有村蛍の恋と顛末⑥

 生徒に対しても敬語で話すような皆原先生がこれほどまでに人を威圧するような口調でまくしたてるところというのは初めて観測する現象であった。またこれほどまでに僕が人の本心を知りたくないと思ったこともなかった。これ以上、触れてはいけない。皆原先生と上手くやっていくことができなくなってしまう。


 「ま、待ってくださいよ。何を言っているんですか」


 「有村先生、残念だけれど、私は君の下手な演技に騙されてくれるような馬鹿ではないんです」


 僕は何を間違えたというのだろうか。どこで間違えたというのだろうか。身をすくめて答えを求めることすらままならない僕を見て、皆原先生はいつものようにニヤリと笑った。


「私は、お前のような人間を見ると反吐が出そうになるんですよ。俺は、私は、知っていますよ、あなたがどんな人間かをね。醜い性根を隠して、いかにも聖人君主と言わんばかりに、おれは、おれはお前の、ような人間が……うっぐ」


 皆原先生がえずいて背を曲げる。はっとしてとっさに立ちあがりそっと皆原先生の肩をやんわりと押す。


「ああ、ほら急に立つから……!」


「はあ、ははは、無駄ですよ。そんな、善人のふりを……はあ、う」


「もうその設定でいいですから、安静にしましょうよ」


 皆原先生は僕のさりげない自己弁護と掌の圧にさえ抵抗する気力がないのか、力なく壁にもたれかかるようにしてベットに座り込む。吐いた方が楽ですよと、ごみ袋をを差し出すもじっと吐き気が引くのを耐えるばかりだった。しかし、それは拒否というよりはむしろ僕に気を使った結果のように思えたのだ。皆原先生の黒々とした瞳孔には、あの剣幕の後でもそう思わせるだけの親しみのようなものが宿っていた。皆原先生の態度はまるで僕が隠し事をしていることに途方もなく苛立っているのと同時にそのことに対して四年間を費やしても培えなかった深い親しみを感じているかのような奇妙なものだった。


 そんなにうまい話があるはずもないなどと正気ぶっても、やはり僕の中ではもしかしてという気持ちが抑えきれなかった。皆原先生も僕と同じ気持ちだったら、そうだったらどんなにいいだろうか。それは、地獄にたらされたか細い蜘蛛の糸のようで、縋ってはいけないものだと解っていても掴まずにはいられなかった。


「はあ……ねぇ生物に詳しいのに、生物学を学ばなかったのかって聞きましたよね」


 先ほどの幽鬼のような気迫はなく、ただ萎れた声音を発する皆原先生に頷く。だいぶ前の雑談の内容をここにきて皆原先生が引用するというのに、僅かながらの意外性を感じ、そんな些細なことを覚えてくれていることに哀れな期待をくすぐられた。


 皆原先生は何故か生物に詳しい。始めてそのことを指摘したのは、一年目の年末に一緒に理科室の点検を任されたときだ。僕の説明もなしにテキパキと有毒な試料から優先的に点検をしているのを見て、大学も数学科出身で、担当も数学なのにやたらと試料に対する知識があるなあと思ったが、きっと受験科目で化学を選択したからだろうかと好奇心を収め僕も点検作業に集中した。


 しかし、そのときの僕にはごまかしようのない確信があった。この違和感こそが皆原由哉という人間の向こう側にある人格に触れる糸口であるという確信が脳を占拠していた。僕が戯れを装ってフグ毒の無毒化はどうするか知っていますか、と会話の戸口を開けると、皆原先生は僕よりも詳しいのではないかという程にテトロドトキシンについて語って見せたし、珍しく自分から会話を発展させてフグ毒による殺害事件の全容だとかをいつもより数度熱のこもった口調で淀みなく語って聞かせてくれた。そこで確信した、皆原先生の関心は化学物質ではなくて、毒に苦しむ生命にあるのだと。


 その後も折に触れて生物の話題を振ると高確率で皆原先生はかなり立ち入った話ができたし、それらはほとんど生物の死に関わるような話題だった。このことも僕が皆原先生と死体を関連付ける要因である。


 しかし、問題はなぜそれを今になって掘り起こしたのかということである。


「ええ聞きましたけど、確か数学の方が得意だったから数学科を選んだんですよね?」


 別に皆原先生はこの問いに対してなんら焦らしたりはぐらかしたりなんてしていない。はっきりとその場でそう答えたし、僕も特別そのことについて疑いはしなかった。


 僕が意図を汲めずに伺うと皆原先生は授業中に騒いでいる生徒を見るような目つきになる。僕がただ困惑しているのにゆっくりため息をつくようにじっとりとした声を紡いでゆく。


「俺はね、人がひどい目に遭う所を見るのがたまらなく好いているんです。人間というものを愛しているんですよ。嫌な目に遭っているのを見るとその……興奮する」


「こ興奮する……?」


 正直脳がとっさに認知することを拒否しているせいでまったく内容が入ってこないが、とりあえず皆原先生の深部が思ったより厄介なことだけはわかる。解りたくないけれど理解せざるを得ない。


「けれど、けれどもね、人を、生き物をいじくれるようになってしまったら、もう、耐えきれないでしょう? もう我慢ができなくなって、直接手を下してしまうかもしれません……俺たちの愛は叶ってはいけないものなのに」


 「……え、もしかして僕もセットなんですか?」


「お前も、人間が嫌な目に遭うのを楽しんでいるんだよな……?」


「僕が言うのもなんですが節穴なんですか? ちょっとかわいいですね」


「ごまかすなよ……お前も外面を取り繕いながら、腹の底では無邪気な中学生の腸を生きたまま引きずり出す妄想でもしているんだ……」


「そんなに僕の凶悪性に期待されても困りますよ⁉」


 自分の失言を相手がそれ以上の失言で払拭してくれたのに、これほどまでに有難く思えないことがあるだろうか。もしかしなくても目の前の男は教師どころか人間としてかなりまずい。こんな怪物に四年間接していて気づかなったことが悔やまれる。生徒たちの安全を守る教師としてあるまじき失態だ。これでも皆原由哉が好きなままな自分をまず処したい。


 ああ、皆原先生。一人称が「私」できっちり固定されていて、記録的な猛暑にさらされた年でさえワイシャツの第一ボタンが一ミリたりとも緩まなかった皆原先生が脳裏を横切る。あの水のように涼やかで静謐な男性はもうこんな深夜には自分の部屋のベットでぐっすり眠ってしまっているのかもしれない。


「ぁ、あっハァ! いやそ、あはははははぁはぁはぁ、いやそうなかお! 有村……有村先生、おれはね。人間が、お前のようなお優しそうな人間が心底嫌そうな顔をするのがね、大すきな、はっうぐう、うぅ……」


 であれば、このハイになっては頭痛でうずくまる人は一体何者なのだろうか。悲しいかな、360度どこを見ても愛しの皆原先生である。


「人が嫌がるのがすき……?」


 そっと皆原先生にごみ袋を差し出しながらいぶかしむ。


 ではあの皆原先生は、あの雑用を率先して行い、誰かのサポートで頻繁に残業していた、あの善意の塊みたいなのに愛嬌が一切ない皆原先生は、偽物だったのだろうか。愛おしい記憶に浸る間もなく、復活した皆原先生が口を三日月にしてひっつかむように僕の下あごを撫ぜた。


 即座に腕で頭を抱き込まれて、まずいと思うよりも前につうっと生暖かい湿ったものが歯列を舐め上げた。反射的に歯を閉じようとするとカチッと金属と触れ合う音がする。


「へぇあ⁉」


 皆原先生が混乱する僕を笑う吐息がそうっと頬をくすぐると、これ見よがしに口蓋をピアスで撫で上げた。


 ああ、そういえば、いつも口を手で隠して笑う人だったな。口内をもみくちゃにされながらする回想にはどうしようもない哀愁が染みついていた。でも、どうしよう、今でも皆原先生のことが嫌いになれる自信がない。現在進行形でかなり胸をときめかせている自分を殴り倒して正気に戻りたい。お前は胃酸を人の舌に練りこむ人間を好きになるような人間を好きになる程異常じゃなかったはずだ。


「あれ? これは嫌がらないんですね」


 皆原先生は雪ぐように麦茶を口に含むと赤くなったまま固まっている僕をクスリとせせら笑った。


「はは、男が好きだったんですね。同性愛者だとは気づかなかったなぁ」


「なっ、その言い方やめてください! ぼ、僕は男が好きなんじゃなくて、皆原先生が好きなんです!」


 いや、確かに初恋も数学担当の男性教諭で、なんならその人に憧れて教員を志したけど、不服だ。なんで好きになった人の性別ごときで自身をラベリングされて、男ならみんな好きなんだろみたいな雑な用語で括られなきゃいけないんだ。いや、別にその用語を貶めるわけではないけれど、断じてそんなつもりはないけれど、自分の内なる感情が、僕の手出しできないところで形成された概念で括られてしまえることが堪らなく嫌だった。好きな人にそうされるのは尚更嫌だった。


「でも、俺が男だから好きになったんじゃないんですか?」


 皆原先生は弁解するでもなく純粋に不思議そうにこちらをうかがう。上目つかいも良いなだなんて断じて思わない。断じて。


「うぅ、それはぁ!」


「もしかして違ったか?」


「そうですけどぉ……」


「そうなんだぁ」


 事実として、ポロシャツから浮き出るあなたの肋骨の形や、あなたのひっそりした喉ぼとけの影が大好きなのだ。けれども、そういう欲なしに人間として尊敬しているし、大好きなのも本当なのだ。僕は、皆原先生が好きだ。一人の人間として愛し合いたい。だから欲がないといったら嘘になるのに、欲だけというのも嘘になる。


 だが、それらを懇切丁寧に長ったらしく説明したとして、皆原先生は解ってくれるだろうか、解ろうとしてくれるだろうか。もしかしたら、見ないふりするのでは、いや、むしろ無邪気に嗤うのではないだろうか。


「あーあ……するならちゃんと告白したかったのに……キスも告白してからちょっとデートとかしたあとにしたかったのに……」


 気まずさを紛らわすように冗談めかしたもしもの話をする。本当に真摯な告白を受け入れて、ゆっくりと触れる場所を増やしていって欲しかったのに、こんな願いが汚らしくて矮小なものに思えて、ふざけたようにしか伝えることのできない自分がとにかく惨めだった。


 こんな僕を、僕が好きだった皆原先生はきっと嗤うのだろうな。そもそも人間の命の尊厳を踏みにじりたい人だものな。況やマイノリティの尊厳をやだ。


「まあ、それくらいやってあげますよ」


「えっ、は、はああ!? 何言ってるんですか!」


「え、それだけだとふふくか……?」


「大満足ですが!?」


「まんぞくなんだぁ」


「え、いや、でもそのっどういう風の吹き回しなんですか? 別に、あの……キスとかも僕が嫌がると思ってやったんですよね? つまりは、皆原先生はまったく僕に気がないわけで……」


 自分で言ってもかなり心にくるものがある。だがしかし、今までの話を聞くに、どう考えても皆原先生に僕に対する好感情は一切なかったとみなすのが妥当である。もしも今までの言動が好意の裏返し的なものだったのなら、あまりの感動に全米が泣かなくても僕が全米分泣く。


「もっとシンプルな話ですよ、有村。俺は昔っから運動なんてもんはからっきしでね、だから……先生に手伝って欲しいんです」


 「何を手伝って欲しいんですか?」


 「人殺し」


 「一旦落ち着きませんか?」


 皆原先生はにやりと笑って、けだるげに皮で骨を包んだだけのか細い腕を起こして、掌を僕の髪の毛の中にもぐりこませると丁寧にかきみだした。


「ありむら……先生が、おれにしてほしいことをやってあげます。かわりに、先生には人殺しを手伝ってもらいます。ギブアンドテイクですよ……平等な関係性って素晴らしいですよねぇ……」


 さんざん中学生を殺したいとか喚いておいて今更倫理に目覚めないで欲しい。


 ああ、これは毒だ。絶対に、決して飲んではならない。幼い人間を導く教師として、というかそもそも人間として、絶対にしては、ならないのに。


 僕の血潮はというと喜びで沸騰していた。だって、頼ってくれたのだ! 皆原先生が僕を頼ってくれた! 何なのだろうか、この情動は。明らかに自分が場に酔っている自覚があるのでそろそろ過去に戻りたい。皆原由哉がただの犯罪者予備軍なのは明らかなのに、どうしても嬉しい気持ちがあふれ出す。追い打ちとばかりに皆原先生の掌が頬を撫ぜた。


「僕が皆原先生にしてあげられることなら全てやり遂げます」


 正気に戻った時には、もう引き戻れなくなる決定打を打った後だった。ここまで自分の欲求に対する妥協がない発言をしたのは何十年ぶりだろうか。明らかに口を滑らせても謎の達成感しか感じなかった。


「あっハハハ、気軽に皆原でいいですよぉ……有村、せんせい」


 揺さぶられやす過ぎる僕を呵々大笑されているのが悔しいのにまだ皆原由哉が好きな自分が悔しい。この凄まじい恥辱の中で皆原由哉を嫌いになれない自分がいることに喜んでいる自分がいるのが恥ずかしい。このままではいけない。この身を侵すぬるま湯から脱しなければならない。そう決心を固めて口を開いた。

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