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 五月と言えど、シベリアにとっての春は一般的なそれと比べると寒冷だ。また日照時間も短いために、暖炉ペチカの火は夏になるまで消えることはない。

 村長の家の暖炉はとりわけ大きく立派なもので、室内はじんわりとした暖かさに満たされていた。これなら冬も安心して越せるだろう──とお粗末な暖炉しか持ち得なかったルスラーンは思う。都会暮らしになってからはヒーターやストーブのお世話になることが多く、それゆえに暖炉の暖かみは懐かしく感じられた。

 しかしその場に垂れ込める空気は重い。ルスラーンは発言しづらい雰囲気に口をつぐみ、タラスは瞳を憂いに陰らせている。


「此方が危篤の村長ですか。たしかに見たところほぼ死人ですが、まだ辛うじて生きていらっしゃるようですね」


 そんな中で淡々と動き回るアンジェリカは、寝台に臥せている村長を粗方観察し終えてから不謹慎な発言を投げ込んだ。


「そうだね……父が意識を失ってこの状態になってから、実に二年が経過している。やはり異常としか言い様がないよ」


 声を荒らげない辺り、タラスは大人である。見慣れない服装をした人間を見ただけで魔女だと指差してきた村人よりはましといったところか。

 現在、ルスラーンとアンジェリカは村長宅にお邪魔している。アルマトを襲う異変──死者が数年間出ていないという問題に際し、まずは二人に対して友好的なタラスのもとで調査を行うことに決まったのだ。

 まだ年若いタラスが村長代理という大役を担う理由。それは村長である彼の父が二年前から意識不明の重体──いわば危篤状態に陥っているがゆえだ。

 今にも死に至りそうな状態が二年も続くという異常が村の指導者を襲ったのだから、アルマトが殺気立つのもわからない話ではない。他の村人にも同じような症状が表れているというから尚更混乱を招いたことだろう。


「他の村人の中にも、同様の症状に見舞われている方がいらっしゃるそうですね。彼らとの間に共通点はないのでしょうか」


 持参したアルコール性ウェットティッシュで両手を消毒しつつ、アンジェリカは尋ねる。彼女は医術の心得はないと言っていたが、脈の取り方や瞳孔の確認は驚く程手際が良かった。白衣でも着ていれば様になっていたのではないだろうか。


「いや……アルマトの住人ということ以外に、規則性は見られなかったな。まあ、アルマトは高齢者が多いから、寿命が近い者と考えても良さそうだけど……。中には父のような……四十代や五十代の方もいるんだ、まだ決め付けるには早いと思う」

「アルマトの平均寿命は七十歳前後でしたね。誰もが平均寿命ぴったりという訳ではないのでしょうが、病の兆候らしきものもないのであれば感染症の可能性も低いでしょうし……。やはり超自然的な存在が絡んでいると見るのが妥当かもしれません。あなたが現実主義者リアリストであった場合、すぐに受け入れることは難しいと思いますが」


 話によればルスラーンが里帰りする前、タラスによって簡単な調査は行われたらしい。しかし該当者の共通点はほとんど見受けられず、既出の感染症や病気と思われる事例も確認出来なかったという。該当者は其処まで多い訳ではないそうだが、現在二十人程が危篤状態のまま意識を失っているそうだ。

 人並みかそれ以下の知識しか持ち合わせていないルスラーンとしては、自分がこの場にいる意味が見いだせない。早いところ医者にでも連れていけよ、というのが本音だが、アルマトの住人の気質からして自発的に村を出ることはないだろう。その結果、数年もこの異常事態をずるずると引きずっている。

 ルスラーンはちらりと横たわる村長の顔を見た。老年期に差し掛かろうとしている彼の顔は青白く血の気が失せている。だが心臓は動いているし脈もある。体毛や爪も日に日に伸びる。彼の生命活動はまだ続いている。


(それに……あの青ざめた奴ら、死神は何処にもいない)


 死者や死期の迫った者の側に立つ、青ざめた顔をした死神。必ずと言って良い程目にしてきたその姿は何処にも見当たらない。いや──そもそも、村長宅には怪異ひとつ見受けられなかった。

 これにはルスラーンも違和感を覚えずにはいられない。アルマトで自宅以外の民家に立ち入ったのはこれが初めてなので基準は定めかねるが、少なくともウラジオストクには少なかったが怪異がいた。精霊の類いはほとんど見られなかったが、死神らしきものは時々目にすることが出来たし、時には何かしらの未練を残した幽霊らしき存在もいた。近代化の進んだ都会も、怪異と無関係ではいられないのだ。

 後でこの違和感をアンジェリカに伝えよう。そう考えていた矢先、不意に彼女と目が合った。底知れぬ闇を秘めた真っ黒な目は、相手が生きた人間だとわかっていてもつい目を逸らしてしまう。


「ところで、ラジモフさん。あなたは昨日、ドモヴォーイについて話をしていましたね」


 唐突な話題の切り替えに、タラスは少なからず困惑したようだった。ええと、と少しの間思案する素振りを見せる。


「たしかに、そういうことを言った記憶はあるけれど……。それがどうかしたのかな?」

「いえ、深刻な話ではありませんので肩の力を抜いていただければ」

「はあ……」


 とても肩の力を抜けるような雰囲気ではない。アンジェリカが相変わらずのポーカーフェイスなのは勿論、すぐ近くには危篤の村長がいるのだ。安心とは程遠い環境であろう。

 しかしアンジェリカ本人は気にした様子もなく、タラスの態度が変わらずとも口を開いていた。


「ドモヴォーイというのは、スラブ人の家に存在すると言われている精霊を指します。スコットランドに伝わるブラウニーやイングランドのボガートと類似した存在と言えるでしょう。彼らは家族を守るものとされていますが、時に家族にとって害をもたらす存在にもなり得ます。礼儀を欠くことは一先ず置いておいて、問題とされるのはその姿を見たり、直接的な呼び方をしたりすることです」

「直接的な……?」

「ドモヴォーイをそのままドモヴォーイと呼称することです。ドモヴォーイについて話す際、家人はあの人、だとか、おじいさん、などといった遠回しな呼び方をします。でなければ不幸になるかもしれないのですからね。しかしラジモフさん、あなたはドモヴォーイをそのまま呼びました。私のようなスラブ人でない人間ならともかく、ドモヴォーイが住んでいるかもしれない環境で彼らのことをそのまま呼ぶとは危険ではありませんか」


 じ、とアンジェリカは相手を見つめる。


「アルマトは非常にスラブ人──とりわけ古典的な共同体コミュニティーだと私は感じています。シベリアの中には独自の信仰を持たれる遊牧民やシャーマニズムを信じる方もいらっしゃいますが、アルマトはキリスト教布教以前のスラブ神話を礎とした民間信仰の色合いが特に強い。皆さんのご自宅の建築様式もそうですし、何より教会やそれに準じた墓地が見当たらない。民族学的な視点から見て大変興味深いところだと思います」

「俺にとっては昔から慣れ親しんだものだから、特別な感じはあまりないが……まあ、都会からいらっしゃったあなたには独特な土地に見えるだろう。俺も大学に進学してから、外の世界に触れて文化的衝撃を受けたものだよ」

「ええ、良い意味で不思議な土地だと考えられます。アルマトが外部との接触を図らないのは、この独特の文化が影響しているのでしょうか。この異変が生じずとも、あなた方が頑なに閉じ籠っている限りアルマトは遠からず消滅しそうなものですが」


 アンジェリカの表情は変わらず、また敬語が外れることもなかったが、その言葉尻には確かな棘がある。お前たちがこの村に引き込もっている理由はアルマト独自の信仰によるものか──彼女はそういった旨を問いたいのだろう。

 露骨に嫌な顔をすることはなかったが、多かれ少なかれ不快に感じたのかタラスは眉間に皺を寄せた。端正な顔立ちが歪むことはないものの、その眼差しの奥には非難の色が浮かんでいる。


「……たしかに、あなたから見ればアルマトは保守的で生産性がない村だろう。だが、いきなり近代化したところでどうにもならないことは目に見えている。住人のほとんどは高齢者だし、町へ行くにも車で数時間かかるような場所だ。タクシーを呼べば不可能じゃないけれど、辺鄙な土地柄だからそれも難しい。それに、何より村人が近代化を望んじゃいないんだ。どれだけ非効率的であっても、民意を重んじるのがアルマトのやり方だ──村長が倒れている今は、尚更突飛な行動なんて出来ない」

「お待ちください。私はアルマトを近代的に開発しろ──とまでは言っていません。住人の皆さんが望まないなら、田舎のままだって良いんです」


 僅かに語気を強めたタラスに怯むことなく、外から来た少女は幾分か諭すような口振りで続ける。


「私が言いたいのは、今回の異変に関して打開策として外部との連携を図れないかということです。いくら前例がないと言えど、放置しておくのは無策と言う他ありません。まさかサンドリヨンが異変に気付き、私を送り込むまで──数年間、何もしなかった訳ではありませんよね?」


 アンジェリカの言葉には隠しきれない圧力がかけられている。彼女と出会ってそう時間の経っていないルスラーンにも、その内心を大まかに推測することは出来た。

 怒っているのだ。アルマトの住人が、危篤の同胞を放置していたことに対して。

 淡白で謎だらけ、掴み所のない無機質な少女。そんな第一印象は、少しばかり違っていたらしい。ルスラーンは情報屋の調査員を務める少女の見解を改めると共に、今まで彼女を怪訝に思っていた己を恥じた。


「……あなたは失望されるだろうが……アルマトの現状を打破するために動いたかと問われれば、否と答えるしかない。何もしなかった訳ではないけれど、それはあくまでもアルマトの内側に限ったことだ。形振り構わずに──ということはなかった」


 アンジェリカの気迫に圧されたらしいタラスは、うつむきながらぼそぼそと答えた。こうも自信なさげな彼を見たのは初めてだから、相当圧倒されているに違いない。

 頭でっかちな村人でさえ、(彼が村長の息子ということも関係しているのだろうが)頭脳明晰と認めたタラスが此処まで狼狽えている。彼は村を出ていったルスラーンの電話番号さえ突き止めたというのに──。


(──ん?)


 違和感。

 ルスラーンはぱちぱち、と瞬きをしてからなあ、と声を上げた。村長以外の視線が彼へと向かう。


「お前、ネット使えるんだよな? だったらこっそり町にメールとかで連絡したら良いんじゃないか。いくら壁が薄くてもそれなら他の老いぼれに気付かれないだろうし、お前の親父さんもこの状態なんだろ。救援に来てもらえるかはともかく、この状況を誰かに伝えることは出来たんじゃないのか」


 俺の居どころを詮索するよりも簡単だろ、とルスラーンは皮肉混じりに言った。

 タラスはアルマトの生まれだが、ヤクーツクの大学に通っていた。其処で優秀な成績を修めたらしい彼は、地元愛の素晴らしいアルマトの村人らしく故郷へと帰っている──しかし手ぶらという訳ではなく、村長の部屋を訪れる前にちらりと見た彼の私室で見受けられた電子機器も共に持ち帰っていた。つまりインターネットによって外部との交流が可能な状態にある。

 それならば、近隣の町に異常事態を伝えることは可能だったのではないか。原因はわからずとも、アルマトが少なからず危険に晒されていると知ってもらえたかもしれない。


「……すまない、ルスラーン。それは、俺も思い付かなかった訳じゃない」


 だが、タラスはその手段を有していながら行動には踏み切らなかったようだ。ルスラーンは顔をしかめる。


「じゃあ何だってんだよ。お前、親父さんが大変なことになってるんだぞ? 見殺しに──いや、死なないんだろうが、そのまま放置しておいて罪悪感とかなかったのかよ」

「勿論あったさ。だけど……」


 ぐっと唇を噛み、タラスは絞り出すような声色でこぼした。


「……恐ろしかったんだ、他の村人に糾弾されることが。彼らの中には本当にアルマトから出たがらない人もいるから……勝手なことをしたら、それこそ俺が敵意の的になると思った。いくら村長代理だからと言って、見逃してくれるはずがない──そう考えたら、俺は……」

「つまり第二の俺になるのが怖くて動かなかったってことか。どれだけ自分が可愛いんだよ、俺のことだって見て見ぬふりしてた癖に……。人命よりも保身が第一か、見損なったよタラス」

「…………」


 タラスは何も言わなかった。ただ顔を伏せ、がくりと項垂うなだれるばかりだった。


「まあまあ、ルスラーン君。このような状況です、言いたいことがあるのもわかりますが言及は全て解決してからにしましょう」


 拳を握り締め、行き場のない怒りを噛み殺すルスラーンにかけられたのは、抑揚がなく場違いな程に落ち着き払った声。

 胸のつかえが霧散した訳ではないが、アンジェリカがあまりにも平然としているので気勢は随分削がれた。ルスラーンはふぅぅ、と細く息を吐き出して荒んだ心を鎮めようと努める。アンジェリカの言う通り、此処でタラスと揉めていても根本的な解決には繋がらない。


「ラジモフさん、あなたの行動はたしかに問題点だらけですが、過去の行いを振り返るべき時は今ではないでしょう。まずは危篤状態にある村人の名前と住所を教えてください。口頭で結構です」

「いえ、そういう訳には……。個人的にまとめたものがあるから、それを使って欲しい。これからも増える可能性があるし、断定出来るものではないけれど……役に立つなら、どうか持っていてくれ」

「ではそのリストをいただきましょう。それから、これからアルマトでの調査も行いますので村人たちには再三その旨をお伝えください。昨日のように取り囲まれて銃口を向けられては困りますから」


 ああ、それと、とアンジェリカは付け足す。


「今回の調査に関して、あなたが我々に同行する義務はありません。助手ならルスラーン君で事足りていますし、あなたにも私生活プライベートがありますから。ただでさえ村長代理で多忙な方を振り回すのは我々としても心苦しい。可能な限りあなたの負担は軽減出来るよう善処しますので、ご無理のない範囲での協力をお願いします」

「其処まで気を遣っていただかずとも大丈夫だが……此処は厚意に甘えさせてもらおう。しかし俺もアルマトの責任者だ、何もしないという訳にはいかない。あなたの調査が滞りなく済むよう、陰ながら力添えさせていただこう」

「心強いことです。──それでは、我々はこの辺りで。行きますよ、ルスラーン君」

「あ、ああ」


 またしても唐突に名前を呼ばれ、戸惑いながらもルスラーンは小柄な背中を追いかける。歩幅は小さいはずなのに、アンジェリカは歩く速度が速い。──いや、気付いた時にはもう歩き出している。

 件のリストを手渡した後、出入口まで見送ってくれたタラスにどのような顔を向ければ良いのかわからないまま、二人は村長宅を離れた。


(……なんだあいつ、気分悪い)


 初っぱなからルスラーンの精神には何とも言い難いもやが立ち込めている。

 タラスが村人から糾弾されることを恐れている──それは何となくルスラーンにも理解出来た。彼らの結束力は非常に強い。数の暴力で正当化してくるのは彼らの常套手段だ。父という後ろ楯がないタラスは、村人たちに立ち向かうことの無謀さを知っている。

 しかし、だからと言って自分を呼び出す必要はあっただろうか? ルスラーンとしては納得がいかない。


「思い悩んでいますね」


 顔に出ていたのだろう。しばらく歩いたところで、アンジェリカからそう告げられた。

 気恥ずかしさがないと言えば嘘になるが、彼女に隠し事をしても無駄な気がして、ルスラーンはこくりとうなずいた。

 アンジェリカには心中を見透かされているような気がしてならない。それは彼女の纏うミステリアスな雰囲気もあるが、底無しの黒で塗り潰された瞳が大きい。あれで見つめられると、何もかもが徒労に思えてしまう。


「致し方ありません、人の抱える事情とは千差万別ですから。同郷の人間なら尚更です。無理に気にするなとは言いませんし、私は君にそのようなことを言える立場でもありません。静かに傍観させていただきます」

「……傍観者は傍観宣言とかするものじゃないと思うけどな」

「私、こう見えて端役はやくには慣れています。上手くやりますよ」


 そう言って、アンジェリカはポーカーフェイスのまま左右の口角を少しばかり上げた。笑っているつもりなのだろうか。こう言っては何だが、不気味である。


「ところでルスラーン君」

「なんだよ」

「ドモヴォーイとは美味しいのでしょうか」

「…………は?」


 いきなり何を聞いてくるのだ、こいつは。

 まとまらない気持ちがさらにまとまりを失った。突飛過ぎる振りに、ルスラーンは口を半開きにする他ない。


「あんた、その手の専門家ならわかるだろうが……あんなの食えたものじゃないぞ。腹減ったならお菓子くらいやるから」

「いえ、空腹という訳ではありません。単なる個人的な質問です。七割冗談なのでお気になさらず」


 つまり三割は本気ということか。ルスラーンは信じられない、といった眼差しを惜しげなく大食らいの少女に向ける。


「さて、他にも該当者はいるはずです。ラジモフさんからいただいたリストもありますし、手当たり次第に突撃していきましょう。既に彼が手回ししてくださっているでしょうし、少なくとも昨日のようなことは起こらないはずです」


 しかし他者からの視線などつゆほども気にする様子なく、アンジェリカは軽やかな足取りでアルマトを闊歩する。彼女の着ているパーカーのフードがふわりと揺れた。


(……セラのことは俺が守らないと)


 少なくとも顔見知りの怪異を食われる訳にはいかない。アンジェリカの後ろ姿を見つめながら、ルスラーンは強く決心したのだった。

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