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 ルスラーンとアンジェリカの乗るレンタカーは、アルマト付近の森に置いておくこととなった。村の者たちから嫌われているルスラーンが帰ってくるのだ、否が応にも敵意や悪意を目の当たりにするのはわかりきっている。借り物であるレンタカーに手を出されては困るので、アルマトまではしばらく歩くのが得策だ──というのがルスラーンの意見だった。


「森に置くとなると、人以外の危険もあるのでは?」


 適度に踏みならされた道を歩きながら尋ねてくるのはアンジェリカ。もともと小柄なこともあるが、加えてルスラーンが厚底の靴を履いているために、彼女の旋毛つむじがよく見える。普通なら顔を上げるものなのだろうが、何故かアンジェリカは目線だけを上に向けているので尚更だ。

 ちょっとした仕草も個性的というか、独特というか。今まで関わったことのない性質の彼女に居心地の悪さを覚えつつ、ルスラーンは良いんだよ、となげやりに答える。


「この辺りの森は、俺にとって馴染み深い土地だ。村の連中よりかはましに扱ってくれるだろうよ」

「其処まで酷いのですか、アルマトの民度は」

「俺に対してはな。尤も、あそこを離れて数年は経つから、今の反応は少し変わるかもしれないが……まあ、何にせよ期待しない方が正解だ」


 なるほど、とアンジェリカは無機質にうなずいた。あまり驚いてはいないようだった。

 どういった因果かは知らないが、行動を共にするからにはアンジェリカを守ってやるのが自分の役目だろう。彼女くらいの体格なら抱えて走れるな、とぼんやり考えていた矢先に、ルスラーンはうげ、と顔をしかめる。


「……あそこがアルマトだ」


 森を抜けた先に、ぽつぽつと家が立ち並んでいる。シベリアの自然の中にぽつねんと立地する小さな村──ルスラーンの故郷たるアルマトだ。

 見た目だけなら、のどかな集落に見えないこともない。しかしその内情を知っているだけに、ルスラーンは鬱々とした気分を抱かずにはいられなかった。故郷にはあまり──いや、ほとんど良い思い出がない。

 ため息と舌打ちをどうにか抑え込んでいるルスラーンを他所に、アンジェリカはふむ、と顎に小さな手を添えた。


「想像していた通りの集落ですね。夕ごはんを作る時間帯だからでしょうか、良い香りがします」

「夕飯なら途中で買っただろ。俺の家が無事ならゆっくり食べられるから、今は辛抱してくれ」

「私とて我慢は出来ます。食欲に振り回される程弱くはありません」


 不本意だったのか眉間に皺を寄せつつ、そういえば、とアンジェリカは話題を変える。


「君、村の方々からは邪険にされているのでしょう? お家は大丈夫なんですか。荒らされていたらお片付けから始めなくてはなりませんが」

「ああ、その点に関しては大丈夫だ。うちには──」


 言いかけたルスラーンだったが、何を思ったか唐突に足を止めて、凄まじい勢いで前方に視線を移す。歩幅の関係から半歩後ろを歩いていたアンジェリカは、む、と小さな唸り声を上げて彼の背中に激突した。

 ルスラーンの睨み付ける先には、たまたま外に出ていたらしい中年の女がいる。彼女は目をまん丸に見開いて、ひいっ、と喉の奥から引きった悲鳴を漏らした。


「だっ、だ、誰だい、お前……!」


 女は持っていた籠を取り落とし、顔を青ざめさせながら後退りする。その表情は恐怖一色、今にも泡を吹いて倒れそうな勢いだ。

 これにはルスラーンも瞑目した。昔から面倒な村だったが、今は別のベクトルで面倒だ。


「あのな、俺は──」

「ま、ま、魔女だよ! こんな黒ずくめの不気味な、うちの村にいるはずがない! 誰か、誰か来とくれ!」


 自身が何者か説明する機会すら与えず、女は金切り声で叫んだ。

 ただでさえ狭い村、しかも夕方とあって賑わいとは程遠い中思いきり叫ばれては、無視など出来るはずもなく。周辺の家から、なんだなんだと村人たちが飛び出してきた。


「どうしたんだ、タマラさん!」

「何があったんだ!?」


 駆け寄ってくるのは、いずれも中年か老年の男女。若者は見受けられない。年寄りばかりなのは、昔から変わっていないようだ。

 ルスラーンが発言する間もなく前に進み出てきたのは、それぞれが武器を持った男三人。左右の二人は鍬とシャベルだからまだ良いが、真ん中に至っては猟銃を持ち出している。いくらルスラーンでも、狙撃されてはひとたまりもない。近くに病院のないアルマトで狙撃されようものなら、良くて大怪我、悪くて死亡である。そして言うまでもなく後者の確率は高い。

 猟銃を持った老人──たしかクジマといった──は、険しい目付きでルスラーンを見た。ルスラーンも負けじと睨み返す。


「……うちの村では、此処二十年近く女は産まれておらん。何者だ、貴様。何が目的でアルマトを訪れた。縁なき者を易々とは受け入れられん」

「…………」


 ルスラーンは沈黙した。

 絶句──いや、絶句を通り越して感嘆の域に達してしまったと言って差し支えはない。とにかく言葉を失った。


「や、やっぱり魔女だよッ。こいつがアルマトを呪っているんだ。あたしたちを、皆殺すために来たんだよッ」


 声を上擦らせながら、主婦たちに支えられているタマラがまくし立てる。パニックになっているのは明白だった。

 ルスラーンはくっと笑った。声は立てずに、鮮やかなリップを塗った唇を静かにつり上げて──立ち塞がる村人たちを笑い飛ばした。


「まったく、前々から思ってはいたが、あんたたちは揃いも揃って薄情だな。──いや、物覚えがずば抜けて悪いのか? 老いぼればかりだからな、致し方ないだろうけど」

「──貴様」

「たしかに、このクソ田舎じゃ都会のファッションなんてほとんど届かないだろうし、男は男物しか着ちゃいけないと頑なに言い張っていてもおかしくはないが……それでも忘れるか、普通? あれだけ迫害しておいて、ちょっと村に災いがあるだけで犯人扱いしていた──いや、現在進行形で犯人扱いしている相手のことをさ。化粧と服装でよろっただけで頭の中から綺麗さっぱり忘れるって、並大抵の才能じゃあないよ」


──なあ、クジマの爺さん。

 名前を言い当てられて、ようやくクジマは彼がことに気付いたらしい。瞠目してから、わなわなと震え出した。


「貴様──邪視の子か。女のようななりをして……ついに狂ったか? 禁忌に手を染めたのではあるまいな」


 ルスラーンは苦笑した。やはりこの村には多様性を受容する気質はないようだ。誰も彼もが怯えてルスラーンを見ている。ただ、彼が女物──正確にはゴスロリなる、アルマトでは恐らく見出だされていないデザインの衣服を身に纏い、それに合わせた髪型とメイクで揃えてきたというだけで。

 異性装、加えて黒々しいだけでオカルトじみた結論に至るとは。ルスラーンは思わず苦笑した。呆れ果てたのだ。


「まさか。どうして自由の身になった俺がわざわざ己が身を危険に晒さなくちゃならない? あんたたちを呪う時間なんてないんだよ。好きな服を好きなように着てるだけだ。気色ばむ程の理由なんてない」

「だが、アルマトは現在異変に侵されている。得体の知れない病が蔓延はびこっている……これを呪いと言わずして何と言うのか。そしてアルマトを呪う程憎んでいるのは貴様ぐらいだ、邪視の子。やはり早急に始末しておくべきだったのだ」

「……あの、白熱しているところ申し訳ないのですが、そういう因縁は後回しにしていただけますか」


 ひょっこり。

 擬音にすれば、それが正しかろう。何はともあれ、これまで沈黙を保ってきた──ルスラーンですら一瞬存在を忘れかけていた──アンジェリカが、顔を出して発言した。

 村人たちはアンジェリカの発言の後数秒間押し黙った──が、やがてわあ、とかきゃあ、といった悲鳴を上げた。無論、その根底にあるのは恐怖。


「な、なんだお前は!?」

「何処から出た!?」

「さっきまでいなかったのに!」

「邪視の子の手下か!?」


 最早この場は狂乱状態、皆が皆あわてふためいている。

 タマラはすっかり気を失ってしまうし、女たちは逃げ惑うし、男たちの中にも情けないことに腰を抜かす者あり、その他は年甲斐もなくわあわあ大騒ぎ。唯一落ち着いているのはクジマだが、既に猟銃を構えている。いつ撃たれてもおかしくはない。


「……おい、シェールィ。これ、逃げた方が良くないか」


 里帰りしておいて何だが、一刻も早くこの場を離れたい。というかそもそも来たくはなかった。騒ぎになるのが目に見えていたからだ。しかも、アンジェリカの登場によってより重度の恐慌に陥った。彼女一人に罪を擦り付けるつもりはないが、まさか此処までとは思いもしなかった。


「たしかに此処にいては身の危険があるでしょう、しかし逃げ出した瞬間に撃たれる可能性も高いのでは?」

「それは……まあ、そうだけど……」

「あ、あいつら、変な言葉を喋ってるぞ!」

「やっぱりただ者じゃねえ、俺たちを呪うつもりなんだ!」


 村人たちに勘づかれてはまずいので、恐らく浸透していないであろう日本語──ルスラーンはウラジオストクで暮らしていることに加えてゴスロリ含む日本文化が好きなのだ──で話してみたところ、ますます誤解を与えてしまったようだった。日本語でなくとも、今の状態なら誰もが大騒ぎしそうなものだが。

 どうしたものか、とルスラーンは天を仰ぐ。最早どうしようもない。もともと最悪だった故郷が最悪を通り越して終わってしまったという事実に、郷土愛はなくとも憐憫の情から胸が痛んだ。


「皆さん、落ち着いてください!」


 一か八か後ろ向きに走って逃げるか──などとルスラーンが考えていると、若く張りのある声がその場に響いた。

 一部を除いて恐れおののいていた村人たちは、はっとした様子で声のした方向を見る。割れる人垣の先には、息を切らせて此方に駆け寄ってくる人影がある。


「彼を呼び寄せたのは俺です。どうか酷いことはしないでください」


 やって来たのは、ルスラーンより幾分か歳上に見える、端正な顔立ちの青年だった。

 彼はルスラーンの前に立つと、未だ睨み付けてくるクジマとは対照的な、穏やかな微笑みを浮かべた。


「久しぶりだね、ルスラーン。元気そうで何よりだ」

「……お前が呼んでおいてこのザマとはな。よく笑っていられるな、これだけの騒ぎを放置しておきながら」

「それに関してはすまないと思っているよ。ただ、俺のところも異変に見舞われているんだ。すぐに立ち回れないのは致し方のないことさ」


 とりあえず君の家に向かおう、と青年はきびすを返す。彼は何処か急いているようにも見えた。


「お待ちください」


 これ以上口答えしたところで村人の反感を買うだけだと知っているルスラーンは無言で付いていこうとしたが、それよりも先にアンジェリカが声を上げている。彼女は真っ黒な瞳でじっと青年を見つめ、何の感情も込もっていない、平坦な声で問いかける。


「あなたは何者ですか。彼の知り合いでしょうか」


 村人たちからの非難を含んだ視線を受けても物怖じしないアンジェリカ。そんな彼女を視界に捉えた青年は、驚きからか僅かに目を見開いたが──すぐに人当たりの良さそうな笑顔に戻る。


「俺はタラス──タラス・ラジモフ。父はこの村の長を務めていてね、緊急事態ということでルスラーンを呼んだのさ。──そういうお嬢さんは、ルスラーンの何なのかな?」

「ドライバーとヒッチハイカーの関係で、私は後者です」

「そうなんだ? たまたま行き先が被ったと?」

「はい」


 青年──タラスはふうん、と品定めするようにアンジェリカを眺めた。名前すら名乗らない彼女に疑念を抱いたのかもしれない。

 しかし、彼は村人とは対照的に敵意や恐怖を見せることはなかった。今は色々大変だからもてなしはあまり出来ないけれど、と前置きして、タラスは柔らかく目を細める。


「アルマトへようこそ。村長代理として、歓迎するよ」

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