有村蛍の恋と顛末⑦

 このままではいけない。この身を侵すぬるま湯から脱しなければならない。そう決心を固めて口を開いた。


「僕のことは、その、蛍って呼んでください。僕も、その、ゆ、由哉って呼びますから、その」


 ああ、言ってしまった。


 ひとつだけ弁明したい。確かに口を開くコンマ一秒前までは、ふざけるなと一喝する予定だったのだ。それなのに最後の免罪のチャンスを逃してしまった。おしまいだ。


「うーん、そうですか? では……」


 絶望の入り口で、皆原先生は、いや、由哉は、少女のような薔薇色の頬を緩ませて、狂気じみた笑みを作りながら、骨の形に角ばった五指を差し出した。その笑顔と指先がすべて僕に向けられたものだと思うと、頭を強く殴られたときのような酩酊に襲われる。無意識に熱された唾を嚥下していた。


 蜜とアルコールで溶かされた脳でも、この手をとってはいけないことくらい解っている。今すぐにすべてを酔っぱらいの暴挙であり、趣味の悪い冗談でしかなかったのだということにしなければならないことくらい解っている。それでも、僕は両手で抱きしめるように由哉の手を握りしめていた。


 今ならすべてなかったことにできる。そう思っても行動に移そうなんて気にはさらさらなれなかった。


 だって、掌の肉が他人の骨の形に沈み込んで、他人の皮膚に自分の手汗が滲みこんでいく感触がこんなにも心地よいなんて知らなかったのだ。もうこの手を一生放したくなかった。


 あなたは、あなたはきっと、死体なのだとばかり思っていたというのに、これではまるで喉を焼き付けるような────


「これからよろしく、ほたるくん」


 皆原由哉は毒のような男だった。


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君食らわば毒まで きょむ太郎 @suraka

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