蓼食う人魚 頁はここで途切れている
どういうわけか、自らの子を切り刻み、最愛の妻たちを殺して墓を荒らし、家族の屍肉を舌で蹂躙し尽くした男の土気色のこけた頬には水滴がさまよっていた。
おまえの善人ぶった猿芝居に付き合ってやる輩など、今この場にはいないというのに。
「おい、今更ごまかすなよ。おまえは私と同じだ。面白くて堪らなかったんだろう? 愛だなんて馬鹿馬鹿しい大義名分を作り出さなければならないほどに、おまえは女子供の喚くさまが面白くて堪らなかったんだろ」
「あ、ああ、あああ、ちがいます。違う、のだ。やっぱり、やはり、姫様、とは、あなたとは、一緒にはなれない、のですね」
「はぁ、ひめさま?」
なんだそれは。確かこの里には姫という地位はないはずだが、もしかするとユーリの出身地には姫がいたのやもしれない。それとも人食いの男に物語かなにかをなぞらえて妻や娘を「お姫様」だなんて呼ぶような醜悪な部分があったとしたら、最高に面白い。
「はあっ、ぅ、わた、おれの故郷、には、あなた、と同じ、人魚がいました。あなたに、そ、そっくりな人魚様がいた、のです。おれの、村では、人魚が、かかみ、神の使いという、ことになっていて、みんな、信じていたんです。おれも、か、神様とか、しんじてた。でも、違う。違いました」
「当たり前だろう。人魚はただの生物だし、神なんてものはおまえのような見苦しい異常者が作り出した幻想だ」
ユーリは寝ぼけたような顔で私を見上げた。そして何を思ったのか、眩しいものをみるようにひっそりと目を絞ると嚙みしめるように笑った。
「ひ、姫様、とい、っしょ、になり、たかった。くぉ、殺したって、いいくらいに、一緒にいたかった。けど、殺せなく、あの、あの、狭くてみっともない、楽園から捨てられて、おれ、たちが信じて、いた、か、かけがえのないもの、が、お、わ、私たち以外が、信じていた、お、度し難きもの、うっ、す、すべてすべてがそうすべてが、まやかしだったと、きづいて、気づいてしまった、のです。私は、どう、やって、どうすれば、良いのか、わからなく、なって、ずっとずっと、ずっとつ、妻とも子供とも一緒に、あの、あの子たち、と一緒にいたかったのに、まや、かしにみんな生かされ、て攫われていく、のに、気がっ、く、狂いそうになって、狂わ、されたんだ。ひ、姫様に、あああ、あなたに狂わされたんだ」
ユーリ人間の子供のようでありながら死を滲ませた声音で言い募る。それがなんとも不気味で不快でありながら、つつきたくて堪らなくなるような好奇心を誘うものを潜ませていたのだ。
「まったく聞き苦しい言い訳だな。おまえは元から狂っていたのだよ。あらたな知識を得ることの何が苦痛なんだ? 生物が愚かにも生きて死ぬことの何が悲しい? おまえが楽しみながら生きる気力もない異常者だっただけのことだろう。世界が広がっていくことも人間が滑稽で美しいことも素晴らしくてかけがえがない娯楽だ。退屈から救い出してくれたはずのもので、自分の首を絞めたののはおまえ自身だ。不幸ぶるなよ、つまらない」
不愉快さと攻撃性を隠しもせずに乗せた言葉にユーリは骨の浮き出た体で笑う。そのさまが一層不愉快さを増すのに、心のどこかでは目を輝かせてこの男が次に何を言うかを心待ちにする自分がいた。
「ははは、あっはは、は、やっ、ぱり、姫様と、あなたは、一緒だ。あなたは、執着を知らないのだ。人間、と、いうものを、あなたは何よりわかっていないあ、あはははっはは、あっはは」
「どういうことだ」
予想もしえなかった言葉に怒りより先に疑問がしっぽを出した。五十年も人間の組織の中枢に身を置きながら、人間を理解できていないということがあり得るのだろうか。人心掌握で長に居座った奴隷が言うのであれば、それは確からしい気がするし、所詮は妄言であるようにも思えた。
「はっはあっ、私は、離れるとおもうと、もう、耐えきれなくて、たえきれなくて、食べて一緒に、なりたく、なってしまった。から、いい、一緒になった。ははは、一緒に、なれたんだ! ようやく、一緒になれ、たん、ですよ。姫様には、この気持ち、わかりますか、こんな、執着が、わわ、わかるはず、ない、あなたに。神様も、何も、まやかしだと知って世の中の全てが、他人が大切にしてるものが嘘だと、知って、失望できない、のは、あなたに、執着なんて、そんなものが理解、できないからだ。あっ、ふっふふふ、あ、あなたは楽しんでいた! ひ、ひとを、贄を選ぶことを楽しんでいた! 哀れな女が、巫女が死ぬのを楽しんでいた! いくら里、に、いようとも、いくら書を、積もうとも、どれだけっ、に、人間の、おれの近くに、いようと、も、無邪気で残酷な、化け物」
ユーリはきつくきつく目を瞑ると、遠くの過去に向かって平手を打つように叫ぶ。その力を抑えきれずもがく様は、なぜだかあの巫女がこの男の命が尽きることを知って力なくへたり込んだ姿にむしろ酷似している。
「ああ、あぁ、わた、しは、おれは、姫様に食べられたかった。姫様に! たべ、食べられ、たかっ、たんだ。あなたの、ような美しく、無垢で、ぅ、苦しみから最も、遠いものと、一緒になりたかった。なのに、のに、私は、早く、はやく食われてしまえば、よかったのになあ、ぁ」
「ああ、まったくお前が早々に姫様だとかいう馬鹿な人魚に食われていなければ、あの女たちは長く生きれたのに、子供たちは苦しまずに済んだのに、ふふ」
「ああああ! また、またそうだ! わわわ、笑って、何も、なにも知らないまま無邪気に笑って泣いて、わた、私は、おれはそんな姫様と、あなたに、食べられたい。どうか、どうか、お願い、です。うそです。うそでもほんとうに信じていた、いるんです。たべて食べてください。私とっ一緒になってください! 机の、茶を、私に飲ませて、殺して、割いて、食べてください、脳みそ。毒は、人魚には、きき、効きません。子供のころに、姫様に飲ませたのに、死ななかった、から、ああ、死ねばよかったのになあ、い、いしょ、いっしょになりたい、のに」
なんだか叩けば鳴る楽器のようにも思えて、茶々を入れてやると、やはり、ギャアギャアと音を上げる。うるさいが悪くもない。
「なぜ私がお前など食わねばならない」
「お、お、おねがいです。執着、を知りたくはないの、ですか。あたた、新しい世界を、知りたくは、ないのですか、真の、意味で人間を愛したくはないの、ですか。くえ、食えばわかります。おおお、私も、妻を、子供を、たべる、食べた時に、伝わって、きたのです、よ。真に、知ったのです。あの子たちの愛を、悲しみ、もすべて、すべて私と一緒に、一緒になったん、です。だから、からね、あなたもいっしょになってないてください。おねがいです。おねがいなんですお願いします」
ユーリは自由の利かない体をくの字に曲げて精一杯頭を垂れているかのような姿勢をつくると、うわごとのように「おねがいおねがい」と繰り返す。やはり、こいつは人間より楽器のほうが性に合っているのではないか。いや、楽器だったらば、死に切れるような無機質な人間だったらば、こうして私を楽しませてくれることもなかっただろう。
「あははは! おかしいおかしい! おまえは魚を食べれば泳げるようになるのか? 鳥を食べれば飛べるようになるのか? おまえの妻も子供も、何処にもいない。おまえが殺してはらわたの中で溶かしてしまったのだから。あはっ、死んで消えた! みんな消えておまえは独りぼっちで死ぬんだ、ユーリ! あはははは!」
「そんな、ちがう、ちがう、ちが、違うんだ。姫様、違うの、ですよ。おれは、ただ、ただあなたと、一緒に、離れ離れに、なななってしまうのだったらいっそ……あ、あなたに、姫様に食べられてしまいたかった、のに、あ、あああ、ごめん、もうし、わけありませぬ。自分も、姫様も、殺せずに、ごめんなさいおれはおれ私は……」
痙攣が止まらない手で必死に私の言葉から逃れようと顔を隠すのが更に滑稽さを増している。なるほど、こんなに愉快な性根の人間が自力で死にきれるわけがない。私としてはまだ楽しみがいのあるものを潰してしまうのは惜しいが、しかし人間のことは好きだし、此奴のことはかなり気に入ったのだから、約束くらいは果たしてやらねばならないだろう。
「あっははは! よいよい、もう十分楽しませてもらったぞユーリ。契約通り、うぬはわらわが食うてやろうぞ」
そういえば、人間に茶を振舞ってやるのは初めてだ。記憶をたどりに、見よう見まねで椀に茶を注ぐ。少し机を濡らしてしまったが、まあ後で奴隷が片付けるだろう。
「う、うぉ神様? ちがう、姫様、ひめさま……おれはずっと姫様、の、ことが……あ、ああ」
口に茶をあてがっても咽るばかりで、飲み込もうとしない。ただただ途絶え途絶えに「ひめさま」と呻いている。
気乗りはしないが、まあ、予想以上に期待に応えてくれたのだし、多少いい思いをさせてでも約束を果たしてやるべきだろう。
「もうおやすみユーリ」
なるだけ柔らかい声音で言ってやると、ユーリはまばゆげに目を眇めて、こくりと喉を上下させた。何かに憑りつかれた人間は残酷なまでに無垢で美しい。
「私も、おまえのことを愛していたよ」
もう退屈な肉塊になってしまったものの脂の溜まった髪を撫ぜ、そっと語り掛ける。
私は人間を、本当に愛している。
力が抜けて、ただの干し肉のようになったユーリの手を取ると、薬指をそっと口に含んだ。これくらいの太さならきっと噛み千切れるだろう。
歯を食い込ませて、骨ごと掌から切り離す。表面は塩味が強い。噛み千切るとやはり出来の悪い干し肉のような味がする。肉が薄くて二三度噛み締めただけで骨をしゃぶる形になるし、とにかく臭みが酷くて食えたものではない。しかしまあ、あの海で食べた赤ん坊よりましだ。私が陸のものを食べなれたというのもあるだろうが、やはり私は脂肪の多い肉が好かないらしい。もしも人間しか食うものがなくなったら痩せたものから食おうなどと思いながら肉を飲み込む。
胃が満ちる感覚がとっくに過ぎてもなお、ユーリの身を溶かすような恋情もユーリの妻子たちの悲哀もとんと理解できない。当たり前だ。理解できるわけがないだろう、人間のことなぞ。
哀れだなあ。笑いが零れるほど哀れだなあ。お前を食っても私は変らない。
ユーリの肉は私になんの影響も及ばせず。ただただユーリは無意味に生きて、死んだ。
自分を、人魚さえ、殺すこともできずに死んだ!
ああ、理解できないものはこんなにも胸を高鳴らせて、愚かなものはこんなにも私の退屈を喜色に塗り替えてくれる。私は人間が好きだ。
ああやっぱり退屈しない。愚かで滑稽な人間が収まった腹の奥からくつくつと笑いが沸き起こってくる。
私は人間が好きだ。食べてやっても構わないくらい、人間が大好きなのだ。
そしてまた、そうっと反吐が出るほど不味い病人の肉を口へと運び、夢中で噛みついた。
シャーデンフロイデを召し上がれ きょむ太郎 @suraka
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