十字のお墓を建てでもしたんでしょうね。彼らは唯一の神様のこと、あまり好きじゃないみたいだし……。でも不思議ね、昔はそんなに気にしてなかったのに、あなたがいなくなってからは皆退屈しちゃって。ちょっとしたことにも敏感になっているのかもしれないわね」


 私も結構寂しいのよ、とルサールカは上目遣いにルスラーンを見た。蠱惑的こわくてきな眼差しだったが、幼い頃から慣れ親しんだものなのではいはい、と流しておいた。

 アルマトはつまらない、と怪異たちは口を揃えて言う。昔からそうだ。

 彼らは基本的に、自分たちの領域に入ってきた人間を接触の対象とする。つまり、村に閉じこもりがちなアルマトの住民とは気質が合わないのだ。

 中には自ら人里に出向く怪異もいるらしいが、前提として彼らはアルマトの住民に興味がないため、わざわざ住処を出る程のことではないという。日常的に怪異を目にすることが出来るルスラーンがいる時は彼らもこぞってアルマトにやって来たが、それ以降はお察しの通り。つまらなくなってしまったのだ、アルマトは。


「そもそもね、アルマトの人たちは心の底から私たちを信じている訳ではないのよ。だから森の中ならともかく、アルマトに来たところで私たちを認識出来るのはルーシャかシェールィちゃんだけ。ドモヴォーイたちも、どうしてかわからないけどずっと前から姿を見せていないわ。そもそも彼らと交流しようとする人がいないから何処かに行ってしまったのか、はたまた別の理由かは知らないけれど──でも、彼らがいなくなるなんて普通じゃない。私にもわかることだわ」

「俺たちがアルマトを去ったらどうするんだ? また退屈になるけど、引き留めようとか思わないのか?」

「まさか! 私たちは自由な精霊よ。楽しい人と楽しい場所があって初めて、心からあなたたちと遊べるの。いくらあなたたちが面白くても、アルマトがつまらないなら意味がないわ。──あ、でも私たちの川だとか森にいるっていうのなら大歓迎よ~? ついでに異臭のもとも取っ払ってくれたら嬉しいわ。十字架とか、聖なるものはあまり触りたくないの」


 異変とやらが早く解決すると良いわね~、とルサールカは呑気に言った。

 彼女をはじめとした怪異は、余程興味のある相手でもなければ人間の世界に干渉しようとはしない。かつてルスラーンを気に入ってあれこれ話をしてくれたレーシーは、贔屓ひいきにしていた戦役に参加したこともあるそうだが、今ではそんなこと考えられない、と言っていた。人間を嫌っているから傷付けるということはなく、本当に興味がなければ無関心を貫く生き物なのだ、この地の怪異は。


「ああ、でもねルーシャ。多分セラは外に出しても大丈夫だと思うわよ~。その子はほら、信仰とか関係なしに流れてきたのだもの。きっとドモヴォーイみたいに、お家だとか血族にくっついていく怪異なのよ。あんまり寂しかったらいっしょに街へ行くのも良いかもしれないわね~」


 つん、とセラをつついてからルサールカは立ち上がった。セラは戸惑っているのか、ルスラーンの腕の中でおろおろとする。


『 ルサールカ、セラは、もりもかわもすきだよお 』

「知ってるわ。でも、それ以上にあなたはルーシャが好き。あの時、ルーシャが逃げるお手伝いをしようって言い出したのはあなた。セラはアルマトの怪異じゃなくて、ルーシャにくっついている怪異なのよ。このままアルマトにいても、あなたはいずれ消えてしまうわ」

『 それは、そうかもしれないけど 』

「優しい子。セラもルーシャも、其処で気配を消してパンをかじろうとしているシェールィちゃんも。私、優しい子は好きよ。だから今回は特別、いっぱい助言しちゃったわ。でもそろそろヴォジャノーイがいらいらする頃合いだし、お喋りはおしまいにしましょう。まだまだ冷え込むし、ずっと陸にいるのは辛いもの」


 軽やかな足取りで、ルサールカは扉の前へ立った──が、何を思ったか、一度だけ振り返ってルスラーンを見た。


「そうだわ、ルーシャ。ひとつだけ聞きたいことがあったの」

「何だよ」

「その服、とっても可愛いわね。ルーシャの趣味? それとも、別の理由があって着ているのかしら。女の子の服を着ている男の子、アルマトでは見ないけど……街で流行っているの?」


 首をかしげたルサールカに、厳密には二つの質問じゃないか、と突っ込むのは野暮というものだ。ルスラーンはああ、と顔色を変えずに答える。


「俺の趣味だよ。もともとは人形に興味があったんだが、高くて買えなくてな。自分で着ても良いんじゃないかと思い付いて、こういう格好をするようになったんだ。……似合ってるか?」

「ええ、とても。素敵よ、ルーシャ」


 そう言って、にこりと微笑み。次の瞬間には、ルサールカの姿は忽然と消えていた。

 手があるのに扉は開かないのか、とぼんやり考える。怪異とは、訳のわからないことばかりだ。


「ルスラーン君」


 何かを口に含んだままのくぐもった声で呼び掛けられる。ルサールカに言われるまで気付かなかったが、空腹に耐えられず勝手にパンを取り出して食べ始めた者がいたようだ。


「……シェールィ。汁物用意する余裕もなかったのか」

「食欲と睡魔にはどう足掻いても屈するものですよ。それよりも聞きましたね」

「聞いたって……セラを連れ出せるってことか?」


 ルスラーンとしては、友達であるセラが拒まない限り外に連れ出す方針でいる。このままアルマトに置いていって、人知れず消えてしまうのは可哀想だ。

 しかしルスラーンの考えていたことはアンジェリカのそれと異なっていたらしく、彼女はむっと眉を寄せる。リスのように膨らんだ頬をもとに戻してから、彼女は口を開いた。


「違います。森にある臭いものについてです。あれはルサールカからのヒントですよ。彼女は異変を調査する我々に助言してくれたのです」

「それって十字架とか、正教会か何かの墓標なんじゃないのか? アルマトの連中が作ったのなら意外だけど」

「彼らは普段、どのような埋葬をしているのですか?」

「基本的には土葬だな。でも一般的なキリスト教のそれとは少し違う。各家庭によるが、手足を縛ったり、逆さまにしたり……。とにかく外に出てこられないようにするんだ。墓標は作らないで、森の奥に棺を埋める」


 故人を悼む文化がなかった訳ではないが、村人たちは死に触れることをいとう。そのため、埋葬作業のほとんどは『邪視の子』であるルスラーンが執り行っていた。死に近しいルスラーンなら、死に狂わされない。──というか、死んでも良いと思われていたのだろう。夏場はすぐに遺体が腐る、真冬はとにかく寒くて道連れにされそうな気分だったため、ルスラーンとしては過酷な重労働であった。もう二度とやりたくない。

 話しても気分が良くなるものではないため、作業の愚痴はぐっと飲み込んだ。アンジェリカはなるほど、とパンを咀嚼そしゃくしながら相槌を打つ。


「それなら、森はアルマトの人々にとって墓場のような存在なのですね。加えて怪異も出る、と……。黒の可能性、高いですよ」

「気になるなら明日調べに行くか? タラスなら地図を持ってるはずだ」

「いえ、今夜行きましょう」


 ごくん、とアンジェリカは口内のものを飲み下した。淡白な答えだったが、彼女の口振りは何処か決然としていた。


「今夜? 本気かよシェールィ、夜の森なんて素人で歩くものじゃないぞ。遭難したらどうするんだよ」

「其処はほら、怪異たちを頼れば良いでしょう。セラさんから、事前に森の怪異たちへ我々が調査に訪れることを知らせていただければ、もしものことがあってもすくい上げてもらえるかもしれません。怪異たちは君を好意的に思っているでしょうから、きっと安全に送り届けてくれます」

「あのなあ……いくらルサールカが助言をくれたからって、全面的にあいつらを信用するのは得策じゃない。あいつらは俺たちを慈しみながら殺すかもしれないんだ。危険な存在なんだよ。皆が皆、セラみたいに害のない怪異って訳じゃない」

「それでも、アルマトの方々よりは信用出来ます」


 言い返せなかった。たしかに、アルマトの人間よりは協力的だろう。

 決まりですね、とアンジェリカが口角を持ち上げる。微笑みと言うには首をかしげたくなる、例の表情だ。


「皆が寝静まった頃合いを見計らって出発しましょう。セラさんは先んじて森へ向かっていただけますか」

『 うん、わかった。やってみる 』

「……シェールィ、いくら何でも無謀過ぎる。行くけれども」


 一言だけでも言い返してやろう、と苦言を呈してみたものの、アンジェリカは眉ひとつ動かさなかった。文句は帰宅後にどうぞ、と素っ気なく言われて、ルスラーンは独り肩を落とした。

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