シャーデンフロイデを召し上がれ

きょむ太郎

信仰の旨味

 すっかり私は老いてしまった。

 神のありがたきお言葉を常日頃からそらんじるという幼少の頃よりの習慣があった故か、痴呆になりはしなかったものの、このところ寝ることや食う事すらままならない日々が続いていた。

 毎晩固い寝台で浅い眠りを待つまでの静かな暗闇の中で何度人倫を逸する程に生に執着し、恐るべき祈りを神の目下にさらしただろうか。

 今日も生きているという安心と、今日こそ死ぬやもしれぬ不安と、焼き付く様な朝日に身を掬われそうになりながら何度神に昨晩の過ちを懺悔し、許しを請うたろうか。

 愚かな私は、神のお与えになる死後の楽園を信じながらも、やはり迫りくる逃れえない死に対する恐怖を払拭できずにいるのだ。

 拭いきれぬ不安の中でただ一つ明瞭なことは、物心のついた頃から神を信仰し、青春を神学に捧げ、死の間際まで神の教えに忠実であろうと志そうとも、私のような凡夫では聖典に名を連ねるような聖人にはなれぬという事実だった。

 しかし、それでも良いのだと今は感じる。太陽と月が入れ替わるごとに荒廃し貧しくなっていくこの村の人々が抱える不安を私は実に深く理解し、この人々が欲する言動が手に取るように理解できたからだ。

 それ故に、私は凡夫の身の程を弁えぬ役職に居座る恥に耐えながら、この終わりゆく村の神父として、戸惑い怯える村人たちに神の与えられた死後の楽園が絶対であるから、神に背く様な行いをせず日々を清く正しく過ごしていけば死は怖くはないのだと再三言い聞かせていた。

 元来、この村は険しい山々に囲まれ水源も心もとないだけでなく、土壌もやせ細っていたが、秋になると冬眠を始める鬼熊の寝首を掻いてそれの毛皮や肉や臓物や牙やらをすべて山々を超えた隣村に売りさばくことで生計を立てていた。

 決して裕福ではないが、穏やかな日々と清貧を貫く美しき人々が確かに以前のこの村には息づいていた。

 しかし、それも三年前に秋が潰えるまでの話である。

 それはまったくもって前触れのない出来事であった。突然、冷涼なこの土地に日が燦燦と差したのである。本来ならば一年を通して肌寒く、冬は一層凍えそうな鋭い風が吹く土地であったのに、その日から、一年の半分は大量の雨と日差しが降り注ぎ、もう半分は雪も降らない乾いた冬が居座るようになった。

 当然ながら、細々と育てていた自給用の作物はすべて朽ちて、冷たい風に親しんだ家畜たちも次々に倒れ、村のカーペットの大半は豪雨で水浸しになった。そして、何よりも痛手であったのは、鬼熊がとんと山にでなくなったことである。

 まともに稼ぐどころか誰もが十分に食っていかれぬ状態となった。

 自力で山を越えられる者の内の半分は遠い親類などを頼みにして村を出ていき、残りは村から出られぬものを食べさせるために隣村などで出稼ぎに出されたり、売られたりした。

 今この村に残るものは、足腰の弱い者や、私の様に王家から賜った役職ゆえ村を後にできないものばかりであった。遠からず死ぬことを前に、初めのころはいさかいや怒号が止む日がなかったが、今となっては私も、その他の人々も一日一日をやり過ごすように息をひそめて静かに暮らしている。

 しかし、それは死を受け入れた上での行為ではなく、ただ幼子が泣き叫ぶのに疲れて大人しくしているだけのようなものだ。少しでも刺激が加えられればまたあの恐怖にまみれた混沌が我々を支配してしまうだろう。

 それだけは避けたかった。私は、王の勅命により若くして神父としてこの村に居ついた日から、五十年もの歳月をこの村の人々と苦楽を共にしてきた。私はこの村の弱くも優しかった人々がまた獣の様に怒りに身を任せて吠えたてるさまなど見たくもない。

 かくして、私は休息日以外の日中はこうして礼拝堂の真横の薄暗い納屋をカーテンしきり、それぞれの区画に椅子代わりの樽を一脚ずつ置くことで簡易的な懺悔室とするこにした。

 もちろん、村人の顔は全員嫌という程見知っているから、カーテンで区切られたくらいではその人の正体は私に筒抜けであるし、いかんせん礼拝堂は村の中心部の開けた場所に立地しているから、周りの村人にとっても誰が懺悔室に向かったのか把握するのに難くはないだろう。

 しかし、我々に必要なものは見ないふりをする口実ただそれだけである。

 皆、誰しもが極限状態であり、悲しみと怒りの渦に飲み込まれそうになっていることは重々承知なのだ。それにあえて目をそらすことでこの村はまだ成り立っているし、逆を言えば素知らぬふりをする余裕さえ奪われればすぐさまこの村は破綻してしまうのだ。

 故に私は薄い麻布で仕切られただけの納屋を「懺悔室」であると触れ回り、村人たちも誰が何を言ったかはわからないという信憑性のない私の言を信じ込むという選択に至ったのだ。

 これで村人たちは不安を最も暴力から遠い形で吐き出すことができるし、私は死への不安を和らげる使命感を得られた。

 私たちは上手く終わって行けてる。きっと神もこの哀れな人たちをお救いになるだろう。

 ぼんやりとため息をついたところで、ぎいっと懺悔室の扉が悲鳴を上げる。

 私は素早く緩めた背を引き締め、どんな愚行でも神の教えの通りの慈悲心で受け止める覚悟を固め始めた。

 薄い麻布越しにぺちゃりぺちゃりと柔い鰭が納屋の床に降り積もった土ぼこりを濡らす音がする。

 姫様だ、私は驚愕の中で確信した。

 姫様というのは、八年ほど前から我々の村でお世話さしあげている人魚様のことである。山を一つ越えた隣村まで荷を運んでいたユーリが村の近くの浅い川のそばで臥せってらっしゃったのを偶然見つけ、治療のため村まで運んできたそのときから、我々の溺愛のしようといったらなかった。

 人魚様は、聖典にある通り神のみ使いであるお方であるから、もちろん一番脂ののった魚をお供えし、身の回りのお世話も隅々までご奉仕させていただくのが信徒としての当然の義務である。しかし、そうだとしても我々村人たちの尽くしようは異常であっただろう。

 そもそも、姫様などという呼び方からして異様であった。たとえ神の御使いであろうと、王様のご息女ではないお方を「姫」などと呼称することは、偉大なる王家への侮辱ともとられかねない行為である。

 しかし、姫様のご尊顔がまるで儚げな傾国の美少女のようであったことと、お心がこの世の穢れを知らぬ赤子のごとくあどけなく、しばしば屈託なく笑われる仕草が正しく寝物語で聞いたような「姫様」そのものであったのだ。

 そして何より姫様を連れ帰り、数日お世話をしていたユーリがしきりに「姫様、姫様」と呼ぶのを、姫様ご自身がたいそう嬉しそうにしていらしゃったことから、我々の間ではしだいに「姫様」とお呼びすることが通例となっていた。

 また、姫様は大変虚弱で、陸での歩行や水中での生活も可能ではあったが、陸で三十分も歩けば腰が立たなくなり、水中でもすぐに水草に宝石のように煌めく尾びれを掬われる上、魚にシルクのような肌を破かれててあちこちにお労しい傷をおつくりになる有様だった。

 そんなにも美しく儚いお方をみすみす死なせることなど誰ができようか。

 我々は大して時間のたたないうちに、姫様のために水槽を用意し、またそれをなるだけ清潔な水で満たすようにしよう、お食事には毎度鮮度がよく村の中で一番太った魚を献上しようという取り決めがなされていた。

 見栄えのよい水瓶を大枚をはたいて隣村から仕入れることから始まり、果てには姫様の御食事を誂えるために自分の娘を売る者もいた程である。

 誠に遺憾で恐れ多いことではあるが、王家直属の騎士様が定期視察でいらっしゃる折にもこれ程まで至れり尽くせりと奉仕したことがあっただろうか。

 私のこの村での五十年間のうちに百年に一度ともないような豊穣を神から賜ったことがあったが、その年でもこのような身を削るまでの歓待をしたことはなかったであろう。

 やはり我々の姫様への対応は異様としか言いようがない。

 秋がなくなり、村が立ち行かなくなっても、なお村人たちの姫様への献身は続いた。

 あるものは家族で遠くへ越すための荷台を質に入れて暑さに魘される姫様のために氷を取り寄せ、例の姫様を招いたユーリという青年も姫様がこれまで通りの生活を送れるようにと家族とは決別して遠くの地へと売られた。

 そのようにしてまで重宝され、間違いなくこの村で一等良質な生活をされているお方にまで、吐き出さねばならぬような爛れた感情が巣くっているのだろうか。

 我々にとっての幸福と富の象徴である姫様の御口から普段の我儘とは一線を画すような不安が漏れ出てしまえば、私はどうすればよいのだろうか。

 私の渦巻く感情も知らぬまま、樽にぺたんと鱗で覆われた臀部が着地する。

「あの、ここは、ざんげしつ、よね?」

「ええ間違いありませんよ」

 少し息があがってお疲れのようであることがあどけないお声から察せられた。

 どうかそれが内に秘める恐怖や不安の表出ではなく、ただただ水槽からここまで歩いてきた疲労からくるものであれと願わずにはいられなかった。

 もはや我々にとっては変わらず姫様がお元気でいらっしゃられることだけが救いなのだ。

「えっと、その、わたくし……いわなきゃいけないことがあるのに、みなにいえなくて、たぶんあやまらなきゃいけないことなんだけれど、ゆるしてくれなかったらって、こわくて、こわくて、わたくしこわいの!」

「どうか、御安心してください。ここで話したことはすべて神の慈悲のもとで許されます」

「ええ!そうよね、かみさまはやさしいのだものね」

 ぱっと一気に明るくなった声音に、私も内心ほっと溜息をついく。せめて村人に知れる前に姫様の御悩みを取り除く必要があるから、できるだけ穏便かつ迅速に話を進めなくては。

「はい、その通りです。また、私もあなたのいかなる罪をも許します。それに、他の村人に言い伝えるようなことは絶対にいたしません。正直に罪を打ちあけてください」

 いつもの如く、ゆっくりとなるべく呑み込みやすいように易しい言葉を使って説明すると、姫様はだいぶ落ち着かれたようであったが、それでもなお少し躊躇った後に、ぽつりとお話になった。

「……あのね、あきがね、しんでしまったでしょう?」

 あきがしぬ、一瞬理解できなかったものの、すぐにここ三年の異常な天候のことを指しているのだと気づいた。

「ああ、そうですね、すっかり天候が変わってしまって……」

「ぜんぶわたくしのせいなのっ!」

 ぱさりと姫様の御髪が持ち上がる音がして、姫様は興奮のままに何度か大きく息を吸うと今度はぺたりと床を打つ音が聞こえた。

「うっ……ううぅぐっ」

 どうやらその場に座り込んで、ぐずってらっしゃるようだ。床と麻布のわずかな隙間から薄暗い室内でもなお照る鱗がのぞいていた。

「お、落ち着いてください。」

 村人たちの血のにじむ献身により、姫様の生活の豊かさこそ変わらなかったが、ただの村人たちだけでなく、お気に入りでらしゃったユーリまで遠くへいってしまったのが我々の想像より遥かにお心に障られているのだろう。呼びかけても嗚咽が絶えることはなかった。

「天候は神の司られえる所です。あなたはには何の罪もありません」

「うーうん、ちがうの」

 薄い布を隔てて小ぶりな頭を振る気配があった。

「違う、とは、何が違うのでしょうか? お聞かせください」

「あのね、ゆーりがね、あきになるといっつもどっかにいっちゃうの、だからなくなっちゃえって、あきなんてしんじゃえって、わたくしおもったの」

 秋に裁いた鬼熊を背負って隣村に売りに行くのは丈夫で力の強い上に聡明で商人との交渉が上手かったユーリの役割で、ユーリが隣村に赴くために二週間から一か月ほど村を留守にする度に姫様は寂しがっていらっしゃった。今となっては、すべてが懐かしい記憶の中のものである。

「だから、天候がおかしくなったのはご自分のせいだと?」

「……うん」

 泣いて掠れた声で頷かれるのが、身がさけそうなほどにお労しくてたまらなかった。

「そんな、あなたのせいなどではありません! どうか、そのようなことをお思いになって気負われることはおやめください。天候ががらりと変わるようなことなど、神の御業でもない限りは不可能なのすよ。あなたのせいなどではありません」

「うん、わたくし、だからかみさまにおねがいしたの」

「は、はあ?」

 何を言っているのか理解することができなかった。

 確かに姫様は時折、村に雨を降らすための対価として神のもとへ数日間お仕事をしに赴くことがあった。

 しかし、せいぜい一週間雨を降らす程度の効能であった上に、帰ってきたときの姫様の疲労のしようが痛々しいものであった。

 また、村の者たちは姫様を溺愛していたから、なるたけ数日の間でも遠くへやりたくなかったというのもあったであろう。ここ五年ほどは一年に三回ほどしか寄こしていない。

 であるから、可能であるはずがない。三年もの間天候を変えるなど、可能であるはずがないのだ。いや、可能であってはならぬ。

「わたくしね、わたくしね、たくさんおしごとしてたから、かみさまはすっごくわたくしをかわいがってくださっていたの! だからかみさまはね、たいかもなく、じひのこころで、あきをころしてくれたのよ!」

 頭が真っ白になる。まさか、まさか、まさか! そんなことがまかり通るのか。神が慎ましく生きてきた我々をこの畜生のなりそこないのような小童の我儘一つでねじ伏せるなど、そんな、ことが。

「お前のっ、すべて、すべてすべてすべてが! お前のせいだというのか!」

 納屋に怒号のあとの痛い沈黙と、喉の痛みを感じて初めて自分が叫んだことに気づく。

 何十年ぶりにもなろう理性を失う浮遊感の心地よさのまま、目の前の麻布を引きずりおろした。

「ゆるしてよぉ、ゆるして! はやくわたくしのゆーりをかえしてよぉ」

 美しい顔を縮ませて甲高く泣きわめく目の前の存在に対して思い浮かんだことは遠い昔に聞きかじったある噂だった。

 人魚の肉を食えば永遠の生を手に入れられる。

 そうだ、私は、この人魚めを食えば私は永遠に生きれるのではないだろうか。

 そうと思ったときには、手近にあった礼拝用の燭台を振り上げ、人魚の脳天に沈めこませていた。お綺麗な人魚の顔がぐにゃりと歪んで、圧に耐えきれなくなった目玉が飛び出す。

──ああ、やはり此奴の本性は醜い化け物に違いない。

 久しぶりの激しい運動に息が上がる。幼少期以来の暴力と狩猟だった。

 途端に息が乾いて柔い肌に噛みつくと熟れた果実の様に簡単に砕けて蜜を噴出した。鼻孔を満たす旨そうな肉の臭いに酔いしれ、迷わずそれを飲む。

 甘美であった。誠に甘美であった。

 満ち足りた幸福感ともっともっと、という飢餓が同時に脳を殴る。腹がいっぱいになるまでこれを食べたい。

 子ヤギ丸々一頭分ほどある肉塊をうっとりと眇めた。少なくとも今日は腹いっぱいになるまで食えそうだった。

 ゆっくりと唾を飲み込んだ。

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