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人生で初めて、ヒッチハイカーを拾った。
しかも、本当に──心の底から不本意な里帰りの日に。
「助かりました、さすがにタイガの中を歩いていくのは無茶でしたから」
そう言って後部座席に座るヒッチハイカーの少女を、運転手──ルスラーン・キリーロヴィチ・ヤスクノフはちらりとバックミラー越しに見遣った。
肩に届かない程度の長さの、くすんだ灰色の髪の毛。北国の人間から見ても白い──どちらかと言えば美しさよりも不健康さを前面に押し出す肌。シベリアへの旅行客であろうに、パーカーとジーンズ、デッキシューズという軽装。飾り気のない丸眼鏡。小柄でちんまりとした体躯。
普段ならばよっぽどの事情でもない限り他者との関わりを避けるルスラーンではあるが、このヒッチハイカーに関しては放っておく方がまずそうだ、と判断した。これほどまでに無防備な少女──恐らく自身よりも年下だろう──を後悔なく放置出来る程、ルスラーンも非情ではない。
しかも彼女はルスラーンと同じ場所を目的地としている、と言った。置いていって後から合流した──となれば気まずいことこの上ない。であれば、さっさと乗せてしまうが吉と言えよう。
いざとなったらその時だ、余程の切り札でもなければ自分が少女に押し負けることもあるまい。ルスラーンは度々バックミラーで少女の様子を窺いつつ、大自然の中に造られた、些か不釣り合いな道路に車を走らせる。
(しかし……何だってこいつ、あの村に行こうとしてるんだ……?)
しばらく続いた沈黙の末に生まれたのは素朴な疑問。何故この少女がルスラーンの生まれ故郷である村を目指しているのか──彼にはさっぱりわからない。
二人の目指す先は、ヤクーツクから数時間車を走らせたところに所在する小さな村だ。名をアルマトという。今は五月なので其処までではないが、冬季は殺人的な寒さに襲われる。取り立てて個性のない、シベリアになら何処にでもある寒村である。
そんな寒村に、出身者でもない少女がたった一人で向かう理由などほとんどないように思える。ルスラーンは彼女のような人物を村で見たことはないし、そもそも若者は数える程しかいない。その大部分が都会に出ていってしまうし、
だとすれば残るは観光という線だが、アルマトは前述の通り一般的なシベリアの村。わざわざ見て回ろうと思う程のものはない。冬なら冷凍庫もお手上げの寒さになるが、それだけだ。似たような村ならたくさんあるだろうし、シベリアの写真を撮りたいのならもっと交通の便が良いところに行くものだとルスラーンは思う。彼とて、里帰りのために免許を取った訳ではない。
「──ところで、君は里帰りですか。ルスラーン君」
バックミラー越しに目が合う。
ルスラーンは息を飲んだ。それは未だ名乗ったはずのない名前を言い当てられたということもあるが──少女の瞳が、一切光を通さない純粋な黒で塗りつぶされていたことが大きな理由だ。
──何者だ、この女。
ルスラーンは唾を飲み込み、可能な限り冷静を装う。
「ああ、そうだ。本当は一生帰ってなんかやらない心積もりだったんだがな。何やら濡れ衣を着せられて根も葉もないことを言われてるらしいから、中指のひとつでも立ててやりに行くんだよ。無視して職場やご近所さんに迷惑かける訳にはいかないからな」
「それは災難ですね。お疲れ様です」
「そう言うあんたはあのクソ田舎に何をしに行くんだ? 俺を生贄にしようってんなら無駄足だ、既に仲間外れの嫌われ者なんだからな。自覚なく里帰りする程俺も馬鹿じゃない」
はん、と鼻を鳴らして煽ってみるが、少女は顔色ひとつ変えない。無表情のまま、彼女は首を横に振る。
「いいえ。私はかの村の者とは無関係です。君の名前も記録で見ただけですから、ほとんど当てずっぽうのようなもの。そもそも、私はアルマトの人々に望まれて来たのではありません」
「個人的な理由であのクソ村に行こうとしてる──ってことか? 信じられないな、何処にでもあるような小さい村だぞ、彼処は」
「個人的……ということになるのでしょうか。厳密には異なりますが、訂正する程のことでもありません。そう解釈していただいて結構です」
瞬きひとつせず杓子定規に答える少女に、ルスラーンは少なからず寒気を感じる。機械音声でも聞いているような気分だ。
ハンドル操作を誤らないように前を向いたまま、ルスラーンは動揺を悟らせないようにと心掛けながらふうん、と相槌を打つ。
「それなら尚更気になるな。あんた、何を目的にあの村へ行こうとしてる? 言っとくが、楽しいと思えるようなものは何もないぞ」
「遊びで向かうのではありません。私の目的はとある調査と、それに付随する記録のため」
「……調査?」
「はい。君も知っているはずです」
ルスラーンは答えない。少女の続く言葉を、沈黙と共に待った。
「──アルマトでは、三年前から人が死んでいないそうですね」
淡々とした口振りだが、其処には拭いきれない薄ら寒さがある。
ルスラーンは否定も肯定もしなかった。一方的にこちらの事情を知っていると思わしき少女──彼女は記録を見た際に名前を知ったと言った──彼女がどういった立場の人間なのか、ルスラーンには見当もつかない。ただ、彼女一人の意向でアルマトに向かおうとしているとは、どうにも考えられなかった。
(官憲ならまだ良いが……
何にせよ、生まれてこの方悪事が皆無──とは言えないが、大っぴらな形では法に触れていないと自負しているルスラーンとしては冷や汗ものである。下手したら消されるのではないか──そんな可能性を感じ取って平然としていられる程、彼の肝は据わっていない。
「大丈夫です。私は君やアルマトの人々を傷付けたり、不当に搾取したりするために此処まで来たのではありませんから」
ルスラーンの不安を嗅ぎ取ったのか、少女は安心感を覚えさせる気があるのかと突っ込みたくなるような、抑揚を感じさせない声で言った。
「私はあくまでも調査員。君の故郷で起こっている変事について調べるだけです。事件性があれば、この国の法に従って対処します。それに君を選んだのは、その立場が私に一番近いと思ったから。どちらかと言えば、私は君を信用しています」
「そりゃどうも。だが、俺には生憎学がなくてな。読み書きだの計算だのちょっとした外国語だのは
「私もそういった理系のお話はあまり得意ではありません。それに、今回の案件は君が予想しているものではないでしょう。むしろ君にとって馴染み深い部類かと」
「……何が言いたい?」
恐る恐る問いかける。答えを聞きたい気持ちと、知らない方が良いかもしれないという警鐘が同時にルスラーンの脳内を埋め尽くす。
少女はす、と眼鏡を押し上げた。そして真っ直ぐ前を向いたまま口を開く。
「怪異、あちら側、人ならざるモノ──要するに、超自然的な存在が絡んでいるのではないかと私は考えています」
「──」
ひゅ、と息を飲み、ルスラーンは瞠目する。
信号待ちしていたのが幸いだった。今の発言を受けて平然としていられる人間は、それこそただ者ではなかろう。
小さく深呼吸してから、ルスラーンは気を取り直す。相手の調子に乗せられてばかりというのも癪だ。
「……あんた、霊能力者か何かか? 非科学的なものをすんなり受け入れてるみたいだが」
「いいえ。君が想像しているような
「……何処まで知ってる? 村の連中に聞いたんじゃないだろうな」
「再度言いますが、私はアルマトとは無関係です。訪れるのもこれが初めて。君がそうだとわかったのは同族故の勘です」
種類はある程度異なるのでしょうが、と少女は付け足す。それが普通であるかのように、平坦な口振りで。
ルスラーンはため息を吐いた。つくづくやりにくい相手──というか、単純に不気味な人物である。敵意がなさそうなことが唯一の救いだろうか。それにしてももやもやする。必要なことはそれなりに聞き出しているはずだが、どうにもすっきりとしない。
「……あんたがあの村に行こうとしてる理由は、何となくだがわかったよ。俺の敵じゃないならそれに越したことはない。味方が皆無……って訳じゃないが、彼処は敵まみれだからな。あんたみたいなのがいれば幾らかましになる」
「信頼していただけるのは純粋に嬉しいです。私は完全な部外者ですし、現地を知っている方と行動を共に出来るのは大きな利点ですから。事がうまくまとまった際は、君にお礼をしなくてはなりませんね」
「それはさすがに気が早いだろ」
真顔で淡々と語る少女にげんなりしつつ、ルスラーンはそうだ、と切り出した。
「そういえば、あんたの名前を聞きそびれてた。俺の名前はもう知ってるんだろ? だったらそっちも自己紹介くらいしてくれよ」
「名前……ですか」
これまで無表情だった少女が、此処で初めて
さすがに見ず知らずの相手に名乗るのは抵抗があるんだな、と思っていたルスラーンだが、気付いた時には少女の顔から躊躇は消えていた。
「……私はアンジェリカ・ロレンス。しかしアルマトでは極力名前を呼ばないでいただけますか」
「……? 何故だ?」
「名前というのはひとつの
少女──アンジェリカがあまりにも真剣な顔をするので、逆にルスラーンは気が抜けてしまった。彼女も何かを恐れるのだと、安心したのかもしれない。
アンジェリカ・ロレンスという名前が本名なのかはわからない。響きからして英語圏の名前なのだろうが、それで彼女の素性がわかる訳でもなし。現にアンジェリカはロシア語を流暢に操っているし、無機質ささえ感じさせる容姿は無国籍と言われても端から否定することは難しい。とにかくミステリアスで、フラットな印象の少女だ。
ひたすら真っ直ぐ続く道路を見つめながら、ルスラーンは
「要するに、名と姓から成り立つ呼び方をしなければ良いんだな。それならお安いご用だ」
「……?」
「今からあんたは
初めは首をかしげていたアンジェリカだったが、すぐにルスラーンの言わんとするところを理解したのだろう。なるほど、と呟いてうなずく。
「では、そのように」
「そうかい。それなら結構だ」
「なかなか安直ですが、悪くはありません。今まで呼ばれたあだ名の中では上位と言えるでしょう。一位ではありませんが」
最後は余計だよ、と突っ込むのはやめておいた。アンジェリカの評価の基準など、この時のルスラーンは知る由もなかった。
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