蓼食う人魚 一頁目

 私の人生の大半は絶望だった。

 あの海で卵のぶよぶよした皮を脱ぎ捨てた瞬間から、眠気も覚めるほどの淡々とした退屈が底の見えない海底のどん底まで溢れかえっていることに気づいてしまったのだから。

 まだ私があくびも押し殺されるほど長閑な海にいた頃、私には「妹」がいた。

 もちろん私たち人魚は、メスが水草なんかの近くに適当に排泄したバカみたいな量の卵に、オスが適当に精子をばらまいたものの内の運よく食われなかったものが生まれるのだから、たまたま近くで生まれただけの個体が近親者かどうかなんてわかりようもない。卵は同じでも、引っ付いた種は違うのかもしれないし、そもそも波に流されて偶々たどり着いたまったくの他人かもしれなかった。

 実際、妹は私に似ず、どうしようもない頓馬だった。

 妹はとんでもなく馬鹿な上に弱いから、近くで生まれただけの私を姉だと信じ込んで、私だけを頼みに生きていた。私は最初こそ馬鹿な妹を面白がって、あの魚さんたちが仲良くしたそうにしているよと嘯いてわざと鋭い歯をもつ魚の群れのなかに置き去りにしたり、とっても体に良いお薬だよと宣って毒草をたべさせたりしていたが、あんまりにも妹が馬鹿なのがどうにも癇に障って仕方がなくなるのにそう時間はかからなかった。

 妹はいくら私が害しようとも、可哀想なくらいに馬鹿なのでより一層私を慕い、私のそばから鱗一枚分たりとも離れないようになった。はじめの頃こそそんな妹で遊ぶのが良い暇つぶしになったが、やはり馬鹿なので言動が一編通りですぐに飽きた。つまらない言葉を甲高く並べたてながらぴたりとくっついてくるのが、とてもではないが耐えきれなくて、私は生まれて初めての嵐の日に、二人の巣の奥で震える妹をかどわかして陸まで引き上げて、妹を獄鷹につまませたのだ。

 想えば、あの嵐の日に私のさび付いた歯車がようやく動き出したのだと思う。

 本来、退屈で仕方がないあの海には嵐なんてものは起こりえないことで、私もその時が来るまでは石板に掘られた文字列でしか嵐というものを知らなかった。しかし、あの日突如として嵐が水平の水面を轟かせて、しつこく纏わりつく海藻も背だけが高い陸の木も千切れてばらばらになってしまいそうなぐらいにかき乱したのである。この興味深い状況を作り上げたのは妹なんかに執着していた馬鹿な悪魔で、悪魔にそう差し向けたのはほかならぬ私だ。

 人魚の中でも石板をひっくり返したり、陸に投げ出されている本や木の巻物をひっくり返して読み漁っていたのなんて私くらいだったから、海の中でのうのうと一日の大半を居眠りしていた残りの馬鹿どもは悪魔のことを「ちょっと疲れることをすれば願いを叶えてくれる便利な装置」くらいにしか考えていなかっただろう。退屈に殺されそうになって必死に文字にしがみつていた私だけが、あの便利な生き物を「悪魔」と呼ぶらしいことと、悪魔が願いの対価に要求してくることが人間の性交渉を模した行為であることを知っていた。

 悪魔という生き物は契約者の願いを叶えてやる代わりに、男の前には女として現れ精を搾取し、女の前には男として現れ男の契約者から搾取した精を植え付けるという一連の作業を永遠に繰り返すしか能のない汚らわしいくて愚鈍な生き物なのだ。馬鹿な人魚たちにとっては卵管に肉棒を突き刺されるのも鼻の穴に珊瑚を引っ掛けられるのも大差がなかったろうし、直接卵管に精をぶちまけられても人間のように孕むわけではなかったから大した実害もなかった。だから人間の間では忌み嫌われていた悪魔も人魚たちの間では便利な装置として重宝されていたのである。

 特に、妹ときたらろくに理解もしていない神様だなんて言葉で悪魔なぞを持ち上げた。それを真に受けたのやら、それとも馬鹿同士気が合うのか知れないが、悪魔は妹のことが大層お気に召したようで、天候を変えるだなんて荒業まで妹だけにはしてやるようになった。悪魔は妹が何日も照り続ける夏季の太陽に飽きたらその破れやすい身を不器用にほぐしてから犯して雨を降らせてやり、雨期の肌寒さに凍えている体を抱き込むように犯して晴れ間を作った。単純な与奪の円環の外から出られない下等な生き物が、馬鹿の言葉を真に受けてまるで人間のような仕草をしやがる。しかも妹はそれの意味も知らずに神さま神さまと甲高い声ではしゃぐのだ。こんなにも見ていて面白いものはなかなかない。

 随分その滑稽なさまに暇をつぶさせてもらったものだが、妹の愚鈍さに対する呆れと悪魔の分不相応に浮き立っている様子への好奇心が同時に募っていくうちに、私の脳裏には一つの退屈をかき消すような考えが浮かんでいたのだ。

 妹に嵐を起こさせるよう悪魔に頼ませてみたらどうなるだろうか。

 妹は私が暇つぶしで取ってきて捨てた王冠を自分へのプレゼントだと勘違いしてずっと身に着けているから、きっと嵐が起こった時に陸に上がらせれば、切り裂く様な嵐の風に乗って飛んでくると言う獄鷹の鈍い目に見つかって巣穴の奥ではらわたを啄まれることになるだろう。

 そうだ、嵐さえ起きれば、鬱陶しい妹を処分できるし、自分の能力のせいでお気に入りの人魚を失った悪魔がどんな滑稽なさまになるのか観物できるではないか。

 そうして私は馬鹿な人魚に嵐はどうも大変面白い現象のようらしいから嵐を起こして一緒に陸に上がって遊ぼうなどとその場で考え付いた嘘を並べ立てて、妹を悪魔に犯させた。

 やはり天候を操ることはだいぶ堪えるものなのか、初めて目にしたときは私の五倍はあったであろう悪魔の体長はいつの間にか三倍ほどに縮んでいた。それでもやはり、大変滑稽な生き物なので妹の提案に少しも戸惑わずに頷いてさも放し難そうに卵管を犯した。

 しばらくして悪魔はぐったりとした妹にまたがるのを止めて、名残惜し気に横目で見た。それを妹にまたねとゆったり手を振られたのを恥じ入って波に飲み込まれるようにその場を去っていった。

「おねぇちゃん、あらしがくるよ。あしたにね、あらしがくるよ。わたくしね、きちんとね、かみさまにおねがいしたもの」

 股からふよふよ種を垂らしながら以前に私が読み聞かせてやったおとぎ話の御姫様の口調を拙く真似る妹を見るともう耐えきれなくて、私は生まれて初めて腹を抱えて笑った。

 妹は何を勘違いしたのかよろよろと寄ってくるときゃあきゃあ笑いながら私の背びれに手を這わせて胸にくすぐったい髪を押してけてくる。これから何かが変わるという予感が、いくら考えても明確な答えの出ない明日が、もうなんだか愉快で愉快でたまらなくて普段なら不快でたまらない妹の体温も心地よかった。

 私が揶揄するつもりで妹に抱きしめ返してやると、またきゃあきゃあ鳴いて今までで一番強い力できつく抱きしめられる。深海に潜ろうとしたときのような内臓が沈む感覚にまた笑った。

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