蓼食う人魚 三頁目

 半世紀近く魚神様で居て解ったことの一つは、件の巫女様と呼ばれた老女は一等あわれな人間だったということだ。

 この地では生まれつき目の見えぬ女を神と通じあえる巫女として世話役の奴隷と一緒に里からやや離れた小山の堂に祭り上げて、贄を決定させるのが習わしだった。私に言わせれば神なぞ発狂者のたわごとに過ぎないが、愚かなこの里のもの達にはそれがわからないらしかった、というよりも、この里のもの達は愚かで哀れなので都合が良い破綻した理屈を野放しにしているようだった。

 この里のものたちは収穫した作物の大半を領主様とやらに寄こさなければならないらしく、皆が皆今日明日食べていくのにも苦労しているようであった。

 特に日照りが続くと何人も死んだ。一度その領主様とやらを殺せば済む話ではないかと尋ねたら真っ青な顔で「滅相もございません」と喚かれたのでそれ以来助言はしてやらないことにしている。あまりにも愚かなのが大変に滑稽だ。そのような有様だから、この里のものたちはなんとか自分の家族だけは食べていけるようにと使えない子どもやなにやらを贄として処分して食い扶持を減らしたり、買い手がつく様なら売って明日の飯のたしにしていたのだ。

 しかし人間とは不思議なもので、大多数が食っていくために死んでくれと言い渡されるよりも、魚神様のご機嫌を取るために死ねと巫女から告げられる方がよっぽど気が楽なようだった。そんな理解しがたい里のもの達の欲求を満たすためだけに使われていたのが巫女だった。

 どの巫女も目が見えぬ女だと気づかれたときから四方八方に「巫女殿だ」「魚神様の御心を唯一解せるお方だ」「ありがたい、ありがたい」などと粘着質に吹き込まれるから、どいつもこいつも本気で自分が魚神様と、私と通じれるものと馬鹿正直に信じ込んでいて滑稽であった。

 比較的頭の冴えた巫女もいたが、賢いものは反って私を大仰に崇め奉った。賢さゆえに私の優位性が失われたら、自分が里のものたちを殺さなければならないことに気づいているのだ。

 かつてあの退屈な海の浜辺で読んだ本では戦争というもので人間が楽し気に殺し合う様が瑞々しい筆致で描かれていたので、私は人間というものは殺し合いが常なのだと思い込んでいたがそうではないらしい。里のものの挙動や暇つぶしのためにと持ってこさせた書物を総合して鑑みるに、人間は特定の条件を満たさない限りは同族殺しは忌むべきものと考えているらしかった。そしてその条件の最たるものが「神様の御心」であろう。

 ようは、私はとうとう半世紀近く里のもの達の言い訳のために使われてやっているわけだが、さして悪い気はしない。尾びれが何日経っても痺れるまで散策せずとも、たった一言書を持ってこいと言うだけであらゆる知識に満たされることができるからというのもあるが、何より書以上の面白いものがここにあるからだ。

 つまり人間だ。私が無力な子どもや足腰の立たぬ老人を指せば涙ぐみながらも安堵し、気まぐれで労働のできるものを指してやると涙さえ流せずに明日は我が身と打ち震える人間のなんと面白いことか。人魚よりもずっと短い生をひたすら身を削りながら進んでいく人間の愚かさと滑稽さはどうしようとも語りつくせない。

 人間は私の退屈な人生をひっくり返して、こんなにも豊かにしてくれたのだ。神様で居てやるくらい耐えてやるのが道理だろう、神様で居る限り無限に人間の哀れなさまを楽しめるのだし。

「魚神様、魚神様。聞いておられますか」

 書を閉じ読了感に浸っている間に追想に耽ってしまっていた。内心せわしなさを感じつつもゆったりとした動作で姿勢を正す。

「再び申せ。稲を重くするのに力を割いておったのじゃ」

 なるべく明朗に謁見しに来た巫女へと語り掛ける。里のものは口ぶりや身振りにもそれらしさを持てめているようだったから、早いうちに書に出て来る王だの殿だのの言動を真似たのが今やすっかり板についてしまった。

「ええ、わたくしめも魚神様の御力で大地がみなぎるのを確かに感じました。しかし、魚神様、ことは一刻を争うのです」

 気弱な質なこの巫女が、奴隷以外に対して神懸かりになった時のように力強くものを言うのは大変珍しいことだった。よりにもよって私に向かってこのように言い放つのは幼少期以来初めてではないだろうか。しかも、その言葉は妄想にとらわれ出鱈目を吐き出すときとは異なる一貫性のある何かを言葉の裡に潜ませているのだと思わせる確固たるものの輪郭を感じさせる。

「うむ、聞き届けよう」

 急かすのを抑えきれずにそう付け足すと、いっそう巫女は朗々と語りだした。

「ユーリ殿が臥せってらっしゃるのです。手足が痙攣しもう立つこともままならず、言葉を交わすのがやっとの状態です。どうか魚神様の御力でユーリ殿をお救いしてくれませぬか。ユーリ殿は奴隷の出ではありますが、その明晰さと屈強さでもって里に多大に貢献し、自分の子らもすべてを魚神様の贄にと捧げました。その魂の清らかなるや、里の外でもユーリ殿を称える声が轟くほどです。魚神様、どうかユーリ殿を悪しき病魔からお救いください」

「できぬ。ユーリが臥せっておるのは病魔故ではない、自然によって定められた死期が迫っているだけのこと。自然の掟を破るは大罪じゃ。破ればこの地は永久に不毛となるだろう」

 私に治癒能力などないのだが、この生活を継続させるためにそれらしい理由を並べ立てて断言すると、巫女は芯がとろけたようにくたりと座り込んだ。このような打たれ弱い性根のものは大抵成人した後に次の贄は私に、と迫ってくるのが常であるが、この巫女は随分と長く持っていた。というのも、ユーリという遠い地から奴隷として運び込まれたものがいつの間にやら長となった頃から、陰で巫女たちを人間扱いするようになったからだろう。

 神事の準備でもないのに散歩だなんて宣って堂を訪ねては、巫女に「身体の調子は悪くないか」「今年の果実は一等甘いぞ」だなんて話をする。「吉兆の兆しはあるか」だとか「森の精霊は憤っておられないか」だとかいったことしか聞かれぬのが巫女というものなので、たったそれだけであっさり心を溶かされてしまうようだった。ユーリの二度目の挙式が終わった後に「次は私を」と泣いたあの巫女のように、此奴もどうせユーリに惚れているのだろう。

 どういうわけか里ものも、この巫女も、死ぬのが何よりも怖いくせに、あんな、贄をより良い買い手の許に送ろうと苦心したり、病弱で何もできないような女ばかり娶ったりと善業に走るばかりに、死の染みついた男に現を抜かしているのだ。

 彼奴は何を考えているのやら、病弱で馬鹿なものばかり娶るから結婚して十年もたたずに嫁が病に臥せって死んだり落ちて死んだり獣に襲われて死んだりした。そのたびに殊勝に涙を流して、五年の喪を過ぎたらまた性懲りもなく馬鹿で病弱な嫁を招くのだ。それで結局四回結婚して四人とも死んだのだから頭がいかれているのは火を見るよりも明らかだろう。しかし、里のものたちはやはり愚かなので「ユーリ殿はお優しい」「ユーリ殿はおかわいそうだ」と滑稽な鳴き声を合唱させて見せる。

 そもそも奴の嫁が全員死んだのも奴が態々病弱で馬鹿な女ばかり娶るからだし、奴の子供がすべて贄に出されたのも母親の影響で病弱な子供しか生まれなかったからではないか。あれではどうせ長く生きれないだろうと解ってユーリは奴らの死を看過したというのに、何処が哀れで立派だというのだ。奴が死にとり付かれた異常者だというだけの話である。

 呆れて黙りこくっていると、巫女がふらふらと立ち上がる。まったく此奴もとり付かれていやがる、神ではなくあの男に。つくづく滑稽だ。

「では魚神様、どうか村長とお話していただけないでしょうか」

「話とな?」

「ユーリ殿が最後にどうしても魚神様に謁見する機会を得たいと懇願していらっしゃるのです。御輿と奴隷は既に用意が済んでいます。どうか一人の高潔な魂が無事天へと導かれるよう御力添えを頼み申します」

「何故わらわが行かねばならん」

 断る理由もないが、普段堂から出ずに用があるときは人間の方からこちらに足を運ばせることで威厳を保っている面があるのだ。そう易々と頷くわけにもいかない。

「失礼の程は重々承知の上でございます。しかし、村長は今病に臥せっていて、今にも死んでしまいそうなのです。少しでも体を揺らせばもう、息をひきっとてしまうのではないかというほどに」

「なるほど、こちらまで運びようもないので、わらわから赴けとな?」

「恐れ多くも」

 どうやら巫女は命に代えてでも村長の許に私をよこしたいようだった。弱った病人を見舞いにいくだなんて気乗りしないが、巫女とこれ以上言い争う訳にもいくまい。何よりあらかた書を読んでしまったので暇を持て余している。

「うぬがそれほどまでに申すのであれば、これもまたこれも定めの一つやもしれぬな。すぐにでも支度をせい」

 巫女は舞い上がって何度も「有難く存じます」と繰り返し唱えると、小走りして奴隷に支度をするようにと甲高く命じた。願いを叶えてやっても、もうあの男が礼をしに堂へ訪ねて来ることもなかろうに、よくもまあ精を出せるものだな。これぞ人間の愛がなせる業とも言うのだろうか、これは本当にとてもとても面白くて退屈しない。

 ため息を吐きだす様にほくそ笑むと、私は尾びれをそうっと輿の水槽へと漬けた。

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