蓼食う人魚 四頁目
葉に透ける光や海のように揺れる水流を楽しむうちにあっという間にユーリの家の門までたどり着いていた。ユーリの奴隷が輿がゆうゆうと通過できる程の門を封じる扉を開き、塒まで案内した。寝室の扉の前まで奴隷に運ばれていたが、二人きりでの謁見を望んでいるとの話だったので、そこからは輿を下ろさせ一人尾びれで立って寝室へと入っていった。「魚神様」と巫女や見張りのものなしでの対面が許されるのも、ユーリがやたらと里のものたちから同情され持ち上げられているからだろう。
件のお優しくてお労しいユーリは部屋の奥に寝台に横たえられていた。寝台の近くには椅子や茶器の乗った机が当然のごとくおかれており、頻繁に面倒を見られていることが察せられた。しかし、いくら人の手が入ろうとも、やはり死の近づく音は消し去れない。痙攣でしきりなしに衣擦れの音が静謐を破り、できうる限り清潔に保たれている空気には肥えたような臭いが微かに漂っていた。
「ぇ……謁見の、きょ、許可を賜り恐悦し、至極、でございます。うぉ、魚神、様」
手足の痺れが唇にまでまわっているのか、すっかり以前の明朗な口調は消え失せていた。
奴隷の身分ながら、聡明さと人望の厚さを買われて長にまで上り詰め、贄にまで同情してやり良い買い手の許に送りたいと一人あれこれと奮闘しても、衰えに逆らえぬ人間の性からは逃れられないのだ。この男は妻の、子の、贄の無数の死を抱えながらあっけなく死んでいく、惨めに苦しんで死んでいく。それは哀れでありながらいっそのこと清々しくなによりも美しいもののようにすら思えた。
促されるがままに寝台の横の椅子に座り、無言で本筋を話すように促すと、哀れな病人は手足と一緒に唇をぶるぶると震わせてこういった。
「う、う、魚かひ、様、魚神様、に、食べて、わたし、をた、べて、いただきたいの、で、ございます」
「何だと?」
ユーリは乾いた顔をにこりと歪ませて、繰り返そうと割れた唇を魚のように開閉する。唯一潤っている眼だけがおぞましい程の力強さをたたえている。ようやくおかしな部分が明るみに出たのやら、病で気をやられたのか皆目見当もつかないが、とりあえず慕われ崇拝されていた男が落ちぶれる様は何度見ても面白い。
「う……魚神様に……食べて…いただきとう、ぞんじます」
ここで了解しては面白みに欠けるだろう。笑いをこらえて憮然とした態度を徹する。
「わらわに病人の穢れた肉を食えと申すか」
暗に「神罰」が下るぞという脅しを込めて冷たく言い放つと、何故だかユーリの瞳には溢れんばかりに喜色が宿った。
「ぇ、ええ、そう、です。たべ、たべて、食べてください。私を」
その言葉は、病人の戯言にあるまじくあまりにも真っすぐだった。一片もの矛盾がないかのような、無条件で従わねばならぬと思わせるような圧のような確からしさが、この苦しく笑う病人のとぎれとぎれの言葉には確実に籠っていた。私は、ついそのことが面白くて、面白くて、堪らなくなって腹を抱えて笑った。すると気の狂った病人もつられてつっかえつっかえの不気味な笑い声を漏らす。やはり此奴は哀れでも立派でもなく面白おかしいただの人間なのだ。
「ふっふふん、まあ、良いだろう。しかし、理由を話せ。わらわは退屈が嫌いなのだ。わらわの退屈をまぎらわせられたのなら、褒美として食ってやろうではないか」
「はっ、はは、ふふぅっ……いゆう、理由ですか、そ、そうですね……それは、妻と、子供を、永遠のものに、したかっ、したいから、です」
「永遠のものとはどういうことだ?」
病人は一瞬前の頓智気な笑い声を急に凍らせて、黒曜石のような固く気味の悪い程にちかちかする眼光で私の頬を刺した。なにやら幻覚でも見えているのかと思えば急に訥々と音をたたき寄せて来る。
「私は、私はにんげ、人間が好きです。あ、愛しています。特に女と子供を……一心同体になりたい。殺して、食いたい、から、食べました。つ、妻と、子供を、食べました」
なんだとため息が出る。所詮は呆けた病人の戯言か。やはりこんな異常者の末路など、文脈の破綻した三文小説のようなもので、いい加減でろくでもないと決まっているのだ。堂で男に酔っている巫女の方がよっぽど真っ当におかしくて面白みがある。
「お前の妻は死んだ。皆馬鹿で病弱だったからな。そしてお前の子供は売られた。お前が奴隷商に売りさばいたのだ。忘れたのか?」
「えっ、えぇ、覚えて、います。妻は、ダーマは、殺しました。茶に、毒を入れました。お、私の、故郷、の村に伝わる、もの、獲物に使ってもぃ、火をよく、通せば、人に害はありません。し、しかし、やはり、人と獣では、体の構、そ、造が違うからでしょうか。こう、病に臥せって、しまいました」
確かに、この里には妻が起きないうちに朝一番に夫が妻に茶を淹れてやる風習がある。毒を盛るのは容易であろう。しかし、葬式の時に見たこの男の最初の妻の死体はどこも欠損がないばかりか、かすり傷一つない程に状態が良かったはずだ。
「あの、葬式の後に、し、深夜、墓を掘り返して、ダーマの、ダーマの頭を、持ち帰った、もっと、全部た、食べたかったのに、カンテラ一つでは、くろ、暗くて、頭を持ち帰るのがせい、精一杯でし、た。でも、良かった。ぉう、脳みそさえ、食べられた、ので良かった。はっ、ははははっふ、ははあ!」
安心した。これなら暇をつぶすのに十分であろう。
書で人間が人間を直接的に殺す話を読むことはあれど、人間からそんな話を聞いたのは今日が初めてだ。やはり幾度見渡しても世間には私の知らないもので溢れかえっている。
人間の作る世界はどうしてこんなに豊かで美しいのだろうか。
そして、こんなにも豊かで美しく世界を教えてくれたのだから、きっとこんなにもみすぼらしく汚らわしい病人だって私は約束通りに食べてしまうのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます