3

 アルマトの住宅のほとんどはロシアの伝統的な家──イズバーと呼ばれるもので、ルスラーンの生まれ育ったところも同様である。

 村の外れに位置するそれは、住人がいないということで村長が鍵を預かっている。今回はタラスが解錠してくれたため入ることが出来たが、普段は立ち入り不可能だ。ルスラーンがアルマトを出ていってからは盗みに入ろうとする者もいたにはいたのだろうが──タラスによれば、近寄る人などほとんどいないという。彼も、村長代理でなければ鍵を持ち出すことなど出来ないだろうと苦笑していた。


「きっとドモヴォーイが掃除をしてくれたんだね。ルスラーンが帰ってくることを知っていたのかな」


 そんな手付かずの家屋は不思議な程整えられているというまずあり得ない状態だったが、タラスは特に気にする様子もなくにこやかに先の台詞を口にした。

 ドモヴォーイとは、スラブ人の中に伝わる家の精である。家庭ごとにいるとされるそれは、祖先の霊とも考えられており、悪魔デーモンの中では比較的安全な部類に入るとも伝えられている。

 現代においては非科学的だと一笑に付されそうな話ではあるが、アルマトは辺境ということもあり精霊信仰の名残が都会よりも色濃く残っている。若者であるタラスは心から信じている──訳ではないのだろうが、気軽に口にする程度には生活の中に浸透していると考えて良いだろう。特に家を守るドモヴォーイは、人々の暮らしに直結しているのだ。


「家人がしばらくいなかったってのに、まだ面倒を見るものかね。あれに其処までの恩を売ったつもりはないし、仮にいるとすれば祟られてそうなものだが」


 しかしルスラーンはタラスの発言を鼻で笑った。何を夢見がちなことを──と言わずとも、彼の真意は眼差しにありありと浮かび出ている。

 可愛げのない態度を取ったルスラーンだが、それに対するお咎めはなかった。若き村長代理は眉尻を下げただけで、何事もなかったかのように二人へ腰かけるようにと促した。


「さて──ルスラーン、君も薄々勘づいてはいると思うけど、アルマトは今」

「……それよりも先に言うことがあるだろ。俺のことこそこそ調べやがって、個人情報保護プライバシーのへったくれもないアルマトの人間らしい」


 ぎしぎしときしむ椅子に腰かけたルスラーンは、神妙な顔で話を始めようとするタラスを鋭く睥睨へいげいした。


「答えろよ。どうして俺の携帯の電話番号を知っていた? 誰からその情報を得た? 話を聞くのはそれからだ」


 足を組み、胸を反らす。横に並べば不可能だが、お互いに座っている状態なら態度で見下ろすのは容易い。

 タラスはそっと目を伏せた。悲哀の込もった表情だが、ルスラーンが罪悪感を抱くことはない。被害者のような顔をされても、振り回されているのは此方なのだ。そう簡単に流される程、ルスラーンの心は弱くない。


「……ルスラーン、君に不快な思いをさせてしまったのなら、それは本当に申し訳ないと思う。でも、情報屋を頼ってでも、俺は君を呼び出したかったんだ」


 だって君はずっと消息不明だったから、とタラスはうつむきながら言った。

 ルスラーンがアルマトへ里帰りすることとなったのは、タラスから電話がかかってきたことにある。

 故郷を飛び出したルスラーンは、その後ウラジオストクで暮らしていた。ヤクーツクならともかく、距離の離れたウラジオストクへ向かう村人はそうそういない。村で唯一大学に進学したタラスも、アルマトを含めたサハ共和国の首都であるヤクーツクを選んだ。故郷など大嫌いなルスラーンにはわからないが、村人たちは皆アルマトから離れたくはないらしい。

 そういった訳で、これまで村人と関わることなく過ごせてきたのだから、タラスからの連絡には酷く驚いた。恐怖したと言っても良い。

 どれだけ優しい口振りで話しかけられたと言っても、何処からか自分の携帯電話の番号──アルバイト代でやっと購入出来たものだ──を知られたという事実は変わらない。自分の知らないところで嗅ぎ回られていると思うと、寒気が止まらなかった。


「其処までして彼を呼び出そうとするとは……ルスラーン君が危険な目に遭うとは考えなかったのですか? 彼、アルマトでは相当迫害されているようですが」


 何も言えないルスラーンに代わり、口を開くのはアンジェリカだ。彼女は眼鏡の奥から、底の知れない黒々とした両目でタラスを見つめる。

 それとなく伝えはしていたが、先程の一件でルスラーンの立場は明白になった。単に嫌われているのではなく、迫害されていた──いや、現在進行形で迫害されているのだ。そうでもなければ、銃口を向けられるはずがない。誰彼構わず撃ち殺すような人間がいるというのも嫌なものだが。

 ひゅ、とタラスは息を飲んだ。そして、申し訳なさそうに視線を落とす。


「……たしかに、ルスラーンを呼び出せば村の者たちが黙っていないことはわかっていた。それでも、俺は彼がいなければならないと思ったんだ。そうでもしなければ、君が疑われて、犯人と決め付けられるのは目に見えていたから」

「戻ったところで同じだったけどな。あいつら、迷信深いのか何だか知らないが、さすがに耄碌もうろくし過ぎじゃないか?」

「……そう悪く言わないでくれ。俺たちにとって、今回の出来事は不可解なことばかりなんだ。俺も色々と調べてみたけど……前例は全く見付からない。奇病か、それこそ呪いでもなければあり得ないようなことなんだ」

「数年間、死者がいない──ということがですか?」


 ずい、とアンジェリカが身を乗り出す。相変わらずその顔には喜怒哀楽どの感情も浮かんでいない。驚いたのか、タラスはびくりと小さく身を震わせる。


「何故──何故、あなたがそれを。村の外には口外していないはずだが……」

「いくら封じ込めたとしても、情報なんてものはいくらでも入手することが出来るのですよ。あなたが彼の電話番号を秘密裏に入手出来たように、私もちょっと調べればアルマトのことを知れるのです。もっとも、私は真っ当な行政機関から情報を手に入れましたから合法です。仕事柄難しい時もありますが、法律は守ります」

「……何者なんだ、あなたは」


 眉を潜めたタラスを、すすけた髪の少女は真っ直ぐに見据える。眼差しは無機質、一切の感情を読み取らせない。


「あなたは、サンドリヨンなる存在を知っていますか?」

「……?」


 これには問いかけられたタラスだけではなく、ルスラーンも思わず首をかしげた。

 サンドリヨン。灰被り姫。世界各国で知られる童話にして民間伝承、昨今では英語のシンデレラという名称が有名である。ルスラーンも聞いたことはあるし、知名度は高いと考えて良いだろう。


「ええと……童話、だったよな。グリムやペローのものが有名な」


 タラスも同じことを考えていたらしく、躊躇いがちにそう答えた。


「当たりと言えば当たりですが、私の言うものとは違います」


 しかし不正解だったらしい。眉ひとつ動かさず、アンジェリカは両手で三角を作った。丸でもバツでもないということだろうか。

 順を追って説明しましょう、とアンジェリカは切り出す。


「サンドリヨンとは、端的に言えば国家や公的組織などを対象にした情報提供、及び調査や管理を行う機関です。取り扱う情報は多岐にわたり、一般には公開されないものがほとんどになります」

「情報屋……ってことか?」

「大雑把に表現すればそうですね。わかりやすい解釈で構いません、不明な点は後程説明します」


 アンジェリカは続ける。


「今回、私が担う役目はアルマトの調査です。複数の報告により、アルマトにおける死者が此処数年で一人もいらっしゃらないことを受け、調査員として派遣されたのが私です。ラジモフさんの言った通りこのような事例は今回が初めてですから、情報収集という観点から見ても捨て置くことは出来ませんでした」

「しかし──村の者たちは、その……皆、非現実的で曖昧な方向に思考が傾いているようだが……」


 眉を潜めるタラスの言いたいことはわかる。科学的な視点から考察するのは、周囲の環境を見るに難しいのではないか──と。

 だがアンジェリカはいいえ、とはっきりした声で否定する。其処には一切の迷いがない。


「それならむしろ大歓迎です。そもそも、非現実的な事例であるからこそ私が派遣されたのです。言うなればサンドリヨンは『超常現象及び怪奇現象専門の情報屋』。現実的な方向の話であれば、その国の特殊部隊でも使えば良い話です。我々とて、無闇に調査員を派遣したくはないのですから」

「それなら……あなたは」

「ああ、前置きしておきますが私は超能力者ではありません。一般人よりも少しだけ『あちら側』に足を突っ込んでいるだけの人間です。除霊や悪魔祓いはその手の専門業者に依頼しますのでご了承ください」


 本当かよ──と突っ込みたいのをルスラーンは我慢する。そういった場面に出くわした訳ではないが、アンジェリカを『少しマニアックな知識と経験のある一般人』と見なすのは非常に難しい。

 疑いの目を向けられているにも関わらず、アンジェリカはさて、と話を切り返す。


「再度の確認になりますが、本件の大まかな調査は『危篤状態に至る原因』と『それに伴う発生源の確保及び鎮静化』です。アルマトのいざこざには関わりませんし、あなたやアルマトの方々の文化、暮らし、風俗、信仰等々をどうこうするつもりもありません。我々はフラットな組織ですので、調査目的の弊害にならなければ極力干渉を控えましょう。その代わり、あなたたちにこの異変を終わらせたいという意思があるのならば、可能な範囲で構いませんので我々への協力をお願いします。我々の調査の邪魔をした場合は、然るべき処置をとらせていただきます。ご容赦ください」

「わ……わかった。俺はあなたの──サンドリヨンの調査に全面協力するし、村の者たちにも掛け合ってみる。だから、その──いくつか質問をしても良いかな」

「どうぞ、何なりと」


 答えられる範囲で対応しましょう、とアンジェリカは応じた。

 自分から切り出したというのに、タラスはしばらく視線を右往左往させていた。質問をまとめるのに時間がかかっているようだ。そつのない印象のある彼にしては珍しい、とルスラーンは外野なのを良いことにぼんやり思う。


「あなたは先程、複数の報告を受けた……と言っていた。その報告者とは、どのような方なのだろうか。アルマトにはインターネットがほとんど普及していないし、外部に頼りたがらない者も多いから、うちの者ではないと思うのだけれど……。そうでなかったとしたら、一体誰が報告したのか気になってね」


 たしかに、誰がアルマトの異変を外部に伝えたのかは気になるところだ。

 俗に言う村八分にされていたルスラーンは詳しいことを知らないが、アルマトは外部との関わりを極力避ける姿勢を取り続けている。最近の若者──とは言え数える程しかいない──は閉鎖的な暮らしを厭って都市部に出て行き、そのまま戻ってこないこともあるが、ほとんどの住人はアルマトで一生を終える。政府に逆らう勇気はないのかライフラインはある程度整えられたが、それでも都会と比べると時代遅れも甚だしく、手付かずの部分も多い。国が関わらなければ、アルマトの住人は外部に接触を求めることはない。そのため医者はいないし役場も存在しない。警官すらいない。ルスラーンとて近代的な暮らしの全てに肯定する訳ではないが、さすがに診療所や駐在所くらいは設置しろよとは常々思う。

 ウラジオストクで暮らしている時も、周囲にアルマトを知る者は皆無だった。似た名前のカザフスタンの首都では?と勘違いされたこともあった。詰まるところ、知名度も限りなく低い土地なのだ。


「それは言えません。守秘義務がありますので」


 しかしアンジェリカはきっぱりと質問に拒否の姿勢を見せた。

 ルスラーンとしては少し拍子抜けだが、報告した者にもプライバシーがあることは理解している。まあ仕方ないか、と気分を切り替える。どうせ今の自分は聞き役だ、あれこれと口出しするのは無粋である。


「……わかった。その件についてはこれ以上の情報を求めないが……その、ルスラーンのことについて聞いても良いだろうか。あなたは彼のことを気にかけているようだし、同郷の者として彼の扱いをはっきりさせておきたい」


 腑に落ちない、といった風を抑え込みながら、タラスは二つ目の質問に移った。これにはルスラーンも目を見開く。


(出身が同じだけで保護者面かよ)


 非難の視線を向けるが、タラスは気にした様子もない。ルスラーンには目もくれず、アンジェリカだけを見据えている。

 足をぷらぷらとさせながら、灰色の少女はじっとタラスを見つめ返した。色素の薄い琥珀色の瞳と、深淵を思わせる黒い瞳が真っ向からかち合う。


「先程も申し上げました通り、彼とは偶然出会いました。たまたま名簿の中にあった顔と酷似していましたから、まさかとは思いましたが……巡り合わせとは不思議なものですね」


 相手を凝視したまま、アンジェリカは淡々と答える。抑揚も揺らぎも感じられない、機械音声のような声色である。


「だったら……ルスラーンの体質については知らなかったのかな? 特殊能力を持つ彼と鉢合わせたと?」


 しかしタラスも食い下がる。端正な顔に疑念をありありと映し出し、彼はアンジェリカを問い詰める。

 何というか、話している二人は気にならないのだろうが、話題に挙がっている立場としては気まずい。本当に気まずい。日本の少女漫画でヒロインを巡って二人の男が対立する場面を見たことがあるけれど、あれって此処まで雰囲気悪くなるんだろうな……とルスラーンは半目になった。要するに、自分を起爆剤に揉めるのはやめて欲しかった。


「勿論、その辺りは打算ありきですよ、ラジモフさん。しかし彼が特殊な体質ということは想定外でした。それとなく雰囲気は感じ取れましたが……その内容に関しては今もよくわかりません。追々彼に聞いてみようと思います。私も此処に泊まらせてもらいますので」

「おや、不都合があれば我が家の空き部屋を貸すけれども。年頃の男の子と一つ屋根の下というのも大変ではないかな?」

「お気遣いなく。いくら若くとも、私に支障が及ぶ程の下手物食らいではないでしょう。むしろ迫害されているルスラーン君を一人にしておく方が危険です。彼に何かあってはいけませんし、アルマトの情報収集も兼ねて色々と聞きたいことがあります。ですので心配には及びません」


 両者は間断なく問答を続けた。しかし僅かな戸惑いを抱いていると思わしきタラスの方が劣勢だ。アンジェリカの勢いに飲まれかかっている。

 彼は何かにすがるような目でルスラーンを見た。何だよ、と刺々しく投げ掛ければ、彼は困ったように笑う。


「彼女は、こう言っているけれど……ルスラーン、君はどうしたい? 俺は君の意見を尊重するよ」


 要するに、助勢してくれということだろう。アンジェリカが此処に滞在するのを防いでほしいのだ、タラスは。

 それでも村長代理かよ、とルスラーンは呆れる。言い合いで負けたのを認めたくないのか知らないが、わざわざ此方に聞いてくるなというのがルスラーンの本音だ。よくわからない争いに自分を巻き込まないで欲しい。

 ルスラーンは足を組んだまま、じろりと二人を見た。タラスは懇願するかのような眼差しを向けているが、アンジェリカは無──思考の読み取れない、ぼんやりした顔をしている。彼女からしてみれば、このような言い争いなどどうでも良いのかもしれない。


「別に良いけど、うちに泊まっても。村長のところに泊まって何かあったらまた揉めるだろ」


 アンジェリカの言う通り、魔女だ呪いだと言われている立場で単独行動するのは気がかりだ。相手が戦闘能力を有しているとは思えない小柄な少女であっても、傍にいてくれるのならありがたい。

 ルスラーンが答えると、決まりですね、と少女は立ち上がった。


「そういう訳で、私はルスラーン君のお世話になろうと思います。色々と準備もしなければなりませんし、もう日も暮れかかっていますから、何かあれば明日お聞きしましょう」


 誠意のこもっていない敬語に、タラスは唖然とするばかり。硬直している彼を尻目に、アンジェリカは引っ張ってきた大きなキャリーケースを開けてあれこれと荷物を取り出し始める。


「そ……それじゃあ、俺は失礼するよ。わからないことがあったら聞きに来てくれ。遅くでなければ、すぐに出られるから」


 こほん、と咳払いをしてからタラスはその場を立ち去ろう──として、彼はルスラーンに耳打ちした。


「あまり気を許してはいけないよ」


 余計なお世話だ──と文句を言う前に、タラスは外へ出てしまった。いつもにこやかな彼だが、今日はやたらと不機嫌だ。

 それもこれも、アンジェリカという途方もないマイペースな少女が理由だろう。たしかにタラスのような人からしてみれば、彼女に合わせるのは気持ち悪いものだろうが──いつも張り付けた笑みを浮かべているタラスの狼狽する顔が見られたのは、ほんの少し清々しかった。


(さて──こいつが何をしてるかはわからないが、とりあえず夕飯の支度でもするか)


 よくわからない機械やらコードやらを繋ぎ、ノートパソコンをかたかたといじっているアンジェリカを横目で見つつ、ルスラーンは道中で買った食材を手に台所へと向かう。幸い調理器具はまだ残っているようだし、レトルトのもの以外は缶詰めや保存食ばかりでそのまま食べられそうだから、湯煎で温める以外の作業は必要なさそうだが──。


『 ルーシャ~ 』


 物思いに耽りながら歩いていると、不意に腰の辺りへ何やらふわふわもこもこした暖かいものがぶつかってきた。抱きつかれたのだと理解してから、ルスラーンは懐かしい呼び名を発したその生き物を見下ろす。


「セラ、来てたのか! 久しぶりだな、元気にしてたか?」

「……? どうしたんですか、ルスラーン君」


 訝しげに振り返るアンジェリカに、ルスラーンは友達だよ、と腰に抱きつくそれを持ち上げて見せた。

 それは真っ白な毛玉だった。大きさは人間の幼児程度だろうか。鼻や口はないが、三日月型の目が二つあり、常ににこにこ笑っているような顔つきだ。短い足が付いているものの、腕らしきものはない。抱きついてきた──というよりはぶつかってきた、と形容すべきなのだろうが、ルスラーンは抱擁と解釈した。この真っ白な友人は甘えん坊なのだ。


「毛玉──でしょうか。あちら側のものではありそうですが……こちらは一体?」

「あ、やっぱりあんたにも見えるんだな。こいつはセラ。多分精霊とかその辺りだと思う。近くの森に住んでるらしくて、昔からよく遊んでたんだ。村の連中には見えてないみたいだったが……俺の他にも見える奴がいて安心したよ」

『 よろしくねえ 』


 セラの声は脳内に直接響く。しかしゆったりとして間延びしているので、苦痛を覚えることはない。むしろ心地よいとルスラーンは思う。

 アンジェリカは持ち上げられた毛玉ことセラをじっと見つめた。顎に手を添えて、何やら思案しているようである。


「……ルスラーン君。この毛玉──失礼、セラさんの種族というか、分類はわかりますか? いえ、セラさん自身がご存知ならそれで良いのですが……」

「たしか、ケセラセラとかいう名前じゃなかったか? 長いしよくわからなかったから、間を取ってセラって呼ぶことにしたけど」

『 ちがうよお。セラは、ケサランパサランだよお。ルーシャ、ぜんぜんおぼえてくれないねえ 』


 短い足をばたつかせて抗議するセラに悪い悪いと軽めの謝罪をしているルスラーンを尻目に、アンジェリカは「ケサランパサラン……?」と首をかしげる。


「それは日本の怪異と聞いていますが……何故このような場所に? それに、聞いていた大きさとは違う気がするのですが」

『 そうそう、むかしはもっとちいさくて、かるかったんだあ。でもねえ、もりのレーシーやみずべのヴォジャノーイはとてもおおきくて、セラもおおきくなろうとおもったの 』

「もともとは掌に収まるくらいの大きさだったらしいが、周りの精霊が大きい奴らばっかりだったらしくてな。あれこれ頑張って今の大きさになったんだと。数十年前まで日本は大陸に植民地を持ってたんだし、其処に住んでる日本人が忘れていったんじゃないか?」


 セラが自分の身の上について語ることはないため、これは単なる憶測だ。しかし日本出身というのは間違っていないらしく、時々日本製の白粉おしろいが恋しい、と呟くこともあった。どうやらセラは白粉が主食のようだが、シベリアに来てからは細氷や氷霧を食べているようだ。

 アンジェリカはこの白くて丸っこい生き物に興味を抱いたらしく、ノートパソコンを閉じて駆け寄ってきた。光のない目だが、好奇心からかつやつやと輝いて見える。


「すみません、少しの間で良いのでセラさんを貸してはいただけませんか。ケサランパサランが極地にてこのような進化を遂げるとは……是非ともお話ししてみたい」

「だってよ。どうする、セラ?」

『 いいよお。セラ、おはなしだいすき 』


 セラが要求を拒むことはなかったため、雌雄のわからぬ毛玉は一時アンジェリカと対話することとなった。


「はじめましてセラさん。私は人間です。ルスラーン君にはシェールィと呼ばれています。セラさんはルスラーン君のお友達なのですよね。何処で知り合ったのですか? 普段はどちらで暮らしているのですか? 何を主食にしていますか? やはり白粉でしょうか? ケサランパサランは日本の怪異とのことですが、出身は日本なのですか? どうしてアルマトに? 人間とコミュニケーションがとれるのははじめからですか? その目のようなものは生まれつきですか? レーシーやヴォジャノーイとは仲が良いのですか? 足は後天的に生えたものですか? ゴッサマーやエンゼル・ヘアとの関連性は」

『 ルーシャ、このこ、はなしがはやいよお 』

「セラはのんびり屋なんだ、あまり急かすなよ。そう矢継ぎ早に質問してると避けられるぞ」


 表情や声色は変わらないものの、アンジェリカは明らかに高揚している。そんな彼女を一言窘めてから、ルスラーンは夕食を作るべく台所に歩を進め──ふと途中の壁にある鏡を見た。

 だいぶ年季の入った鏡に映るのは、着飾った己の姿。かつて伸びっぱなしでぼさぼさだった髪の毛は前下がりのボブに切り揃えられ、ヘッドドレスで飾り付け。メイクアップされた顔色も悪くない。痩せているのは変わらないが、以前よりは肉がついたつもりだ。真っ黒なワンピースをパニエでふわふわに膨らませて、コルセットで腰を締める。同年代の男性より細めの脚は、白黒ストライプのニーハイソックスとレースアップされた厚底のパンプスで覆い隠す。男臭さとは対極にある、可憐で荘厳で甘くてちょっぴりほろ苦い、特別で格別の武装。

 大丈夫。嫌われ者の邪視の子はうんと強くなった。何なら呪いごと跳ね返せそう。

 何事もなかったかのように鏡の前を通りすぎたルスラーンは、鍋に水を入れて沸騰させる。頃合いを見計らって、レトルトのビーフシチューとソリャンカの袋を入れた。

 祖国の料理にはあまり執着のないルスラーンだが、アンジェリカは異国の料理や食材に興味津々らしい。せっかくロシアに来たのだからロシア料理を食べるのが常道でしょう、などと言って凄まじい量のレトルトパックを買い込んだ。鍋の中に放り込まれた袋は四つだが、そのうち三つはアンジェリカのものである。あの小さい体に入りきるのだろうか──とルスラーンは訝しんだ。

 懐中時計で時間を確認し、袋を取り出して器に盛り付ける。ソリャンカは量が多かったために二つの器を使った。また、別個に沸かしておいた湯で紅茶も淹れておく。


「出来たぞー」


 器やティーカップを盆に乗せて戻ってみれば、アンジェリカはだいぶセラの信頼を得られたらしく、背中側に顔を押し付けて吸っていた。犬や猫を吸うというのもペットを飼ったことのないルスラーンからすれば奇妙なものだが、癒されているのならそれに越したことはない。控えめな性格のセラが気を許しているのなら喜ばしいことである。


「ありがとうございます。いただきましょう」


 セラから離した顔は相変わらずの無表情。その顔で吸ってたのかよ、と思わず突っ込みたくなったが、内心では至福に包まれているのかもしれない。何にせよ汁物が冷めてはいけないので、夕飯にありつくのが先決だ。

 サラダやパンを机に並べたルスラーンは、紅茶をすすろう──としたところで、向かいの席を見て瞠目する。


「──多くないか?」


 サラダが三つあるのはまだ良い。しかし大小様々なパンがうず高く積み上げられ、ジャムの瓶が三つも置かれているのはどういうことだろうか。

 クロワッサンをもぐもぐ頬張るアンジェリカは、クエスチョンマークが顔の横に出そうな雰囲気を醸し出しつつ首をかしげる。


「私にはこれが普通です。このくらい食べないと空腹で頭が回らないのです」

「……食べきれるのか?」

「お気遣いなく。これでも節制セーブしている方です。その気になればもっといけます」

「…………そうかよ」


 アンジェリカはその小柄な体躯に見合わぬ健啖家けんたんかのようだ。並べられた食べ物が次々に吸い込まれ──もとい彼女の口に運ばれる様子はいっそ快く感じられる。


「──ところで」


 アンジェリカの食べっぷりに若干引きつつ黒パンをかじっていると、彼女から声をかけられた。顔を上げれば、ピロシキを手にした少女が映る。クロワッサンはもう完食したのだろうか。凄まじいスピードである。


「ルスラーン君、君は先程村の方から『邪視の子』と呼ばれていましたね。文脈から考察するに、君は人ならざるモノ──怪異、幻獣、超常的な存在が見える。それゆえに、セラさんとも親交がある──違いますか?」


 尋ねた矢先にピロシキに齧り付いている。食欲旺盛なのは結構なことだが、人と話をする時は抑えるものではなかろうか。

 若干むっとしながらも、ルスラーンはうなずいた。アンジェリカの言葉は当たっている──模範解答とも言える正確さだったからだ。


「……ご明察、とでも言えば良いのか?」

「何でも構いませんよ」

「…………」


 素っ気ない返答に、ルスラーンは言い返す気勢が削がれるのを感じた。

 紅茶をごくりと啜ってから、アンジェリカは取り立てて気にした様子もなく「わかります」とうなずいた。


「君のような体質の人間というのは、割といるものです。特に小さい子供はこの世ならざるモノを目にすることが多い。しかしその大半は成長と共に力を失います。臨死体験でもすれば、話は別でしょうが──あ、唐突ですがルスラーン君、君はいくつですか? 差し支えなければ年齢を教えていただけますか」

「……十八」

「なるほど。まだ言い切れはしませんが、恒久的な能力の可能性が高いですね。あちら側のモノが見え始めたのはいつからですか?」

「わからないよ。物心ついた頃には、森の中を飛び回ったり走り回ったりする精霊や悪魔デーモンが見えたし、コミュニケーションも取れた。あとはそうだな……死神っていうか、

「死が見える──ですか」


 ソリャンカの具材──恐らく魚だろう──を飲み込んでから、アンジェリカは聞き役の姿勢に入る。


「ああ。司祭様にこういったことを言ったら怒られるんだろうが、死ぬ間際の人間の傍には何ていうか……青ざめた人が立っているんだ。一人の時もあるし、複数の時もある。死ぬ人によってまちまちだ。そいつらは決まって死人から何かを手繰り寄せるような仕草をする。多分魂なんだろうな。すっと出てくる人もいるけど、なかなか出てこない人もいてさ。そういう人相手だと、複数人で押さえつけてやたらめったらに打ち据えるんだよ」

「強制的に魂を抜き取るのですか?」

「そうかもしれない。とにかく、その青ざめた人は死者の魂を抜き取ることが役目なんだと思う。近々死ぬ人の家の前に、そいつはいるんだ。こんな俺でも小さい頃は今よりも素直だったものだから、誰々のところに青ざめた人がいるよ、なんて言ってな。薄気味悪がられて、いつの間にか邪視の子なんて呼ばれてた」


 身の上話などするつもりではなかった。ただ淡々と、自分の体質について説明するだけで良かった。

 元来口数が多いとは言えない性質たちだと、ルスラーン自身が一番よく知っているはずだ。しかしこの時ばかりは、どうしてかよく口が回った。誰かに向けて、忌まわしい体質について話す気に満ちていた。

 一通り語り終えたルスラーンを、対岸の少女は無機質に見つめている。彼女は何の感慨も抱いていない。しかし、それが不思議と安心感を生む。同情も恐怖も忌避も侮蔑もない、フラットな眼差し。


「──事情はよくわかりました。君は本来超えられないことを前提とした境目を凌駕し、その上であちら側のモノとコミュニケーションを可能にするのですね。端的に言えば、見えないはずのモノが見える──と」


 アンジェリカはふむ、とうなずいてから失礼、と一言発した。次の瞬間には両手で器を持ち上げ、二杯目のソリャンカを飲み干していた。


「たしかに、常識的に考えればありえざる体質だと思います。この様子だと、アルマトの人々の中に君と同じような体質の方はいらっしゃらなかったようですね。ただでさえ狭いコミュニティーです、迫害の対象となるのは何ら不思議なことではありません」

「そりゃ、不気味だろうな」

「しかし、似たような体質の人間は一定数存在します。かく言う私がその一人です。君のように何でもかんでも視認可能という訳ではありませんし、そちらでお待ちいただいているセラさんのご厚意でセラさんの姿を認識しているだけに過ぎません。私に興味のない相手──姿姿。君との大きな違いのひとつです」


 次に、とアンジェリカはピースサインを作る。一つ目の時は指すら立てなかったので、今しがたの思いつきであろう。もう片方の手にはソーセージを挟んだバゲットがある。


「ですが私は一部を除きほとんどの怪異を視認出来ます。彼らは私に接触することを好むからです」

「好かれやすい──ってことか?」

「はい。何故かはまだ不明ですが、どうやら私は彼らにとって面白いものに見えるようです。しかし君の言う青ざめた人──死神は条件が重ならなければ基本的には見えません。彼らのほとんどは真面目で仕事熱心ですから。恐らく地球上の信仰から生まれた死神の大多数は自由時間でもなければ私に構うことはないでしょう。稀に後天的に死神の属性を付与されたとか、前述の信仰より生まれたものとは別の、気質の異なる死神……シンプルに言えば人の魂を刈り取っていく存在ですね。それであれば見えると思います」

「……とりあえず、勤務中の死神は相手してくれないんだな?」

「そうなりますね。その他にも、私に姿を見せたくないモノは存在します。私が視認出来るのは、自らその姿を見せたり、声を聞かせたりするモノのみです。もとから見えたり聞こえたりするなら話は早いのですが、超自然的な存在とはなかなか捉えられないもの。故に我々は難儀するのです。ままならないものですね」


 ふう、と一息吐いたアンジェリカの手元に食べ物はない。彼女は並べた食材を完食していた。とんでもない胃袋の持ち主だ──ルスラーンは驚愕を隠せない。


「そういった訳で、明日から君には私の調査を手伝ってもらいます。私に視認出来ないものがあるかもしれませんからね。気になるものがあれば私に報告してください」

「……一応聞くが、俺に利はあるのか?」

「当然です。調査の協力者をないがしろにするなどあってはなりません。君には相応の報酬をお渡しします。四割前払いでも構いませんよ」


 今お出しします、と言ってアンジェリカは唐突に席を立つ。そして封筒から何か取り出し──小切手のようだ──それを持って戻ってきた。


「どうでしょう。まずはこの程度。無論、君の働きが良ければ後程かさ増し出来ますのでご安心を。通貨単位はロシア・ルーブルでよろしいでしょうか」

「いや、ちょっと待ってくれ」


 ちらりと見えただけでも数百万はあった。途方もない金額である。

 ルスラーンは人並みの感性を有していると自負している。金銭に関する欲求もそれなりにあるはずだが、こうも桁外れの金額を見せられては逆に欲が消え失せてしまった。さすがにそれほどの大金をぽんと受け取るべきではない──と理性が警鐘を鳴らしている。


「全部後払いだ、後払いにしてくれ。俺は役に立てるかわからないし、まだあんたに何もしてないだろ。だからまだ良い、事が解決してからまた相談させてくれ」

「そうですか。わかりました」


 反応らしい反応は示さず、極めて淡白な返答のみを寄越してアンジェリカは小切手をもとの場所にしまい込んだ。彼女のキャリーケースの中には色々な収納用品が入っているらしく、そのひとつひとつが堅苦しい金属製だった。

 平然と突拍子もないことを仕出かす女だ──ルスラーンは少女が背中を向けているのを良いことにやれやれと脱力した。不快感はないが、この上なくやりにくい。一方的にペースを乱されている。


「ところで、此処には独自の蒸し風呂があるようですね」


 くるり、と振り返ってアンジェリカが言う。


「バーニャと言うのでしたか。お家の横に建てられていましたよね。今でも使うことは出来ますか」

「どうだろう……壊れてはいないだろうが、随分使われていないからな。点検をしてからの方が良いんじゃないか」


 アルマトではほとんどの家屋に伝統的な蒸し風呂──バーニャが設置されている。村八分にされていたルスラーンの自宅も同様だ。

 しかし、この家は数年間無人のままだった。ろくに整備もされていなかった蒸し風呂をいきなり稼働させるのは、少なからず差し障りがあるのではないだろうか。


『 だいじょぶだよお 』


 そんなルスラーンの懸念をのんびり吹き飛ばしたのは、しばらくおとなしくしていたセラである。

 白い毛玉はぽんとルスラーンの膝に乗ると、どことなく嬉しそうな雰囲気を漂わせる。


『 おうちのおそうじ、セラがやっといたよお。おふろもつかえるよお 』

「そういえば、誰も使っていないはずなのに家の中が片付いていたが……セラ、お前が片付けてくれていたのか」

『 ルーシャ、きっとかえってくるっておもってたからねえ 』


 膝上の温かな生き物に、ルスラーンの心はじんわりと熱を帯びる。アルマト村に良い思い出はないが、セラのような友人がいることは救いと言って良い。同郷の人間よりも心優しく気遣いの出来る存在が人外のセラとは、皮肉なものである。


「そういうことなら決まりですね。お腹もだいぶ楽になったので、ひとっ風呂いきましょう。蒸し風呂は久しぶりなので楽しみです」


 ルスラーンが思っていた以上に、バーニャへの期待値は高かったようだ。すっくと立ち上がったアンジェリカに、おいおいと突っ込みを入れる。


「電気で動く訳じゃないんだ、あんた一人で用意するのは手間だろ。俺が食べ終わるまで待っててくれ。かまどの準備も大変なんだよ、あれ」

「わかっています。私は子供ではありませんから、少し待つくらいどうということはありません。待ての出来る大人ということを知らしめてやりますよ」

『 セラもてつだうよお 』


 窘められたのは想定外だったのだろうか。アンジェリカはほんの少し不満げな顔をした。見た目も相まって、やはり幼げに見える。

 生憎、まだルスラーンの夕飯は残っている。視線で急かしてくるアンジェリカに肩を竦めつつ、彼は残りの食材をを口へ運んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る