春の歌

不可逆性FIG

emeth -エメス-


 どこか遠く──まるで夢のような美しい景色の数々が広がっていた。畏怖すら憶える果てしない自然の雄大さ、天を衝く巨大な建造物と裾野に広がる街並み、人間たちの営みや動植物が生きるために繰り返される生命の讃歌。

 僕はこの時間が好きだった。けれど、それと同時に今はもう全てが失われてしまっている事実に悲しくもなる。透明度の高い大気、鮮やかな色彩に満ちている地球。それは奇跡の惑星と、かつては呼ばれていたこともあったらしいが……。

『マザーよりノアへ、終了時刻二分前となりました。フルダイブ型バーチャルアースからのログアウトをしてください。なお、本機能はオートセーブのため次回接続時も同じ座標へ──』

「わかってるってば! もっとわかりやすく言ってよ!」

『…………。』

 正直、マザーは好きになれない。僕と同じ人間ではなく、AIなので言葉ひとつひとつに温かみがないし、なにより行動を制限して管理しようとするからだ。僅かに苛立ちながら、ゆっくりと目蓋を閉じて意識を浮上させていく。

 ふわりと、まるで肉体と精神ゴーストが離れるように意識が後方へと引っ張られる。淡く発光する少年の後ろ姿(僕自身のことだ)を視界に捉えながら、ログアウトの文字が真っ黒な虚無に表示されると、次第に感覚が現実とリンクし始める。すると、先程の景色が仮想空間での虚構の出来事だと、頭の奥がチカチカと理解していくのを薄っすらと感じていくのだった。


 大きく伸びをしながら、僕は学習室から出て真っ白なタイルと真っ白な電灯が続いているシンとした廊下を歩く。この施設は基本的に僕ひとりだけのものだが、ここで暮らす人間は二人いるのだ。そして、そのもう一人に僕は今から会いに行く。

「──あ、ノア! 今日は少し遅かったね」

「ごめん、ユニス。地球見てたら遅くなった」

「また? ふふふ、ノアは本当に地球が好きなのね」

 僕らは笑い合う。いつもの他愛のないやり取り。すると、次に彼女は手招きをして「お喋りしましょう」と、僕を近くまで招くのだ。

 けれど、僕はユニスの近くまで行くことはできても、すぐ側で肩を寄せ合うことすらできない。なぜなら、僕と彼女の世界は、どうしようもないほどにこちら側とあちら側に隔てられていて、厚いガラス張りの壁がユニスをシェルターからさらに小さく閉じ込めているのだから。

「今日はどこを巡ってきたの?」

「ええと……ネーロイ・フィヨルドの自然を見たり、マンハッタンの高いビルから見下ろしたり、あーそうそうシャウエンの街がすっごく綺麗でさ! 青と白だけで統一された外壁が」

「うーん、言葉だけじゃわからないからノアの体験をモニターに映していいかな」

「もちろん!」

 彼女はユニス。透き通るような金髪を揺らし、深い緑に彩られた翡翠色の瞳をした華奢な少女だ。背格好がほぼ同じなので、きっと僕と年齢はそんなに変わらないだろう。そして、この地下シェルターでただ二人だけの生存者である。

 生存者といっても、ユニスの立場は危うい。僕には難しいことはよくわからないが、彼女は元々の体質なのか今の地球の空気に適応できない身体であった。なので、ガラス張りの部屋は常に無菌状態の清潔な空気が循環しており、僕が普通に呼吸しているこの空気を吸い込むのすら危険らしい。

「ねえ、マザー。ノアの見てきた仮想地球バーチャルアースの映像出せる?」

『──確認しました、可能です。ユニスルームのモニターにノアの視覚へと記録された映像を出力します』

「いいよなあ……僕もマザーにお願いできたらもっと楽しいのに」

「私だってノアが羨ましいよ。このガラスの向こうを自由に歩けるんだから……」

 ユニスは僕にない特別な能力がある。それはマザーと会話できること。

 僕にはユニスにない特別な能力がある。それは自らの意思で広い範囲を行動できること。

 彼女の異能ちからに比べれば僕のなんて取るに足らない能力だと思うのだけど、それでも困ったように諦めたように微笑みながらいつも「大切な能力だよ」と零すのだ。モニターには今しがた体験してきた美しい地球の景色が色鮮やかに流れている。鼻歌を小さく歌いながら、じっと映像を見続けている椅子に座るユニス。そのあどけない横顔は何も語らない。僕は自分の見てきた景色をもう一度眺めるために、彼女の部屋との境界線へと近付いた。しかし、ガラスの壁がそれを強固に隔てている。きっと僕の細腕じゃ思いっきり殴り付けてもヒビのひとつさえ出来ないのだろう。

 彼女を自由にしたい。けれど、この不自由の中だからこそ彼女は生きていける。僕はこの胸の奥がキュッと苦しくなる感情を表す言葉を知らない。


「ねえ、ノア。このモニターの地球が大昔の記録だったとしてさ、あなたは外の世界に興味ある?」

「うーん……わからない。僕は綺麗な景色を見るのは好きだけど、荒れ果てた今の地球にはそんなに興味ないんだ。それよりもユニスと一緒に居るほうが楽しい気がする。外の世界に行くよりも、きっと、たぶん」

「そっか。ありがとう、ノア」

 振り向いて微笑むユニス。モニターには色取り取りの花が咲き乱れるどこかの大きな庭園が映っていた。僕はそのまま二人の境界を隔てるガラスに右手を貼り付ける。そのすぐ隣には昨日の僕が残した右手の指紋。──毎日、同じことの繰り返しだった。とはいえ、この現状に不満があるわけではない。けれど、漠然とした不安はある。一昨日も、昨日も、今日も、それから明日も、これから先ずっとずっと僕たちは二人なのだろうか、と。決して広くはないこの地下シェルターの中で生存していく未来に意味はあるのか、と僕はときおり考えてしまうのだった。

「これからも私の知らない地球の景色を見せてほしいな」

「もちろんだよ。これからも綺麗な地球を一緒に見よう!」

「約束だよ、ノア」

「うん、ユニスが驚くような場所を見つけるよ!」


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