蓼食う人魚 二頁目

 元より頓馬なうえに、激しい突風と打ち付けるような水滴にふらつく妹を獄鷹に攫わせるのは、言うまでもなく容易だった。

 しかし、地から完全に足が離れる直前に妹が私の腕に縋りついたのだ。踏ん張ろうにも足元は水に浸った草と土だ。あっさり妹の腕を振りほどく前に獄鷹に妹とまとめてわし掴まれる。鋭い爪が肌に食い込む痛みで脳がくらくらして何も考えられなくなりそうになる。

 死んだら、いよいよそれこそ何も考えられなくなる。

 一気に頭が冷やされる。死んだら苦しみも喜びもなくなって、昨日のようにひたすら楽しくてたまらない気分をもう二度と味わえなくなってしまうんだ。

 そんなのは嫌だ。やっと楽しくなると思ったのに、ようやく面白くなったのに、ここで終わりだなんて。考えろ。考えろ。考えろ。頬を切り裂く風の強さも、肌を這う血の気色悪さも、けたたましい妹の叫び声も気にするな。もっと面白いものを見るために今を生き残ることだけを考えるんだ。

 私はとっさに妹の王冠を取り上げると、妹を無我夢中で蹴った。

「あ、いや! いたいいたいいたいよ、おねえちゃんいや、なんで」

 獄鷹がややバランスを崩す。私は掴んだ王冠を腕に通して両手で獄鷹の足に縋りついた。

「ごめんね、痛いよね。でも、このままだと二人とも食われるんだぞ! おまえだけでも逃げて!」

「うぅ、やだよ、やだぁあ! おねえちゃんもいっしょじゃなきゃやだぁ、あっ、いたい、いたいよ」

 やはり退屈な海しか知れず死にゆく妹はこの高さから放り投げられることの意味も察せずに、ただただ私にすり寄ることしかできないようだった。馬鹿だなあ、あくびが出そうなほど馬鹿だなあ。きっと二人の体重に耐えきれなくなった獄鷹がもうすぐ仲間を呼んでしまうから、そうしたら私は抵抗もろくにできずに空中で獄鷹の鋭いくちばしに張り裂かれる他ないからおまえを落とそうとしてるのに、おまえは人魚といえど地面に叩きつけられたらひとたまりもなく死ぬのに。

 結局妹の体力ではまともに縋りつづけることもできずに、あっけなく地面へと吸い込まれていく。

「いやっ、かみさまっ、ねぇかみさまたすけて……たすけてよぉ!」

 きっと足元に広がる見たこともないような先の尖った木々に柔らかい肌を滅茶苦茶にされて死ぬのだろうな、そう思った瞬間にそれは現れた。

「悪魔……?」

 妹の悲鳴に応えるようにあの悪魔が現れて、妹を包み込むとゆっくりと下降していった。まさか、まさか悪魔が対価を受け取る前に願いを聞き入れるだなんてそんなことがあり得るのか。異様な事態に目を凝らしていると悪魔の顔がふとこちらをむく。まるで、こちらを睨むように、お前ばかりは助けてやらないぞと宣言するように、まるで、悪魔という単純な生物に複雑な意志が宿っているように。

「くっ……あは、あははははは! なんだよ、あいつら結構面白いじゃないか!」

 あの馬鹿な二つの生き物がこれからどう生きてどんな風に終わるのか、それはきっととても愉快でたまらなくて全然退屈しないものに違いない。けれど身が軽くなった獄鷹はより一層翼を早めていて、瞬く間にあの悪魔と人魚の姿は見る影もなくなっていた。

 あれの行く末が見られないのは確かに惜しいが、私たちはもうそれぞれ別の頁を開いてしまったのだ。取り返しようのないものを悔やんでもつまらないだけで、むしろ私の知りえないものがあまた広がっているということは、反ってとても素晴らしくて最高に面白いことのように思えた。

 ともかく、私は生き延びなければならない、もっと頁をめくるために。

 王冠を腕に通している方の手を獄鷹から放し、煌めく王冠を獄鷹の目の前へと投げる。獄鷹は瞬時に王冠を認知すると、それを追いかけて下降していった。小さい山の頂上の近くへと近づいていく。遠目で湖と人間の手が加わっているであろう建造物が見えた。人魚の肉を食うと不老不死になるという伝承もあるから、とりあえずは湖の方へ逃げるのが得策だろう。獄鷹が地面に着地し王冠の方へと歩み寄る直前に、振り払うように獄鷹から手を離すと湖の方角へと疾走する。

 獄鷹は始めこそ逃した獲物を捕らえようと四方に鋭いくちばしを振りかざしていたが、獄鷹の目では光り物をつけていない私を捉えることはできないのだろう。湖に飛び込むまであと数歩のところで獄鷹の嘴が草木を切り裂く音が止み、湖に潜り込んでしばらくしたころには獄鷹が王冠を携えて遠くの空へ飛び立つ姿が水面に映し出された。

 一息つくと、獄鷹に裂かれた傷口が熱く疼いた。しばらく水中でじっとしていれば治るだろうが、存外この湖は底が浅く、ここの近くに住んでいる人間から身を隠すことができない。これでは日が完全に沈んだ後にここから出て新たな隠れ場所を探さねばならないだろう。それまでは水草の影に息をひそめてできるだけ傷を癒そう。

『ハズミ、ここで間違いないか』

『ああ、ちょうどこの辺りに降りたはずだ』

 ふと誰かの声が、恐らく三人ばかりの人間のものと思われる声が水面ごしに鼓膜を揺らした。風に乗れば滅多に陸地に降りることがないという獄鷹が降りたのを不審がって探りに来たのだろうか。草木を踏みしめながら辺りをまさぐる音が耳障りだ。

『おい、見ろ!』

『血痕が……きっとけが人だ。追いかけるぞ』

 足が土を踏む音がだんだんこちらによってくる。今すぐにでも深く深くに潜って身を隠したいのに、全身を潜らせるながやっとの水深では十分に身を隠せない。洞窟のようなものもなく、ただ水草の影に息をひそめる他なかった。息を静かにしようとするほど心音のせわしなさがひどく響き渡るようだった。

『水に血が滲んでいる。早く引き上げなければ……いや、もうしくはもう……』

『とにかく引き上げよう』

 荒い呼吸と鼓動があまりに近くて水に肉塊が沈む音がずっと遠くの方で聞こえるかのように感じる。何か、何か対策を取らなければ、なんとしてでもここを切り抜けなければならないのに、まるで今起こっていることが本の中の出来事のような自分ではどうしようもないものに感ぜられて、爆発しそうな混乱を置き去りにして圧倒的な無力感に身体はすっかり腑抜けていた。ただただ人間たちが水を切ってこちらに近づく反動が肌まで響く。

 あっと思ったときには一体の人間が眼前に迫っていた。私よりも幾ばくか縦に長く、胴の太さは二倍ほどもあるかのように見える。人間を直接この目で見るのは初めてだが、図体からこれが人間の雄であることがわかった。人間の雄であればおおよそ一般的な人魚より力が強く、肉が厚くて固いから鰭で叩こうにも歯で突き破ろうにもまともな抵抗にならないだろう。急な水の流れを感じて横を見るともう一体人間の雄がこちらを視線でじっと捉えんとしている。とうとう八方ふさがりだ。甲高い悲鳴の一つも上げられないまま二体の人間に左右を固められ陸に追いやられる。藁にも縋る思いで尾鰭に巻き付けた水草は何の抵抗もなく根本ごと私の身体と共に打ち上げられた。

「カカラ、すぐに巫女殿にお声がけをしてくれ!」

「魚神様だ……魚神様がまたこの地におはしてださったんだ」

 私を引き上げた人間たちが河口の近くで待ち構えていた人間にそう叫ぶ。巫女とは確か神職の一種だったか。では奴らの言うウオカミサマとはこの土地の伝承の神か何かだろう。そして、この様子だと私のことをそのウオカミサマだと勘違いをしているのか。人間は人魚よりよっぽど賢いなどと聞いていたが、やはりその中でもどうにもならない馬鹿はいるのだな。呆れと安心でほうっと息をつく。私は人間という種に抱いていた幻想を打ち砕かれた失望と共に一先ず犬死を逃れた安堵をかみしめていた。

「そう、だな。確かに、伝え聞く魚神様そのものの出で立ちだ。ああ、ようやく、ようやくだな……」

 唯一水を滴らせていない人間が朗読師もかくやという程に感慨に浸って言葉をこぼすと、濡れた仲間たちも「これで救われる」「これで誰も飢えずに済む」などと口々に言う。無論私に人間を救う力もなければ救う気もないが、奴らの伝承では魚神様とやらが豊穣をもたらせてくれるということになっているのだろう。

「しかし、魚神様は玉体のところどころが裂け大変に弱っていらっしゃられる。このままでは……」

「贄が必要だろうな」

 贄、たったその一言で意気揚々としていた三体の人間が凍り付いたのかのように固まって中空に視線を惑わせる。贄とはまさか家畜の死骸のことだろうか。私としては海のもの以外はどうも口当たりが悪いので口にしたくないが、下手に動いて奴らに伝承との矛盾を感じさせてしまえば身の危険は避けられない。ただ黙して人間たちの出方を伺う。

「どうか俺の子供だけはやめてくれ。ようやく仕事も覚えてきたんだ」

「安心しろ。ここにいる者たちは魚神様をお助けしたのだから、きっと巫女殿も慮ってくださるだろう」

 なんと人間を生け贄として差し出そうとしていたのかと瞠目する。陸のものの中でも人肉は臭いし固くて食べられたものではない。そんなものを食わせられようとしているのかと思うと背びれがやけに冷たくなった。

「贄はいらない。傷は水に浸っていれば治る」

 とっさに口を開くと、人間たちはびくりと縮こめていた体を反動かのように大袈裟に跳ねさせて、恐る恐るといった風体で黙りこくる。何分人間と話すのは初めてだったから上手く通じなかったのだろうかと戸惑っていると、陸で待っていた人間が長いようで短い沈黙を破った。

「う、魚神様、誠に贄はいらぬので……?」

 金輪際そんなものは寄こすなと言いたいところだった。しかし、この反応を見るに、伝承では魚神様とは贄として人間を要求するのが常なのだろう。むやみにそれを否定するべきではない。

「今のところはいらない。一晩この湖に浸れば傷は治る。あと魚を持ってこい」

 やや浮き立つのを抑えきれない人間たちがしばし「では川で魚を釣って」「いや、まず魚神様を野ざらしにするわけにもいかないだろう」などとじゃれ合うようにもめて、結局は特大の甕に水と一緒に入れられて湖の近くの建造物の奥まで運ばれた。

 この小山の丁度頂上にあるしんとした堂で、巫女様と呼ばれる枯れ木のような老女と出会ったときから私の退屈な物語は終わり、そして新たな魚神様の物語が始まったのである。

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