noah -ノア-

 美しい地球。それは過去の地球。

 マザーから渡された映像資料だと、地表はどこもかしこも荒廃していて人間はおろか、当時の動植物すべてが生きていける環境ではなくなったらしい。度重なる戦争による環境破壊、それに伴う深刻な大気汚染、高濃度被爆地の増加……死の星となった地球から、一握りの人間は脱出し新天地を求めて宇宙へと旅立っていったのでした。というのが、四百年以上前の歴史の話である。

 なら、どうして僕たちはまだ地球に居て、地下に隠れ住んでいるのか。それは、一握り以外の捨て置かれた人間がしぶとかったからに他ならない。頑丈なシェルターもその頃からの遺産らしい。ここにはもっと多くの人間が暮らしていたのだろう。僕たちは気付いたらずっと二人だけだったからどうとも思わないけれど、多くの人間が少しずつ減っていって、ある日に二人だけになったのならこの空間を寂しいと思うのかもしれない。

 寂しくなった人間はどうする。きっと他のシェルターの生存者を探しに行くはずだ。


『地表のほぼ全てが危険度レベルMAX地域だと断言します。強酸性の雨が降り、岩石すら巻き上げる大嵐が頻発、基本的に太陽光は曇天に阻まれて昼夜での寒暖差が30℃以上です。そして、今の生態系に関しても言及するのであれば、人間は完全に被食対象であり、現時点で発見されている生物はわずか50種のみ。──今の地球は未開の地あるいは未踏の地と呼称するのが最適でしょう』


 つまり、マザーは外出を許可しないと言っているのだ。まあ、するつもりもないんだけど。

 それでも、教養の一環として今の地球の知識をマザーから定期的にアップデートを受けている。どうして、それが可能なのかと言われれば地表活動用の自立型ロボから送られてくる映像を解析しているからである。

 毒液を噴射する巨大な馬のような外見と硬質の鱗を持つ肉食獣とか、群れで空を飛び回り強靭な顎を持つセミとサメの中間みたいな虫とか、誤って体液や血液が付着すると猛烈に発火するトカゲとか色々。とりあえず全ての生物が人間よりも大きくて好戦的な性格しているようだった。

 僕たちはそんな生き物に見つからないように、息を潜めて地下で暮らしている。いつものように適度な運動と知識のアップデートと健康診断ヘルス・スキャニングの日課を終わらせ、いつものようにバーチャルアースで在りし日の絶景や各国の美しい街並みを俯瞰で眺める、そしてユニスと他愛のない会話をする、そんな穏やかな日々が続いていたある日のことである。


「なあ、ユニス。その歌に出てくる春って言葉、知ってる?」

「うーん、なんとなくしかわからないわ。暖かい気候のことくらいしか……ねえ、マザー。春ってなあに?」

『はい。[春]とは、四季のひとつであり、一年の中で最も気候が穏やかな季節です。雪や氷が溶け、植物が芽吹く時期であり、寒さが次第に緩み、草木が萌えて花々がつぼみをつけ、次第に満開になる──そんな季節を指す言葉です』

「へえ、四季は聞いたことあるなあ。たしか、雪がある景色のときは冬だったから……冬の次に春が来るってことか」

『…………。』

「──マザー、四季に順番ってあるの?」

『はい、あります。地域によって気候は様々ですが、四季という言葉がある地域では基本的に春、夏、秋、冬の順番で一年が循環し、冬から春へと一巡します』

 歌の、一番耳に残るメロディで繰り返される春というフレーズ。どこか懐かしいような、切ないような、背中を押してくれるような不思議な歌だった。

 きっとユニスはこの歌が好きなのだろう。タイトルも歌詞もよくわかっていない僕ですら同じ歌だとわかるほどにはガラス越しに聞いているのだから。

「いい歌だね、ユニス」

「うん、好きなの、この歌」

 言葉では理解していても実感がわかない。──春、とは。

 この地下シェルターは毎日同じ白い壁と白い廊下だから、変化していく景色を見るということがそもそも叶わないのだ。安全のためには仕方がない。そう割り切って僕は過去の地球に思いを馳せるのだった。

 僕たちは変化のない場所で、いつものように言葉を交わす。今日もそんな日だ。そういう日になるはずだった。


『──ユニス、ノア。緊急事態です。面会中ですが、重要度の高い内容ですので報告を優先させていただきます』

「緊急事態……? マザーからだなんて初めてだな」

「ええ、そうね。なんだろう。ノア、私、少し怖いわ……」

 突然のマザーの声に僕たちは緊張してしまう。次の声が聞こえるまでの僅かな静寂すら居心地が悪く、自分の瞬きすら気になってくるほどだ。

『現在、外界を探査している独立型自走スタンドアローンマシンの一機から、救難信号をキャッチしました。なんらかのトラブルに遭い、帰還することができずに同じ座標から定期的に信号を送り続けています。しかし、ただのマシンエラーならばこうして報告することはなく、こちらで処理が可能です。──問題なのは、その機体にユニスの生命維持に不可欠な薬品になる物質が運搬されていることです』

「マザー、他のマシンに手伝わせることはできないの?」

 翡翠色の瞳が動揺を隠し切れないままユニスが問いかける。僕も同じことを考えていた。手分けして運べばなんとかなるのではないか。しかし、マザーからは非情な事実を突きつけられる。

『できます。ですが、この場合その解決方法では間に合いません。積み荷を外気温から守るために搭載されている冷却装置のエネルギーが、遥か遠くの他のマシンの到着を待つ間に確実に切れてしまいます。優先順位はマシンではなく積み荷の回収です』

「その薬品が届かないと、ユニスは……ユニスは大丈夫なのか?」

「わからない。けど、生命維持って言ってるし、私死んじゃうのかもしれない。──ねえ、マザー。その荷物を回収する方法ってまだ何かありそう?」

 マザーは僕に応えてはくれない。こういうときにすら、彼女の能力に縋るしかできないのが歯がゆかった。僕にも何かできることがあれば、なにか。なにか。なにか。

 珍しく言い淀むように一拍の沈黙のあと、マザーは「ただひとつだけあります」と解決策を提示するのだった。それは、今までマザーが頑なに守ってきたAIとしての矜持あるいは誓約みたいなものを自ら否定するような方法だった。

『ただひとつだけあります。……それはノア、貴方がシェルターから地表に出て、目的の座標まで到着することです。今、このシェルター内に自由行動できる存在はノアだけです。ただし、これは強制ではありません。ただひとつの解決策を提示しただけです。選択権はノアにあります』

 その言葉に僕は目眩で倒れそうになった。

 今まで、ずっと外の世界から遠ざけてきたマザーが僕を外へ。僕しか居ないと、出来ないと告げている。じっとりとした嫌な汗が背中を伝う。でも今、僕が立ち上がらなければユニスはこれからどうなってしまうのだろう。まだしばらくは大丈夫なのかもしれない。けれど、いつか今回のことが原因でユニスが死んでしまったら……僕は独りぼっちでそれから先もずっと生きていかなければならないのだろうか。

 それは嫌だ。ユニスのいない毎日なんて面白くないし、なにより寂しいじゃないか。僕はぐるぐると頭の中で起こるかもしれない未来を想像して、固く拳を握って決心する。

「……僕、行くよ。ユニスのために外へ行く」


*****


 生まれてから、ずっとずっと固く閉ざされていたブ厚い扉の前に僕は立っていた。

 マザーに提示された方法を僕が了承すると、その重大さ危険さにユニスが遅れて気付いたのか、必死になって引き留めようとガラスにへばりついて僕に思い留まるように何度も、それこそ何度も声を上げていた。しかし、僕はその泣きそうなユニスの声を聞くたびに心の底で決心した想いがさらに強く折れることなく揺るがなくなっていくのを感じていた。

 彼女の役に立ちたい。自由こそが僕に与えられた異能ちからだと言うのなら、今こそ使うべきだろう。きっと僕の存在理由は、この日のためにあったのだ。これからもユニスと二人で笑い合って生きていくために。


 僕はマザーに支持されたとおり普段はあまり使わない倉庫に行き、耐熱服と必要な工具類と行って帰ってこれるだけの食料を荷物にくくりつけて背負う。ずっしりとした今までにない重みがこれから僕は危険な外に出発するのだという事実を、わかりやすく教えてくれているようで嫌になるほどだ。

『準備は良いですか、ノア』

「珍しいね。マザーから管理すること以外の会話ができるなんてさ」

『ユニスからノアのサポートをするように要請されておりますので』

「あっそう。──ええと、マシンが動けなくなったのって、ここから北西に50キロのところだっけ。それと、ユニスはまだ泣いてるの?」

『目的地の座標は耐熱服のゴーグルに常に表示されています。そして、ユニスは泣いて体力を消耗したのでしょう。今は安静にしています。──ノア、気を付けて』

「大丈夫だよ。よくわからないけど、僕はユニスのためにって思ったら外に行っても絶対に戻ってこれるって思えるんだ。もちろん怖くて震えそうだけど、それでもこのままじっとしてなんていられないんだ!」

『ノア、ひとつだけマザーから貴方にその感情の名前を与えましょう。──それは愛です。その相手を想い、慈しみ、自己犠牲すら厭わないその感情は愛というものです』

 いつもは抑揚のない声で詰まらないと思っていたのに、不思議とマザーから優しさを感じてしまった。

 そうか、この想いは愛というものなのか。まあ正直、愛と言われてもよくわからないけれど、ユニスと過ごした思い出を胸に強く心を持てば、たぶん大丈夫さ。僕なら、きっと大丈夫。

「ありがとうマザー、そろそろ行くよ。また戻ってくるから、そしたらユニスにあの歌を一番に歌ってほしいって伝えてほしい」

 マザーは了承し、重苦しく鈍い音を軋ませながら扉がゆっくりと下から上に開いていく。深く深呼吸をして、酸素ボンベ付きマスクを装着し直して、外の世界へと僕は力強く歩き出した。


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